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28 ダルマパーラ二度目の来日 牛を食う奴は手を挙げろ!|第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本|大アジア思想活劇

フォスター夫人との出会い

ダルマパーラはシカゴ万国宗教会議の日程を終え、アメリカ各地を講演旅行ののち日本へ向かう船上の人となった。十月十八日、寄港地にあたったハワイはホノルルで、彼はメアリー・E・フォスター夫人(Mrs. Mary E. Foster 一八四四〜一九三〇)と出会う。神智学協会の会員だったこの中年婦人は、カメハメハ大王に連なるハワイ王家の血を引いていた。船上での会見で、彼女は「私は気性の激しい発作に悩まされており、これは私自身にとっても親族のものにとっても悲劇の原因になっているのです。この欠点をいかにして克服すればよいでしょうか」と問いかけた。ダルマパーラはフォスター夫人に「私は良くあろう。わたしは起りくる怒りを抑えよう。I will be good, will Control the rising anger.」という決まり文句を教えて、強い意志を養うようにと助言した。

わずか数分の会見で授けられた簡潔な実践法によって、フォスター夫人はやがて精神の安寧を得た。それ以降、彼女は生涯パトロンとして、ダルマパーラの孤独なミッションを陰で支え続けるのである。

奇しくもダルマパーラとフォスター夫人が出会った一八九三年の一月十七日、ハワイではアメリカ人植民者勢力によるクーデターが起きた。この政変によってリリウオカラニ王朝は滅ぼされ、アメリカの傀儡共和政府が成立。一八九八年にはアメリカとの合併条約が締結され、独立国ハワイは消滅する。アメリカの圧迫に抗したカラカウア王は、日本の皇室との縁組によって、独立ハワイを守ろうとしたことでも知られる。そのハワイ王朝の血を受け継いだフォスター夫人は日本仏教諸派によるハワイ日本人移民への布教活動にも資金援助や土地の提供を惜しまなかった。いまでは忘れられているが、彼女は環太平洋の仏教徒の恩人ともいうべき人物なのだ。

Mary Foster in later life

二度目の来日──日印交流を訴える

船は西へ西へと航海を続けた。十月末、ダルマパーラは日本からの大会出席者に伴われ二度目の来日を果たす。彼は帰国したての釈宗演・八淵番竜・野口復堂らと並んでシカゴ万国宗教大会の報告会を催した。宗教会議の成功は日本にも伝えられていたから、まことよいタイミングで来日したといえる。

ダルマパーラは来日中、野口復堂の通訳を得て「印度に就ついて」と題した講演を行い、両国の親善を訴えている。折りしも同年、日本の神戸とインドのボンベイを結ぶ定期航路が結ばれ、日印関係は新たな発展を遂げようとしていたところだった*6。

どの道から論じましてもインドは最も日本に近く最も日本に関係のある国でございます。インドの文学インドの宗教は取りも直さずこの日本国の文学、日本国の宗教となって居る……インドの人民が信じるには東洋……日本なり支那なり共に此の二国を指します、日本の助けなく支那の助けなくはとてもインドは一国の体面を存することは出来ぬとインド人は信じて居ります。そこでインド人民は右の手を差し延べてどうか支那よ、どうか日本よ、出て来て助けてくれ出て来て我に友誼を尽してくれと渇望して居ります。昔時にありましてはインドは外の国々の助けを借りませぬ、自分自らの力を以て外国人と貿易をして居りました。さて今日になりましては商法の権力というものは、悉く皆ヨーロッパ人の手に掌握されてしまった。……宗教上なり、文学上なり、日々の生活の上の習慣に致しましても、インドと日本とは誠によく似て合同の点が沢山ございます、私が今切に日本の方々に望みまするは、どうかインドにお出で下されてインドの教育ある人と一緒に仲間をお組み下されまして、共々に計られまして下されたならば、日本の方々がどの位インドの中から利益を得らるるに至るか計られぬことと存じます。

*7

ダルマパーラの説く「日印親善」は、あくまでも仏教を中心に据えたものだった。彼は欧米の宣教師が植民地支配の尖兵としてアジアに進出したことを引き合いに出して、いささか挑発的な言辞も述べている。

……アメリカの布教会社が千人の伝道師をば支那に派出し、それと同様の人数をばインドに派出して居ります。その伝道師達の先導で商法が、インドに向けて段々持ち込まれます。それと同じく日本も力ある国でございますから、仏教の伝教師をばインドに派出し、それと同時に日本の商業もインドに向けて派出されんことを希望いたします。

*7

日本仏教徒からの贈り物

ダルマパーラはシカゴ万国宗教会議の席上、ブッダガヤから出土したグプタ朝時代の小さな仏像をインドより持参し、ブッダガヤ復興運動への助力をアピールしていた。この仏像はそのまま日本に持ち込まれ、東京芝区西久保の天徳寺で仰々しく開帳された。天徳寺には土方久元・榎本武揚・佐野常民など朝野の名士も足を運び、参拝者が引きも切らぬ大盛況となったという。

