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記憶と記録①2022ver.「出会い」

周りにはほとんど言ってなかったのだけど、最近少しづつ話せるようになってきた私の病気のこと。治療がようやくひと段落ついて、気持ちがすっきりとできてきた。
だからこのあたりで私の人生の中でとても大きなことだった(もちろん今も)この約1年のことと、「宝物」との出会いについて少し記録に残しておこうと思う。あとは、きっと今まさに思い悩んでいる誰かの役に立つこともあるかな、と思うから。
これは自分にとっても忘れてはならないことだと思うし、書くことできっとさらに気持ちの整理がつく。実際いろんな人に面と向かって「実はこうでした」なんて話すのはもう今更だし、恥ずかしいし。人によっては伝えたくてももう会う術も話せる方法も今は見つからない人もいるから、いつかそれぞれがこの記事に気づいて読んでもらえたらもうそれでいいかな、と思ってる。気が向いたらXでシェアしよう。気が向いたらね。

■一番最初の違和感
昨年の11月上旬、大学院時代の同期の新居に遊びに行った。
2人とも外資系コンサルに転職したばかりでもっぱら仕事の話と新しい職場の話。いつもながらとっても楽しかった。
私もコロナ前までは月2回は海外出張していた人だったから、2人の仕事にはとても共感できたし、わくわくしたし、昼から飲んでたお酒も進んで夜20時頃にはフラフラの状態で帰途についた。
朝方ふと目覚めたときに手のひらが左胸の下になっていて、なんだか妙な違和感を感じた。毎年3月に受けている定期検診では何ともないと言われていた、ちょっとした違和感。気のせいかな?と思ったけれど、やっぱりなんだか気になった。
それに気を取られていたわけではないと思うけど、翌週、都内のとある場所へ仕事で行った時エスカレーター降りようと思ってよそ見してたら転んだ。違和感のあった左胸を強くぶつけてしまった。
ケガしたのと、先日感じた違和感もあって、いつも3月に受ける定期検診まであと4カ月だったけど、少し早めに診てもらおうと病院を予約した。

11月25日。先生は「3月に視たばかりだから、大丈夫だと思うけど。一応ね」と言いながらレントゲンとエコーを撮ってくれた。見せられた画像は3月のものから少し変わっていた。なんだか不鮮明でモヤモヤしたものが映っていた。先生は見比べて、
「うーん?3月にはなかったね、このもやもやね。ぶつけたのこっちだよね?打撲でも一時的な炎症でこうなることがあるんだけど・・・でも違う場合もあるんだよなー、、、うーん。一応生検しようか」
って言われた。
いわゆる穿刺吸引細胞診という生検。やったことある友人数人から「めっちゃ痛いよ」と言われてたんだけど、ウチの先生は腕がいいのか、麻酔からまったく痛くなかった。
生検を受けた日、ざわざわもやもやした気持ちを忘れたくて夜出かけることにした。その時の私にとって一番大切で信頼していた人が私を待っていた。瞬間的に涙が出そうになって堪えた。突然泣いたら意味わからんでしょそれ、って思ったし、今はまだうまく伝えられない気がした。
なんともないかもしれないし、きっと不安にさせる。不安定になりそうな自分も怖かった。何より同じ気持ちにさせたくなかった。きっと不安は伝波する。何も知らず楽しく過ごしてくれることが、私もいつもの自分で過ごせる唯一の方法だったから。
病理結果を待っている期間、約10日間がとにかく不安だった。大丈夫なはず、という気持ちと、もしかしたらという不安と。
不安定さはここからも来ていた。私が生検を受ける数日前に同僚が1人息を引き取った。私より10歳近く若い女性社員だった。私がその時まさに病理結果を待っている病気と同じ病気。みんなが動揺していたし悲しんでた。もし今私が悪性だったとしても、同僚たちには今は絶対に言えない、と思った。

