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キュートであること、学ぶこと

可愛い人でありたい。

10年くらいずっと思ってる。毎日欠かさず思ってる。星を見つけたら祈ってる。「とびきり可愛い生命体になれますように」って3回言ってる。嘘です。

可愛いっていうのは何ていうか、顔面だけの話じゃなくて、その人と接して不快になることが少ないような人。あの人っていいよね、可愛らしい人だよねって言われていたい。ずっとそう思って生きている。

可愛さとか美しさとか、そういうものを明確に理解したのは多分10歳くらいの時だったと思う。よく遊んでいた公園で、年下の女の子たちは私と同世代のAちゃんにばかり懐いていた。私はまあAちゃんの方が優しいし明るいしそりゃそうか…くらいに考えていた。でもある時その子たちから衝撃的な発言を聞くのである。

「Aちゃんは1番可愛いから好き!」

鈍痛。

何か重めの石で殴られた感覚だった。それまでの私には全くない価値観だったから。可愛いと好きがイコールになることがあるのか。可愛いから好きなのか。可愛くないと好きじゃない場合があるのか。

そして改めて自分の顔を鏡で見てみた。

…確かにAちゃんの方が目がぱっちりしてるかもしれない。服もオシャレかも、髪型とかもいつも可愛いし。

…もしかして私って可愛くない?

これが私の「美意識」の誕生である。悲しいエピソード過ぎ。今すぐ抱き締めてあげたい。

気付きを得たものの、それまで可愛いという価値基準に驚くほど無頓着だったのでまずは周囲を観察することから始めることにした。可愛いと言われる人はどんな人なのか、どういう状態は可愛くないのか。その傾向を掴みたかった。

このスタートで良く醜形恐怖症にならなかったなと思う。変に精神年齢が高く可愛げのない子供だったお陰で、「外見を磨く」という新しいキーワードを悲観することなく自分の中に落とし込むことができた。よかったね。

そして日々の熱心な研究により、色々なことが分かった。目は一重より二重の方がいいこと、平均より太っていると好ましくないこと、顔立ちだけでなく笑顔や穏やかさなども大事であること。エトセトラ、エトセトラ。

今思うと可愛いって絶対にそういうことだけじゃないし典型的なルッキズムだしこんな物差しを持つな!愚かな!と叱りたいけど、当時はこれが私の周りが思う「可愛い」だった。10歳そこそこの少女には、それが良いことか悪いことかの検証まではできなかった。

だから上記のようなものを満たす女の子になろうとした。この時の私は可愛くなりたくて必死だったというより、自分が知らない世界に追いつこうとしていたのだと思う。知らないことは不安だ。不安だから形だけでも「知っている人たち」と同じようになりたかった。


具体的に何をしたかはあまり覚えていないものの小学生なりに色々なことを変えようとした。変えようとした結果、面白いことが起こった。

なんかちょっとだけモテたのだ。

おもしろ。

私が明るく優しく可愛らしく振る舞うことで、優しくしてくれるようになった男の子たちがいた。私はこの現象に素直に「すげー」と思った。私は私のままなのに、外見や立ち振る舞いがほんの少し変わるだけで世界は私を好意的な目で見るようになるのかと。

でも私は別に超絶キュートな女の子になれたわけではない。私の顔の造形はちょっと能面っぽいし。まあ所詮付け焼き刃の可愛らしさだったので、このおもしろちょいモテムーブはすぐに過ぎ去った。無念。


あと「可愛らしさ」に気を取られていたことで、中学に上がった時に強そうな女性たちからぶりっ子だと言われる事案が発生した。

これも私にとって衝撃だった。

「ぶりっ子…そうか…私のことか…」と神妙な顔で考えた。ぼんやりし過ぎである。

私が通っていた中学校はお世辞にも治安が良かったとは言えず、潰されたくなければ潰せ!という校訓が掲げられていたため、私は焦った。こんなところで敵を作っては確実に死ぬ。私は気なんて強くないし何しろぼんやりしている。

だから自分の中の「美意識」をアップデートさせた。これは私をぶりっ子呼ばわりしてきた失礼な女性たちから学べることがあった。彼女たちの間の「可愛い」は「顔の造形がキュートなのにそれを鼻にかけない性格の人間」らしい。

なるほど、と思った。

だからそのように振る舞ってみた。私の顔の造形がキュートかはさておき、外見に気を遣いつつもなるべくそんな素振りは見せないようにした。生まれて初めて周りからどう見られているかをちゃんと考えるようになった。遅すぎる。

