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懐かしい気持ちに胸がやわらぐのはなぜだろう

懐かしい気持ちに胸がやわらぐのはなぜだろう


思い返せば、僕は昔に比べて随分とドライな人間になった気がする。
三人兄弟の末っ子に生まれて、山と海に囲まれたところで育った。

こうした字面で見ると、人情の厚い場所で育ったかと思われがちだがそうでもない。小学校も中学校も人数が少なかったので、嫌いな人だろうと相性の合わない人だろうと毎日顔を合わさなければならない環境だった。なので、協調性が身についたとは思うが、だからといって誰もがみんな仲がいいとは限らない。

実際のところ、僕が地元の友達と遊ぶとなったらそれは高校以降に出会った友達と会うことが多い。小学校、中学校のメンバーとは随分と会っていない。それは僕だけが随分と会っていないというわけではない。むしろその逆で僕がまだ一番その頃の同級生と会っている方で、他の人からしたらもっと会っていないと思う。


僕は小さい頃にずっと思っていたことがあった。


それは、死ぬときはみんな一緒がいいということだ。


僕が小学生の時はノストラダムスの予言がそろそろ本当に起こるかもと言われていた時だった。
僕は得体の知れないこの大予言がなんとも不気味で怖かった。

そして、川本真琴の「1/2」の歌詞のように、この星が爆発する日は一つになりたいと思っていた。

僕の世界はあまりにも小さかった。


家族、近所のおばちゃん、学校のみんなに先生。
そんな人たちが自分の周りからいなくなったら生きていけないと思っていた。
その中で優先順位を決めると、その優先順位から外れた人が本当にいなくなったらどうしようと思っていたから、死ぬときはみんな一斉に死にたいと眠る前にいつも思っていた。


歳を重ねて小学校を卒業し、中学生になり、高校生になって少しずつその意識も変わっていった。


離任した先生や、高校が別々になった幼馴染、初めて付き合った彼女との別れ。


ごくごく当たり前の経験といえばそれまでだが、いつでも会えると思っていた人がいつか会えるに変わり、いつか会えると思っていた人がもう会えないになった。
こと恋愛に関してはいつでも会いたいと思っていた人が、もう会わないでおこうになった。


なので、人との出会いとはそういうものだとフタをしてきたのだが、時々その隙間から顔を出す時がある。

それは、寝ている時に夢の中で懐かしい顔として出てくる時もあれば、白昼夢として記憶の物陰から匂いを運ぶように現れることがある。
そんな時は決まってやさしい気持ちになれる。


懐かしんだところで何も変わらないし、実際に会えたところで話す言葉も見つからないかもしれない。
それでも同じ時間を共有していたことを何年か越しに再確認できたことはとても嬉しい。

この嬉しさを誰かと共有できることができないのがとても残念だけれど、想いを留めたくてこうして宛のないような文章をしたためている。


もし、自分の記憶を抽出してそれをVR空間で表現する機械が発明されたとき、僕はその空間に身をおくだろうか?
VR空間に身を預けるということは今自分が関わり会っている人に対してとても失礼なことかもしれない。一度その空間に入れば二度と帰って来れなくなるだろう。
それでも会いたいと思うかもしれない。きっとその答えは誰にも責めれないだろう。


ただ今言えることは、懐かしい気持ちに和らいだ心を受け入れておだやかに生きようと思う。


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