■まさかの話
12月10日
、生検結果を聞きに午前中病院へ行った。
1時間半くらい待たされた。
待たされるというのはどういうことだろう?
なんともなければすぐに呼ばれるよね?やっぱりよくないものだったんだろうか。いや、何ともないから待たせてるのかもしれない。ドキドキした。後から来た人がどんどん先に呼ばれていく。怖かった。
やっと呼ばれて診察室に入ったら先生が生検結果を画面に映して、「結果から言うとね。乳癌でした」ってするっと言った。本当に「えっ?まさか…」って言葉が出た。すって顔から血の気が引く音がした。
ウチの親族には一親等、二親等まで見ても乳癌を患った人はいない。だから私も大丈夫だってどこかで思ってた。乳癌って遺伝性だと思ってた。
「でもね、気にしてたこのもやもやは癌じゃないんです。これはやっぱり打撲痕かな。でも、このもやもやの奥のどこかにあるんです。画像には映らなかったものが。でも生検では出た。かなり初期だとは思いますけどね」
って先生が言った。
「すぐに治療しましょう。しっかり治していきましょう。」
画像では映らない見えないもの。でも確かに存在するもの。
ずっと感じてた違和感。
どうして今なんだろう。
やっと、あの海外にほぼ住んでいるような怒涛の仕事の日々が終わり、日本でゆっくりと過ごせる日常が戻ってきて、ようやく最近落ち着いていろんなことに向き合える日々が始まっていたのに。
一番来てほしくないタイミングで病気がやってきた、と思った。どうしてあと20年、せめて10年遅く来てくれなかったの?と、その時は思った。
でも今はちがう。
たまたまこのタイミングで見つかったことの奇跡。
私の癌は腫瘤として画像には映ってくれなかった。だから触ったりしてもわからないし、画像にも見えない。だから場合によっては見つからない可能性もあった。
たまたま不注意で怪我をした。
だから病院に行った。いつもより5カ月ほど早く。
そのぶつけた打撲によってできた炎症=もやもやの塊があった。念のためそれを調べた。それは癌ではなかったけれど、奥にひそんだ見えないものをあぶりだした。
ケガの功名。結果それが、功を奏した。

そういう意味では私は昔から運が良い自覚がある。そういうベストなタイミングの引きも強いほうなんだと思う。病気になったことやタイミングはもちろん残念で悲しいし悔しいことなんだけど、可能な限り最良のタイミングで見つけられたのではないかなと思う。
もし打撲や違和感を次の定期健診の3月まで放置していたら、もしかするともっと大変なことになっていたかもしれない。

■出会い
「癌ですよ」って告知をされたこの日、病院からの帰りの電車の中で、詩央里ちゃんが代官山NOMADに出演するというLIVE情報を誰かのリツイートで知り、電車の中でそのままオンラインチケットを買った。開始は確か13時頃。
以前から詩央里ちゃんの名前は知っていたし話も聞いていた。「詩央里さん知ってる?きっと好きだと思うよ。とてもいいよ、聴いてみてよ」って、何人かが薦めてくれてたから。
聴いてみたいとは思っていたけどなかなかタイミングが合わなくて、LIVEも配信もその時点で一度も観れていなかった。
そもそも私はShowroomやツイキャスみたいな配信にはまったく興味がなかった。昔マスコミ関係で働いてた時の先輩からの繋がりで紹介された知り合いが、たまたまそれを使ってたからごくたまに見るようになったものの、それさえなければ存在さえ知らなかった。
普通にTV番組やサブスクで音楽や歌を聴くのは好きだったけれど、配信アプリで知らない人の音楽を聴きに行くようなタイプでもなかったから。
この日、16時頃から人と会う約束をしていたから、それまでの間1人でいると否応なく病気のことを考えて気分がどんどん落ちこんでしまうと思った。そしたら、たまたまこの日夕方までのこの時間をちょうど埋めてくれるタイミングに詩央里ちゃんが出演するLIVEが開催されるという情報を見た。
そんなきっかけだった。
でも、それは私にとっては観るべくしてやっと訪れた特別なタイミングに思えた。

