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30 大拙・慧海・ダルマパーラ それぞれの出会い|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇

近代日本仏教を代表する巨人

鈴木大拙(貞太郎 一八七〇〜一九六六)と河口慧海(一八六六〜一九四五)は近代日本仏教界のなかで、ひときわ大きな光を放つ巨人である。大拙は欧米に「Zen」を伝え、『日本的霊性』などおびただしい著書を通じて仏教界のみならず日本の近代思想史上に消しがたい刻印を残した。一方の慧海は秘境といわれたチベットへの探検(『チベット旅行記』として刊行)によって世界的にも名を知られ、ヒマラヤ探検やチベット仏教のニュースが報じられるたび、チベットと縁のある日本人の筆頭として必ず言及される。

実は大拙と慧海、この二人はダルマパーラ、そして釈興然とちょっとした縁を結んでいた。両者の詳しい履歴や功績についてはこれまたおびただしい研究書が出されているからここで繰り返すまでもないかもしれないが、なるべく早足で触れておきたい。

鈴木大拙の生い立ち

鈴木大拙 1953年頃撮影

明治三(一八七〇)年十月十八日、鈴木貞太郎のちの大拙は加賀国(現石川県)金沢市に生を受けた。五人兄弟の末っ子。幼くして父に死なれ、母親の女手ひとつで育てられる。第四高等中学本科まで進むが家計の都合で退学を余儀なくされた。明治二十二(一八八九)年、十九歳にして郷里石川の小学校教員となる。大日本帝国憲法が発布され、野口復堂に導かれたオルコット大佐と若きダルマパーラが初めて日本の土を踏んだ年のことだ。翌年、母親の死を契機に哲学・宗教へ傾倒し始めた貞太郎青年は、上京して東京専門学校へ進む。郷里にいた頃から座禅に親しんでいた彼が、鎌倉円覚寺の門を叩いたのは明治二十四(一八九一)年七月末のこと。高等中学時代からの親友、西田幾多郎も貞太郎に誘われて一緒に参禅していた。

貞太郎が円覚寺通いを始めて半年後にあたる明治二十五年一月、円覚寺派初代管長の今北洪川が死去し、後継には釈宗演が弱冠三十三歳で管長に就任した。東京帝大哲学科選科に入学した貞太郎は、この宗演からシカゴ万国宗教大会での演説原稿の英訳を依頼される。「元来の不得手、失態百出、自分ながら自分の手際に呆れたり、参考書なく、字書なく、殊に難解の仏語(仏教用語)を訳するときては、予ながら大胆なる哉。」(金田良吉宛書簡)明治二十六(一八九三)年のシカゴ万国宗教大会については、すでに詳述したので略するが、鈴木貞太郎の苦心の訳文はシカゴで日本仏教の主張を宣揚する大きな一助となったのである。

明治二十八(一八九五)年一月、貞太郎はアメリカでの仏教普及を後押ししていたポール・ケーラス(Paul Carus 1852-1919)による『仏陀の福音(The Gospel of Buddha)』を翻訳出版する。同書は欧米人による本格的な仏教概説書として日本でも反響を呼んだ。師僧の釈宗演より「大拙」の居士号を授かったのも同年のことらしい(諸説あり……)。同年の秋、インド・セイロンへの留学を志した大拙は、横浜は三会寺で上座仏教を護持し続ける釈興然に参じた。ひたすら経典の暗誦を続けるという現地仕込みの方法でパーリ語を学ぶ日々が続くなか、大拙は自分より年長ですらりと背の高い、ひとりの青年僧侶と数カ月起居を共にした。世間知らずの青二才だった大拙から見ると「何だか一癖あるやにも感ぜられた」その仁こそが河口慧海であった。

