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アーレント:『精神の生活』

比較的人気のある哲学者アーレントです。今回は、彼女の哲学(の内容)について、最新の研究成果をできるだけ踏まえながら紹介します。もちろん、中心は人物紹介になります。結果としていつもより文字数が多くなりましたが、興味があるところだけでもどうぞ。

はじめに

 全く初めての人を念頭に紹介すると、ハンナ・アーレント、女性です。珍しいですね(小並感)。
 アーレントが人気である理由は、いくつかあると思います。現代に近いということももちろんですし、ナチスの批判が基調でありつつ、現代の大衆社会やナチスではないけれど、同じ様な全体主義に対する批判など、現代社会の闇を鮮明に「問題化」したからということもあるでしょう。
 小ネタですが、本人は自分のことを哲学者と規定しませんでした。あるインタビューでは、「あえていえば、政治理論家」と答えています。このことの背景を細かく紹介することはできませんが、私たちから見て、哲学者と思って、基本的に問題ないと思います。むしろ、かなり哲学の基礎知識がないとアーレントの著作は理解不能である、というのが実際のところです。ぶっちゃけ「気軽に読める」と思うと、おそらく挫折する、ということをお知らせしておきます。私なりの表現としては、限りなく哲学的な言説の政治理論についてのジャーナリスト、といったところでしょうか。ジャーナリストなので、時事ネタを扱うわけですが、それでとっつきやすいと思ったら、哲学の知識量でボコボコにされる。そんな感じです。

どんな人物・なにをした

 時代背景は、第二次大戦を経験したこの時代の哲学者たちと同じです。

学生時代

 生まれはドイツ。ユダヤ人の家庭の一人娘です。両親はユダヤ教の信仰はなく、社会民主主義者(ようするに政治的関心と交流の多い家庭)でした。学校(ギムナジウム)での成績は優秀。本人は政治には無関心でしたが、学校の先生が反ユダヤ主義的な発言をしたことに対しては、授業のボイコットで対抗。退学処分になります。
 14歳という年で哲学を学ぶことを決心。カントやキルケゴールを読んでいたそうです。ま、控えめに言って、凡人とはレベルが違うということでしょう。大学入学資格試験に合格し、マールブルク大学で、(『存在と時間』出版前の)ハイデガーのもとで学ぶ。ハイデガーとは一時、愛人関係であったことは有名ですね。ハイデガー側から言えば不倫です。ま、その関係をやめるという意味もあったのでしょう、ハイデルベルク大学に転学して、ヤスパースのもとで学びます。アーレントにとってヤスパースは、終生「父親のような存在」だったそうです。

結婚、離婚、再婚――亡命

 学生時代の友人と結婚。相手はフッサールやハイデガーから一目置かれる青年で、お互い論文を読み合ったりしたそうです。一方で、同棲していた家の家賃が払えなくて、ダンスホールで寝泊まりすることもあったなど、学生らしいエピソードもあります。
 ヒトラーが首相になった年、ゲシュタポに逮捕され、8日後に釈放。フランスに亡命。ここから(アメリカの市民権を得るまで)18年間「無国籍者」となる。ちなみに、もともと政治に関心を持たず、哲学を学んでいたアーレントを哲学と決別させたのは、ナチスの政策に自ら賛同していった(哲学の)知識人たちの言動ゆえのことです。
 フランスで一人目の旦那と離婚。二人目の旦那と結婚。
 そして、二次大戦勃発。これ、どういうことになるかというと(ユダヤ人かどうかではなく)フランスにいるドイツ人(=敵性外国人)ということで、フランスの収容所に入れられることになります。で、ドイツがパリを占拠した混乱に乗じて収容所を脱出。その際、偶然に(既に知り合いであった)ベンヤミンと会い、彼の草稿を託されるという話は、感動というより、涙なしには語れないエピソードです(ベンヤミンは別ルートで亡命を試みるも、それが不可能な状況に陥り、自殺)。
 アーレントは旦那と一緒にニューヨークに居を構えます。すぐにお母さんも合流。
 ベンヤミンの草稿を、アドルノに持ち込むんですが、協力的な対応を得られなかったそうです。そういうこともあって、アーレントは(かなり問題意識が近いのに)フランクフルト学派に対しては、常に懐疑的でした。
 英語は当然、喋れないし書けないわけですけど、集中的に学んでさくっと習得。その後は、新聞のコラムニストとして活躍し、後に編集顧問になったりします。あと、ユダヤ人関係の研究会の調査主任になっている……というか、これはフルタイムの仕事だったので、この時期こっちが本業ですね。

終戦後

 戦争が終われば、当然ヨーロッパにも行けるようになります。基本、アメリカに住んでいましたが、アーレントはよくヤスパースのところに行っていました。あと(例えばレヴィナスとかと違って)特徴的なのは、ハイデガーとも友好的に再会します。そのことで得ることができたのは、ハイデガー後期の哲学思想です。これは、同時代の同じ様な境遇の哲学者たちが得ることのなかったものです。