天竺渡来の仏像といっても、ダルマパーラが持参したのは仏塔の周りにレリーフとして飾られる貧弱な石像でしかなかった。しかし、イスラム教徒の蹂躙によって破壊し尽くされたブッダガヤには、もはや安置すべき仏像さえ残されていなかったのだ。ダルマパーラからインド仏蹟の惨状を聞いた天徳寺の朝日秀宏和尚は、「ブッダガヤ霊塔の中に安置すべき仏像を寄進せんことを発願」する。和尚は神奈川県大和田の信徒、浅葉仁右衛門氏に謀ると、浅葉氏より定朝作頼朝公勧進の阿弥陀仏の坐像が寄進せられ、ダルマパーラに託してこれをブッダガヤに送致することとあいなった*8。

日本から送られた阿弥陀如来坐像。現在はカルカッタのダルマラージカ寺院(インド大菩提会本部)に安置されている

日本仏教徒からダルマパーラに贈られたこの仏像は、極東に伝わった仏教が故国インドへ里帰りを果たす、その象徴となった。次章で少しく触れるがダルマパーラはインド帰国後、この日本の仏像をブッダガヤ大菩提寺に安置する運動を大々的に展開し、領主マハンタとの対立を先鋭化させてゆく。鎌倉時代作といわれる仏像は、慈悲とやすらぎをたたえた表情とは裏腹に、ブッダガヤの所有権を巡る争いのシンボルに祭り上げられてゆくのである。

足早の帰国

東京滞在中、ダルマパーラは芝の金地院に滞在して日本におけるブッダガヤ復興運動の旗振り役である釈雲照を何度か訪れたほか、各地で仏教演説会を行った。特に十一月三十日に本郷の真浄寺で開かれた「南北仏教に関する対話会」では、村上専精・織田得能・堀内静宇・釈興然・小栗栖香頂・黒田真洞(&野口復堂)といった面々と、仏陀の涅槃および経典の結集、大小乗の区別や涅槃の定義などについて突っ込んだ宗教対話と質疑応答がなされた。この日の集いについて当時の仏教新聞は「南北仏教徒の相会し斯く教義上の対話を為せしは未曾有の事なるべし……」(『浄土教報』No.164)と伝えている。

しかし各宗の管長や日本の名士たちの興味にもかかわらず、肝心の大菩提寺買収を訴えるダルマパーラの努力は、資金的には充分な成功を収めなかった。ダルマパーラは日本滞在によって時間を空費していると考えた。伝記によれば「グプタ朝時代の仏像の管理に関する僧侶間の言い争いや、仏像の複製の製造・販売を独占しようという陰謀」が、さらに彼の日本滞在を難しくしていたという。まぁ容易に想像のつく話ではあるが、それほどの仏像だろうか……。

東京を離れたダルマパーラは中部京阪各地で講演活動をしたのち、茨木の野口復堂宅に立ち寄り、十二月十五日、六週間の滞在の後に足早に日本を去った。中国とタイを経てセイロンに凱旋し、故国の英雄として熱狂的な歓迎を受けた後、彼は再びインド・ブッダガヤ返還運動の渦中に戻っていった。

ブッダガヤ復興運動への疑念

ダルマパーラの伝記には、ブッダガヤ問題に関する日本側の消極性を批判する記述ばかりが目立つ。しかし日本の仏教徒の間では、「聖地奪回(というより買い戻し)」という威勢のいいスローガンのもとに展開されている運動への不信感が次第に高まっていた。ダルマパーラ来日の前年にあたる一八九二(明治二十五)年に来日し、六月二十六日やはり芝の青松寺で「印度仏跡興復に関する意見」と題し講演を行ったサー・エドウィン・アーノルドに対して、聴衆からはこんな困惑気味の声が投げかけられた。

これまで再三我々の代理者をインドへ派遣して、この霊蹟買収のことを計画しましたが、彼らの事情甚だ曖昧であって何時も時日の遷延されるのみで、やむを得ずその局を結ばずに帰ってきた有様であります、最初昨年一月頃の話では、一万円ならば譲ろうと云う申し出でありましたが、その後八月頃に至りて五百円でも千円でも宜しいと云うような話になりましたから、早速譲受人を遣わしましてその談判に取り掛かった処が、またまた十万円でも二十万円でも手放すことは出来ないと云うのであります……また英国の知事につき尽力と求めた事もありましたが政府に於いてはこれらの事に関係しないと云う故を以て、拒絶せられ、空しく帰ってきた始末であります。