河口慧海の生い立ち

河口慧海 1899年撮影

河口慧海(幼名・定治郎)は慶應二(一八六六)年一月十二日、和泉国(現大阪府)堺市に生まれた。家業は樽桶製造で六人兄弟の長男。六歳の頃から山伏寺の寺子屋で学び、小学校へ進むが十二歳の折に「職人に学問はいらぬ」という父の意向で退学させられ、家業を手伝う羽目になる。しかし生来の学問好きから両親に頼み込んで夜学に通って習字数学漢学を修め、やがて『釈迦一代記』という書物を手にしたことから仏教に傾倒するのである。

十五歳の時、信貴山の毘沙門天に禁酒・禁肉食・不淫の三年間の精進を願がけをして見事成就させた定治郎は、さらに七年間の精進を誓い、両親に「出家して僧侶になりたい」と打ち明ける。仰天した両親は「お前は長男だから出家などさせるわけにはいかぬ。そんなに出家したいのなら、お前の代わりに岩吉を出家させることにしよう」と、なんと三男の岩吉、ついでに四男の善七も出家させてしまう。現代人のセンスからするとワケのわからない逸話だが、他人に小便を代わってもらえないのと同じことで、弟二人の出家も定治郎を翻意させるには到らなかった。彼は精進を続け、次第に家業からも遠ざかってゆく。

明治十七(一八八四)年には徴兵令改正に反対して天皇への直訴を企てたり、アメリカ人の女性宣教師から英語とキリスト教を学んだり、京都の同志社に数カ月だけ在学したり、堺市の小学校で雇教員をやったりと紆余曲折を繰り返した定治郎だったが、明治二十一(一八八八)年には上京して本所の黄檗宗五百羅漢寺に寄宿して哲学館(現東洋大学)に入学した。明治二十三(一八九〇)年三月には五百羅漢寺で晴れて得度し、慧海仁広の僧名を授かる。四月には同寺の住職となったがすぐに辞職。

根が一本気な慧海は、黄檗宗内部の腐敗に怒って宗門改革をぶち上げるがそのうちに嫌気が差し、仏教経典の原典つまりサンスクリット語とチベット語の経典入手を目指し、インドとチベットへの渡航を決心するのである。慧海がパーリ語学習とインド事情研究のために三会寺の門を叩いたのは、明治二十七(一八九四)年十一月のことである。

三会寺での出会いと別れ

メモ書きをするうちに面白くなってしまい長々と慧海の履歴を記してしまった。家庭的には苦労が多かったとはいえ、東京帝大哲学科という近代日本のアカデミズムの本流(選科ではあるが……)に身を置きながら、禅宗の門をくぐった大拙。対照的に樽桶職人の後継ぎ息子が強情を張って出家得度を成し遂げ、山伏寺の寺子屋に始まって哲学館を卒業という、いかにも血気盛んな求道青年らしい履歴を辿った慧海。この二人が、セイロンから「小乗仏教」を引っさげて帰国し、釈迦牟尼の正風を日本に根付かせようと奮闘していた釈興然のもとで邂逅した巡り合わせは、なんとも不思議な感じがする。

慧海は仏教伝来から千数百年を経た日本仏教が、純粋な信仰というより「習俗」の地位に甘んじてしまっている現状を憂いていた。自ら黄檗宗の「宗門改革」を唱えて挫折した経験も踏まえ、不毛な宗派間のいがみ合いに明け暮れる日本仏教を改革し真の仏教を根付かせるためには、原典をもとにした経典の和訳が不可欠だと考え、自らチベットへ取経の旅に出ようとしたのだ。彼が上座仏教教団の日本移植を目指す釈興然のスカウトをはねつけて、三会寺を追われたことはすでに第一部第19章で触れた。慧海の伝記によれば、興然は後援者の林はやし董ただす子爵にも、慧海の説得を頼んだそうだ。この説得が失敗に終わったことで、立腹した興然は慧海を「破門」してしまうのだが、裏返せば興然もそれだけ慧海の才能を買っていたということだろう。