そしてLIVEを見た。感動した。

声も歌詞も、画面越しに伝わってくる彼女のひたむきな想いもパワーにも圧倒された。「この人の声も歌もすごく好きだ」って感じた。この歌詞と音を作り出すその身体の中に秘められた膨大な言葉と音の量は彼女の想いや考え、感情とイコールだと思ったし、それを持つ精神力にも惹かれた。
その時のセトリがわからないのが残念だけど、心をすっと強くしてくれる歌詞に出逢った。それをもう一度聞きたくて気づいたらYoutubeを漁ってた。
詩央里ちゃんのLIVE中、私の中に病気のことはすっかり無くなっていた。
そしたら夕方の約束の時間にちょっと遅刻してしまったんだった。

■「たからもの」とは
この病理結果が出た日、もともと人と会う約束をしていた。
その時の私にとって、とても大切だった人。
私にとってのベストなタイミングでいつも私が望むことや時間、言葉をくれた人。たぶん私を理解し、とても尊重してくれていた人。言った私がすっかり忘れているような小さくてささいなことでも本当によく覚えてくれていて、いつもそういうことに気づき、考えて行動してくれてた人。
気づきという感度や勘という意味でも、この人はもともと不思議と波長が合うと思っていたし、私の思考や心情を知らないはずなのに絶妙なタイミングで言葉や行動に表してくれる人で、いつも内心驚いていた。
もちろんたまには「は?何言ってんの?」と思うこともあったし、ふいに見せる態度に嫌だなと思った部分もある。でも、そういう色んなタイミングや感覚が合う人だということは以前からわかっていたし、何より行動すべてが温かかった。
そして、やっぱりたまたまこの日に会う約束ができていたことは、改めて今考えても不思議だし本当に感謝している。この日とこの夜ずっと一緒にいてくれたから、この辛かった告知の日を乗り越えられたんだと思う。

この日、もし詩央里ちゃんのLIVEが無ければ、そしてそのあとの約束もなかったら、病院のあと、そして夜も、たった1人で過ごしていたならば、私は一体どうしていたんだろう?不安や恐怖、苦しさ、悔しさ、哀しみ、、、どれとも判別つかない感情と1人向き合って何を考えて過ごしていたんだろう?想像すると恐ろしい。
病理結果の日程がその日に重なったのは後の話で、この3つの出来事が同じ日に重なったのは本当にたまたまだったけれど、この日、私はこの2人の存在に本当に救われた。この偶然を誰に何に感謝すべきかはわからないけど、この日、2人は私の宝物になった。

12月23日、MRIの結果と手術内容についての説明がある日。母も日帰りで東京へ来て、一緒に今後の話を聞いた。
MRIの結果を見て手術内容が決まるとのことだった。特段、他部位への転移みたいなものは見当たらなかったと聞いて本当にほっとした。
「それで、1月下旬に手術で全摘しましょう」と主治医に言われた。

全摘?

先生は「全摘って言っても左の皮下乳腺の全摘ですから、術後は中に自家組織かシリコンを入れて見た目は元通りにします。キズもなるべく小さくして目立たないようになるから。まだ若いし、そうしましょう」って言った。
母は「部分切除じゃだめなんでしょうか?」って聞いた。
先生は「うん。全摘のほうがいいです。部分切除だとやっぱり不安がある」と言った。
動揺はあった。これによって何をどこまで失うのか想像がつかない。悪いものは取らなきゃいけない。それだけは唯一理解できた。