こういう努力を馬鹿げている、周りの目ばかり気にしてと言う方もいるでしょう。でも私にとってはかなり大事な経験だった。何しろ私はぼんやりしていて協調性のない子どもだったので、人と上手くやるためにはかなりのエネルギーを要していた。だから対人関係をなるべくルーティン化する必要があった。どう振る舞えば人と上手くやれるか、周囲から浮かないか。これを必要最低限のエネルギーで出来るようになったことで私はあまり疲れなくなった。

多様性など微塵も考慮していないカスみたいな環境ではあったが、少なくとも私は中学時代「可愛いの概念」を通して人間関係を学んだ。普通の人はこういうのをもっと自然に身に付けられるんだと思う。それは私も流石に気付いている。でも私は無理なのでこうやって多少痛い目を見ることで(全然見たくないけど)結果としてどうにかなったとも言える。(ぶりっ子って言ってきたやつの顔全員覚えてるけど)



こんな感じで美意識などを通して人より遅めに社会の色々なことを学んでいった私であるが、よくルッキズムに縛られずに大人になれたなと思う。ルッキズムとは、容姿が優れていることがその他の優劣をも左右するというような考え方です。外見至上主義とか。

冒頭でも述べたけど、私は可愛くなりたいというより、可愛い人でありたいと思っている。外見はなるべく自分が自分を好きでいられるような形で、中身は朗らかでキュートに、そう思って生きている。

それは多分お勉強をしたからだと思う。

私はずっと学ぶことが好きだった。高校、大学と物凄くいい所ではないけどきちんと勉強してきたことを評価してもらえるところに行った。

そしたら世界はかなり広がった。

そこは本当に色々な人がいた。多くの人が世界のあらゆることに関心があって、自分の意見を持っていた。何を言っても笑われることはなかった。恋をしていてもしていなくても、人に興味がなくても誰もそれを咎めたりしなかった。

とても優しい世界だった。そりゃあ嫌なこともあったけど、誰かに悪意を持って傷つけられるようなことは多分なかったと思う。私がぼんやりしていただけかもしれないけど。

そういう恵まれた場所で16歳から今まで過ごすことができた。別にエスカレーター式で進学したわけではないので受験をして大学に行った。それもかなり上手くいかずに全然志望していない大学に通うことになった。でも大学も同じように優しくて思慮深い人がたくさんいた。

ものを知っているということは本当に大事なことだと思う。私たちはその人たちと過ごすことで可愛いということは顔のパーツの配置が美しいことだけではないこと。男性が愛しいと思う仕草を自然にできることだけではないこと。人が決めた可愛いに追随することだけではないことなどに気付いた。自分だけの可愛いを見つけて良くて、それを馬鹿にする人のことは気にしなくていいことを知った。

だから私はその恵まれた環境で考えた。考えて、私にとっての可愛い私は「キュートな生命体」であることだと思った。外見的な可愛さも大事だ。でもそれは生まれつき決まっているどうしようもないことについてじゃない。私の顔が能面のように平たいことはもうしょうがない。でも友人に笑った時の顔を思い出してもらえるようなキュートな人にはなりたい。

人の悪口を無闇に大きな声で言わない人になりたい。でもそれはマジメ腐った人ではなくて、キュートな言い回しでことを荒立てない人。

お気に入りのものを持っていつもご機嫌な人。あの人って可愛らしいよねって言われる人。


私が必死に暗記した英単語や泣きながらやった数学の応用問題は、噛み砕かれて分解されて濾過されて私の一部になった。お昼休みの友人との会話も、寒い駅での内緒話も私の一部だ。

私は家も地元も閉鎖的だったので、少し悲しい美意識の目覚め方をしてしまった。でも学び続けたことで自分らしい「可愛さ」を腑に落ちるところまで考えることができた。

塾でアルバイトをしているので、勉強したくない子どもたちをたくさん見てきた。なんで勉強するんだろう、という問いについても何度も考えてきた。でも私はこうやって全く関係ない「美意識」とか「可愛い」というトピックで勉強してよかった〜と思っているのでそういうことなんだろうと思う。

いつか自分の中で燻っていた違和感やモヤモヤを解決するのはやはり教養なんだと思います。大学の卒業を控えて、そういう風なことばかり考えてぼんやり過ごしています。

可愛いおばあちゃんになるぞ!

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