明治三十(一八九七)年二月、三会寺を去り上京した慧海は朝野に「チベット旅行の断行」を発表した。「チベットでは外国人と分かれば殺すというではないか。みすみす殺されに行くことはない。留学したいなら安全な欧米に行けばよいではないか」反対や嘲笑の声も大きかったが、慧海の志に感じて浄財を手渡す後援者もまた少なくなかった。

河口慧海は六月二十六日神戸発の日本郵船和泉号に乗り込み、厳格な鎖国政策をとっていたチベットへのルートを探るべく、まずインドへ向けて船出したのである。

大拙の渡米とダルマパーラ

前述したとおり、鈴木大拙もまた当初はインド・セイロンへの留学を志していた。資金難もありインド行きが延引しているなか、アメリカのポール・ケーラスから釈宗演に「老子『道徳経』翻訳のために漢文と英語のできる助手を派遣してくれないか」という打診があった。ケーラスの求めに、宗演はシカゴ宗教会議の演説原稿を英訳し、『仏陀の福音』翻訳の実績もある貞太郎を推挙した。師の熱心な勧めもあって、大拙の気持ちは徐々にアメリカ行きに傾き始めた。「アメリカに行けばそのうちインドにも行く機会があろう……」

Paul Carus

明治二十九(一八九六)年五月、ケーラスから宗演に宛てられた書簡(大拙訳)には「達磨波羅ダルマパーラ君はこの夏アメリカに来り、予をラサルにたづぬるはづなり、望むらくは鈴木君と達磨波羅君と同時に会合せんことを。僧伽サンガの両大派を代表して二人が一処にここに会することは、二人のためにも面白きことなるべし。」とある。次章で触れるが、ダルマパーラはこの年の五月にカルカッタで数百年ぶりにブッダの誕生祭を開催したのち、ケーラスの招きでアメリカに向かう手はずになっていた。

結局、大拙の渡航準備に時間がかかったことから、一八九六年夏に「僧伽の両大派を代表」する二人が出会うことはなかった。

同年十一月、大拙は釈宗演のはからいで事実上の処女作となる『新宗教論』を出版し、印税五十円を渡航費用の足しとした。大拙鈴木貞太郎が、エンプレス・オブ・チャイナ号に乗り込み横浜港を船出したのは明治三十(一八九七)年二月六日。その当時、横浜に外国人相手の東洋古美術店「サムライ商会」を開いていた野村洋三――シカゴ万国宗教大会で野口復堂とともに日本仏教代表の通訳を務めた野村洋三が、乗船券の手配などの便宜を図ったことも付記しておく。

ラサールでの書生暮らし

エンプレス・オブ・チャイナ号は二月十六日サンフランシスコに投錨するが、船内で天然痘が発生したことから乗客は港近くの孤島で二週間の消毒隔離を受けた。衣服はすべて熱湯消毒とのことで、大拙が新調したスーツも釜で煮られてヨレヨレになったという。ようやく上陸を許された大拙はケーラス博士の待つラサールに向かう。

彼のアメリカにおける住所となったイリノイ州ラサールは、シカゴから自動車で数時間もかかる田舎の鉱山町。ケーラスの舅ヘゲラー翁はそこにブリキ工場を持つ富豪であり、進化論思想を信奉していた。長女の婿であったケーラスもまたショーペンハウエルに傾倒しながら東洋の宗教思想を盛んに研究し、仏教のアメリカ布教に協力している……親子そろって新思想好きの奇特な資産家一族というわけで、共にドイツ系移民であった。

ケーラスの経営するオープンコート社からは月刊誌『オープンコート』と季刊誌『モニスト』が発行されており、大拙は同社で働きながら苦学の日々を送ることになる。「望むらくは鈴木君と達磨波羅君と同時に会合せんことを。僧伽の両大派を代表して二人が一処にここに会することは、二人のためにも面白きことなるべし。」大げさな言葉で大拙を招いたケーラスだったが、実際には大拙には決まった給与も払われず、身分もはっきりしない書生扱いで多忙な雑務をケーラスからおっつけられる日々が続いた。