この日、12月23日はもともと #詩央里 ちゃんの横浜でのワンマンLIVEの日だった。例の12月10日のLIVEを見たあと何度か配信にも行ってすっかり大好きになっていた。行けたら現地に行きたいと配信のコメントで伝えてあった。でも手術に関する説明の日だったし、何を言われるかわからなかったし結果次第での自分の心境が測れなかった。LIVEに行ける心境にあるのだろうか、と。結局、行かなかった。行けなかった。
知らない人ばかりの場所にこんなに自分でも向き合えない動揺を抱えたままの状態で、とても行くのは無理だと思った。夕方行けない理由を無理やり作るように会議を入れて仕事をした。ホラ、行けなかったじゃんと自分自身に言い訳するためだけに。LIVEはオンラインで家で一人静かに見たことを覚えている。
LIVEは本当に素敵だった。声に映像に癒された。歌詞も響いた。心が温かくなった。見ている間はやはり締め付けられるような不安を忘れられた。

LIVEが終わって現実に戻ったら再び病気のことが徐々に頭を心を支配する。ごはんも食べられないまま夜になって、他の人の配信を見ていても心は晴れない。今日はちゃんと眠れるんだろうか、と思った。
そしたらふいに電話が鳴った。驚いた。
ビデオ通話だった。
「もう寝ようと思ってたから、すっぴんなんだよ」と伝えたら、「別にいいじゃん。ちょっと付き合ってよ」ってその人は明るく笑った。そして、ほとんど眠りにつくまで、向こうから電話が切られることはなかった。向こうが眠ったのを見て電話を切った。その日の夜は本当にゆっくり寝られた。
もちろんこの時点で何も、何一つ伝えられていなかったから、全く知らないはずだった私の状況。言えなくてごめんね、と思った。いろんなことが言えてない。私は自分のことになると、こんなにも弱い。
でも、この人は本当になんて人なんだろうと思った。こうやって、いつも私が必要なタイミングでほしいものをくれる人だった。だから気づかないうちにそれに甘えすぎていた。
詩央里ちゃんもその人も、もちろん本人たちにはきっと何一つ自覚がないことで「そんなのたまたまだよ」って言うだろうし、もちろんその通りなんだけど、詩央里ちゃんのワンマンLIVEの日に重なってしまった手術内容の告知の日。そして夜遅くにかけてくれた1本の電話。この日、はからずも私はまた2人に救われていた。

■弱い自分を自覚する
年末はずっと術前検査だった。
おそらく初期だろう、とのことだったけど、わからないから、MRIで全身の状態を確認したり、様々な検査をした。
そんな状態でも私はまだ他人に病気のことを告げられずにいた。誰1人にも。それは伝えられるほど冷静な心理状態ではなかったんだと思う。
誰に何をどこまでどうやって伝えればいいかが判断がつかない。仕事でいろんな判断をしてきたつもりだったのに、自分のことなのにどうしたらいいか決められない。そんな経験も初めてだった。そもそも私は伝えたいのだろうか。この時点でまだ向き合えていなかった。
誰かに伝えた瞬間に、他人と自分の世界に境界線ができるような気もしていた。病気ってわかったらもうこれまでの私としては見てもらえないのではないか。かわいそうとか、死んじゃうんじゃないかとか、仕事できるの?とか、もう他人が私に求めているものは、私にはできないんじゃないかとか。
自分の価値が全てひっくり返るような気がしていた。
その時の私はとにかく自分が失うものを勝手に数えて想像して、起きていないことに不安を感じて身動きがとれずにいた。
それに、手術してみないと結局、私がおびえているその正体も未だわからないままだった。それがわからないと治療法もわからないから他人にも伝えられない。いたずらに伝えるのは良くないと思っていた。
相変わらず画像検査でもMRIでも感覚でも、やっかいな癌はまだ息をひそめてその姿も存在感も現していなかったから。正体不明のままだった。
とにかく、1月に無事手術を受けること。全摘すること。そのために検査を受けること。風邪をひかないようにすること。
そして、その正体を暴くこと。それだけが私を日々前に動かしていた。

2023で続きは書こう。2022は、おしまい。


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