『全体主義の起源』の出版以後

 一つ目の主著といえる『全体主義の起源』を出版してからは、大学で講義をする機会が増えてきます。客員教授を引き受けることもありました。
 二つ目の主著『人間の条件』を出版。そして、(映画にもなった)アイヒマン裁判を傍聴し、そのレポートを『ニューヨーカー』に連載(後に『エルサレムのアイヒマン』として刊行)。詳しく紹介できませんが、その内容のせいで(いままで味方だった)ユダヤ人の知識人たちからの評判が、まぁ悪く、親しい友人たちに絶交もされるし、また、その非難が長い時期続くことになります。
 その後は、いっぱい本を出すんですが、遺作となったのは『精神の生活』で、3巻中、最後の1巻が書かれることはありませんでした。死因は心臓発作。自宅で亡くなります。

読むならこれ!『精神の生活』

 なぜ未完の本を薦めるのか。上の経緯がその理由の一つです。アイヒマンに関する知識人たちからの非難は、アーレントにとっても難題で、逐次(本の改定の際など)、説明なり、本来伝えたかったことの整理などを発表することになります。このプロセスは、アーレントの思想にとって重要なものであると私は思っていて、ようするにアイヒマン以降の哲学的主著だから、ということです。
 一つだけ例を挙げると、アーレントが理想的な政治的判断力の前提として考えていた、コモンセンスだったり、相手への共感や、文化的伝統の共有というもの(一括して、いい意味での「利害関係」)は、全部むしろナチスに利用されたものなわけで、そのような前提を捨ててもあり得る政治的思考こそ考えられないといけないものです。その一つが利害関係から一旦手を引く(参加の拒否)というアイデアだったりするのですが、なんとなく、本の題名の一部が見えてくるでしょう。

アーレント(哲学)に対する誤解?

 言い換えると、アイヒマン以前の本は、かなり誤解されていると思っています。というか、私自身、そういう意味の誤解はありました。うーん……ここは書き方が難しいのですが、必ずしも誤解ではないんですね。実際に読んだ上での印象ですから。例えば、アーレントが理想にしてるのって、古代ギリシャの政治だよね、とか、(民主主義はだめだから)ローマ帝国時代の評議会制度推しってことだよね、などです。確かにそういうふうに書いているんですが、そこでアーレントのことを分かったと思ってしまったら(私のことです)、理解が浅いと……いうことになります。
 ただ、過去に例えば『人間の条件』を手にとった人で仮に同じような感想を持った方がいたとしても、それは無理ないです。というのは、アーレント研究はアメリカを中心に現在進行系で、最新版の全集も刊行中だからです。そして、それら、精密なテクストに基づいて、アーレント哲学の研究も、(研究者レベルで)深まっていっているところなんですね。
 研究が現在進行系ということと、もう一つ、アーレントは英語とドイツ語、2つの言語で書きました。英語の『人間の条件』にあたる本の、ドイツ語版は『活動的生』です。これは同じ本なんですが、タイトルだけでなく、中身(正確には内容でなく、内容に対するアプローチ)が若干違うんです。アーレント本人が、政治的なテーマは英語の方が表現しやすく、哲学に関することはドイツ語の方が深く書ける、と言って、分かった上で違いがあるということです。

アーレント理解の見取り図

 さぁ、そういったいってみれば細かいことは置いておいて、アーレントが何をテーマにしたのかをざっくりみること、実はこれ、とても簡単です。
 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)を分解して――国家(が個人に与える諸権利)、社会労働。こいつらをボコボコに批判します。社会(あるいは社会性とか社会的という言葉)って、今ではなんとなく……しかしながらある種の確実性を持って良いニュアンスを伴っていますが、アーレントからすれば、公(パブリック)的なものと、私(プライベート)的なものの、間に入ってきて、その境目を曖昧にするもの。社会というものが、そもそも画一性を押し付けるもの。結果として、公的なものを侵食し、全体主義への道筋をつくるのが、社会です。意外でしょ。私たちの日常(あるいはビジネス)での言葉づかいで、公的と社会的をイコールでつなげていませんか? そんなある種の常識こそ、公的なものへの無知の表れ(もしくはチープな思考)だと、アーレントは言うでしょう。
 労働については、主にマルクス哲学(ひいては、ソ連という全体主義的国家)への批判です。アーレントからすれば、労働ってのはあくまで私的な(つまり生計を立てる)ものであって、労働してれば社会の役に立ってるみたいな、浅っっさい考え(というよりも、もはや無思考)が、政治への無関心を生んでいる、となります。こういうのも、現代の私たちにぶっ刺さりますよね。

アンビバレンス(両義性)

 このように、アーレントが問題にするものは、分かりやすいのですが、それに対する思考プロセスは、とてもむずかしいです。この難しさの抽象的な原因は、光の哲学を疑いながら暗黒に陥らないようにしているから……