大拙はラサールでの苦学を通じて『道徳経』のほか『大乗起信論』英訳などの業績を残し、アメリカにおける仏教学・禅学の専門家として知られるようになった。その一方でラサールでの書生暮らしはやはり辛かったようで、ケチな根性で自分を便利な書生扱いし、気まぐれで雑誌の編集方針をコロコロと変えるケーラスへの苦言、孤独に耐えかねての望郷の念を縷々綴った書簡も残されている。大拙のアメリカ滞在は、結局十二年にも及んだ。伴侶となるベアトリス・レイン(Beatrice Erskine Lane Suzuki (c. 1878–1939))と出会ったのも滞米中のことだ。当時仏教に興味を抱いた西欧の人士の多くがそうであったように、ベアトリスもまた神智学協会の会員だった。

Beatrice Erskine Lane

鈴木大拙とダルマパーラ、アメリカでの交流

鈴木大拙とダルマパーラのアメリカにおける交流について分かっていることは少ない。詳しい自伝のたぐいを残さなかった大拙だが、彼が後年記したエッセイにはダルマパーラと推測される「インドの仏教家」から送られた手紙の話が出てくるし、大拙の滞米期間中ダルマパーラは幾度もアメリカに渡りケーラス宅を訪れているので、二人に面識があり書簡の往復もあったことは確実だ。

当時の仏教系新聞・雑誌をしらみつぶしに見ていけば、何らかの消息が分かると思うが、本書の調査を始めた頃は大拙にあまり関心がなかったので、手が回らなかった。十九世紀末、欧米へ雄飛した仏教サンガの「両大派を代表」した大拙とダルマパーラがどんな交流を持ったのか、近代仏教史のなかでも、残された最も魅力的な研究課題のひとつではなかろうか(……と、誰かに振ってみたりして)。

河口慧海とダルマパーラ、ブッダガヤの出会い

一方、明治三十(一八九七)年七月二十五日にカルカッタへ到着した河口慧海は、ただちに大菩提会の事務所へ向かい、書記のチャンドラ・ボース(インド国民軍のボースとは別人)と会った。ボースにチベット行きのためチベット語を学習したい旨告げた慧海は、当時ダージリンにいたサラト・チャンドラ・ダス(Sarat Chandra Das 1849-1917)を紹介され、彼のもとを訪ねる。ダスはかつて英領インド政府のエージェントとして、スパイを兼ねてチベット入りした経験があり、慧海渡印の頃には蔵英辞典の編纂作業をしていた。

サラト・チャンドラ・ダスが1879年頃に撮影したチベットの王女
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tibetan_Lhacham,_Tibet_(c1879)_Sarat_Chandra_Das_(RESTORED)_(4119301758).jpg

ダスの斡旋で約一年半かけてチベット語文法・会話を習得した慧海は、明治三十二(一八九九)年一月五日ダージリンを離れ、カルカッタで旅装を整えたのち、ネパール経由でのチベット入りを目指して出立した。

一月二十日、慧海は釈迦成道の聖地ブッダガヤに到達し、ちょうど北インド各地を旅行中だったダルマパーラと巡り合ったのだ。慧海からチベット潜入の抱負を聞かされたダルマパーラは「法王(ダライ・ラマ十三世)にこの釈迦牟尼如来のお舎利を上げて貰いたい」と述べて、仏舎利を納めた銀製の塔と、その捧呈書、貝多羅葉の経文一巻を彼の手に託したのである。

ブッダガヤに二晩逗留した後、慧海はガヤーから汽車でネパール国境に向い、いよいよチベット潜入に挑むこととなる。ダルマパーラより託された銀の舎利塔もまた慧海の背中で揺られ、途中盗賊に奪われそうになりながらも、チベットの地を進んでいった。ここからお話はいよいよ佳境に差しかかるところだが……。続きは手に取りやすい青空文庫版『チベット旅行記』にて、慧海師自身の語り口で楽しんでほしい。


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