*9

日本の仏教界を長年にわたって翻弄したブッダガヤ復興のキャンペーンは、釈雲照がインドに弟子の興然を派遣した結果として生まれたものであるともいえる。だからこの時点では、日本仏教界は資金を供出する受け身の立場というより、ダルマパーラ〝大菩提会〟との「ブッダガヤ復興」共同主催者だったといってもよい。しかし当の雲照は、この年に帰国した興然が真言密教を奉じる師に背を向けて上座仏教の戒律を守り続け、いわゆる「小乗仏教」の日本移植を試み始めたこともあってか、次第に仏蹟復興運動から離れてゆく。

当初は日本人の「仏教の故郷」への想いを駆り立てたブッダガヤ復興運動だが、遠く離れたインドでの宗教間のメンツもかかった一進一退の政治的駆け引きに、その情熱が長く耐えられるはずもなかった。「極東の仏教国」日本の仏教徒は、次第に、印度の遠縁にあたるダルマパーラから、仏跡復興にかこつけて詳細な実状を知らされないまま金の無心をされているのではないか、という疑念を抱くようになっていった。

土宜法龍のレポートより

真言宗の土宜法龍(どき ほうりゅう 一八五四〜一九二二)は、万国宗教会議に出席ののち通訳の野村洋三とともに欧州へ渡り、ロンドンとパリに滞在した。南方熊楠との生涯にわたる友情は、このとき結ばれたもの。法龍はロンドン滞在中、前述のアーノルドから、ダルマパーラのブッダガヤでの運動への苦言を聞かされた。曰く、

インド佛蹟の興復は最初は容易なる如くなりしも、後に到りて至極困難となれり。そは彼のカルカッタにある大菩提会に関してなり。彼れは佛蹟興復というもインドに佛教を普遍するを以て大主眼(主要目的)とせり。これインド婆羅門徒(ヒンドゥー教徒)の甚だ恐怖するところにして、佛蹟興復のためにはこれが第一の障り(障害)となれり……

*10

法龍はアーノルドの苦言を日本に伝えると同時に、日本から持ち帰った仏像のブッダガヤ安置問題を前面に打ち出すダルマパーラの運動方針に懸念と不信をあらわにした。また同じ外遊中にスマンガラ長老の弟子と会見した法龍は、その比丘がインドでの仏教復興に対してあからさまに冷淡な態度を取っていたことも報告している。

土宜法龍
http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/exhibition-guide/corner2/corner2-4

一八九四年、セイロンを経てインドに入ると、カルカッタの大菩提会においてダルマパーラとも再会した。法龍はダルマパーラの人物について、アーノルドから聞いた風評も合わせ「大言壮語癖のあるウサン臭い人物」という否定的な印象を拭えなかったようだ*11。まぁ、実際そういう傾向もあっただろう。法龍はこれより先、コロンボで釈興然も学んだウィドヨーダヤ学院を訪うた際にも、上座部仏教の名門教育機関というふれこみとはあまりにかけ離れた貧弱なありさまに憤慨してもいる。アメリカ・ヨーロッパのきらびやかな近代社会を見聞してきた法龍にとって、一事が万事貧しく不潔であやふやなアジア社会のありさまは、ただでさえ苛立たしいものだったのかもしれぬ。

幻の仏教国

貧しいアジア仏教国のありさまを、ただ貧しいというだけの理由で非難しているような法龍の口ぶりは、現代人の良識からすると少々嫌な感じがする。それを日本人のアジア蔑視だとか、大国意識の顕れだとか指摘することも容易かもしれない。しかし同じ「アジアの仏教国」とはいえ、富国強兵政策のもと帝国主義レースへの参入を視野に入れ始めていた新興日本と、いまだ植民地支配の収奪にあえいでいたインド・スリランカの間では、次第に意識の齟齬が生じ始めていたとしても不思議ではない。

ダルマパーラの想念のなかで勝手に膨らみ始めていた「アジア仏教国の星」という日本の国家イメージ。それがただ手放しの賛辞として寄せられるうちは、日本仏教徒にとって心地よく響いた。しかし同じ期待感が具体的、実質的な支援の要請、要するに、金かねの話になった途端、わずらわしい重荷に変わったのである。近代日本は対外的には「仏教国」であったとしても、仏教という宗教的なファクターによって国家政策を決定しようという意志も、余裕もついぞ持つことはなかった。これから約半世紀ののち、大アジア主義というさらに茫洋とした理念のもと、日本がインドという「幻げん」の世界に引き寄せられ国運を傾ける時代が到来するのであるが、ダルマパーラがその顛末を目撃することは叶わなかった。

釈雲照の珍談

日本滞在中、ダルマパーラは日本におけるブッダガヤ復興運動の旗振り役、釈雲照を何度か訪れた。そこに通訳として同行した野口復堂は、のちにこんなこぼれ話を語っている。ある日、雲照より「ちょっと本堂まで来てくれ」と誘われたダルマパーラと復堂だったが……。