なんですが、関連して他の両義性も沢山内包しているからです。例えば、経緯でも言及しましたが、哲学と決別しているのにすごい哲学用語を使ってくる、というのも表面的ですが一つの両義性です。
 その他、ちょっとだけ例を挙げますね。
 アーレントは、かなりの分類好きです。明らかにアリストテレス風と言えるでしょう。しかし、ハーバーマスとかと違って、理想状態(目的)を描いて、それが現実とは違うことに意味がある、みたいな、そういう分け方をしているのではありません。もっとジャーナリスティックに、目の前の課題への回答を導くための手段としての分類なんです。したがって(と言っていいと思いますが)、アーレントの哲学に体系はないです。
 アーレントを読むには哲学的素養が必要だと書きました。実際にカント哲学のキーワードが沢山出てきます。ところが、そのキーワードが、伝統的なカント哲学のニュアンスと、違う意味で使われていることに気づかないといけません。ところが、アーレントは、この箇所は違う意味なんですよと、親切に教えてくれません。だから普通は伝統的な意味で読んでしまいます。つまり、哲学的素養が、こういう場合には邪魔をします。アーレントが、哲学と決別したから、きちんと哲学用語を理解していないだろうというのは、間違いです。カントについては、ヤスパースにバッチリ習ってますし、独学でのマルクス研究においても、(下敷きであるヘーゲル哲学の理解を含め)かなり高水準でマルクス哲学を理解した上で、あえて特定のワードに偏ったニュアンスをもたせて批判している節があります。
 そしたら、アーレント独自のキーワード(複数性とか)から入っていけばいいかというと、その説明に伝統的な(しかし意味のズラされた)哲学用語が使われているので、やっぱり哲学的素養なしでは、無理ってなります。ちなみに、伝統的なニュアンスがポジティブな意味でそのまま使われていることもあります。だから、さらっと読むと、例えば「現代風にカントを再解釈してるんだな」と思う人がいても、無理ないんですが、アーレントは真理なんてもんは百害あって一利なしというところからスタートしています。その証拠に、『純粋理性批判』も『実践理性批判』も、全く重要視されません。むしろ『判断力批判』(のしかもカントからすればかなりどうでもいい部分)を取り上げて、そこに現代的意義を見出しています。

現代的評価:★★★★★

 上に挙げたものは、ほんの一部です。アーレントがテーマにする、自律、自由、責任……こういったものに対して、私たちが素朴に連想する意味合いをぶっ壊し、新たに意味づけを行うところに、現代的意義があります。社会の話も、労働の話もそうです。アーレントを理解したら、私たちの日常的な言動に潜む全体主義的な要素――その根深さ、数の多さに愕然とするでしょう。そのことに誠実であろうとすると、常識がぶっ壊れます。そういう危険性があってこその、最高評価です。
 あえて脇道に逸れると……ですが、アーレントの研究者たちは、その種の誠実さをどう解消しているんでしょうね。と思ったりします。

私の考えるアーレント哲学の欠点

 とはいえ、あらゆる点で賛成しているかというと、結構違います。言葉で表現するなら、あくまで光の哲学に留まろうとしているな、という印象を持っています(こういうのを哲学の「筋が違う」と言います)。それに直接関係するわけではないのですが、私が思う、アーレントが取りこぼしているものを、参考までに書いておきます。
 こういうテクニカルな話題を堅苦しくしないためにぶっちゃけトーク風でいうと、アーレントはバカをバカにしています。ある種の差別ですね。そういう意味では、理想主義です。
 ちょうど逆のポジションで政治を論じたのがスピノザだったといえます。スピノザの記事で紹介しましたが、スピノザはバカなマルチチュードをあくまで政治主体として考えました。この現実主義はじめ、アーレントは終始スピノザに批判的でした。
 さて、私なりの具体例は一つにしますが、アーレントが、開かれていることが人間(存在)だ、としてそこに公的なものの可能性を見出すとき、ASD――Autismの人が(脳的に)閉じていることをどのように回収するのでしょうか。おそらくできないと思います。光の哲学の限界はそういうところです。

さいごに

副読本と関連文献の紹介

 哲学者紹介の記事では、基本的に副読本の紹介はしていません。きりがないし、そういうのを見るだけで堅苦しくなるからです。ただ、アーレントのように現在進行系で研究が進んでいたり、テーマが散逸していて、一冊の本では現代的意義をあまりに取りこぼしている場合は例外的に紹介するのもありでしょう。

様々な著者による共著ですが、大変読みやすく、また沢山あるアーレントの本のリストや、アメリカでの最新の研究にもアクセスできるとてもよい副読本です。もちろんこの記事を書くために参考にした本の一冊でもありますが、紹介できている内容などほんの一部なので、気になる方は是非、手にとってみてください。

フランスのアーレント研究(「政治的なものについての哲学的研究センター」1981-84)に参加した一人であるランシエールのこの著作は、アーレント哲学の現代的テーマをラディカル(先鋭的、根本的)に描いた良作だと思います。アーレントが好きな人ほど、おすすめしたい一冊といったところでしょうか。

 あと、単なる感想ですけど、『精神の生活』、高っかいですねぇ。お金持ちしか哲学できないのかな、ってイラつきます。もちろん出版業界事情は知ってますよ。日本語で読めるだけ感謝しろって(以下略)

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