「……何か珍しいものでも見せてくれられるのかと往って見れば、怖ろしや火生三昧の大日大聖不動明王右手に智慧の利剣、左手には四攝の宝索を握り、矜羯羅制托迦の両童子を率いて予等を待ち受けられ、律師は許多の弟子を後へに従え、不動経を唱えつつ、不動尊の周囲をグルグル幾回となく回り、最後に律師は高座に上らるると、我等両人の前へ紙包みを小僧さんが持ってくる。これは何の事かと思えば、我々に十善誡(普通「十善戒」と書く。江戸後期に戒律復興運動に務めた真言僧、慈雲飲光が宣揚した戒律。不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不邪見の十項目)を授けらるるので、律師が『不ふ偸ちゅう盗とう』と言わるると、こちらも鸚鵡返しに『不偸盗』と言わねばならぬのである。
隣りのダルマパラが『不偸盗』とはなんだと訊くから『泥棒しない』と云う事であると通訳すれば、ダルマパラは笑って、『今頃律師の前でそんな事誓わなくても、このダルマパラは生れ落ちてから泥棒した覚はない』と紙包を開いてみれば、お経と珠数と砂一包み。『砂はなんだ』と聞くから、効能書を読んでみると、『之は土砂加持の砂で、死人が固くなった時、この砂をかけると柔らかくなる』とあったので、其趣きを説明するとダルマパラは大笑い、『日本は死体を小さい棺へ腰を折って入れるから、その必要もあろうが、我輩の国では寝棺であるから屍体が固くなろうが柔らかくなろうが、そんな事は頓着ない。この砂は君に献上する』と言ったような有様。
しかるに律師の崇拝者澤柳博士が受持って居らるる十善宝窟という同寺の機関雑誌に、『インドの仏教家ダルマパラ、万国宗教大会評議員野口復堂の両氏は今回我が雲照律師より十善誡を授けられたり』と麗々しく載せてある。授戒を願い出ず、従って授戒料も納めざる者を、無理強いに授戒の形を取って、右のごとき広告をなすは余り十善でも無い。おしなべて宗教家にはこの弊害は通有であるが、これでは、営利専門の商売人を決して笑う事はできない。」

「四十年前の印度旅行」より

なんと論評したものか困ってしまうエピソードだが、ダルマパーラはこの後一九〇二(明治三十五)年に来日した際にも、国柱会の田中智学によって法華経の本門大戒を授けられることになる。

釈雲照
(出典:亀山光明『釈雲照と戒律の近代』法蔵館)

牛を食う奴は手を挙げろ!

さて、お次も復堂がダルマパーラの講演通訳をした際のお話。東京は伝馬町の大師堂でのこと。インドで聖獣として大切に扱われる牛について、話題が及んだときに……。

ダ氏が講演中に『仏教には不殺生という戒がある。獰猛な欧米人はこの有益無害の温順なる牛を殺して食うが、仏教国の日本人がこれに習うとは何事ぞ。この獰猛なる欧米人すらその屍体だけなりとも人眼に触れさしめぬよう厨房深く蔵するに、日本へ来て見ればいづれの店々にも血の滴るその肉を骨のまま店頭高く鈎るして恥を万目に曝さしめて居る。この聖牛がかくまで悔辱(ママ)を人より受くべきものであるか。この聴衆の中に牛を食う人があるか。あるならば手を挙げよ』と命じたから、復堂はダ氏に向い、
『手を挙げよだけは余計なこと、これだけは僕は通訳しない。何故かと言えば牛を食う事は善い事であると言って後、牛を食う人手を挙げよは妥おだやかで、手を挙げもしようが、かく牛食の悪事たる事を演べて置いて後に手を挙げよは、君が妄語の破戒者を製造する事になって食う者でも手を挙げない、もし手を挙る者あれば、君への反対者で議論の必要が生じる、すれば挙げざるも悪るし挙ぐるも悪しである』と説いた処、同氏は大に復堂に感謝して、
『迂闊と言葉が滑って余計な事を言い、幸い君の注意により妄語の罪人を作るの罪は免れたが、見渡すところ聴衆は皆変な感じを懐て居るらしいから、この事実を明瞭に説明してくれ給え』とあったので、復堂は右の事実を詳細に説明した処、聴衆は多大の感に打たれ、『両君万歳』の響きで堂を震撼した事がある。

「四十年前の印度旅行」より

さて復堂先生のお話はここから延々と「牛糞談義」に脱線してゆくのだが、それは略してちょっとマジメなウンチクを……。

ダルマパーラが日本での牛さんの扱いに対して憤慨したことを、伝統的な仏教の「不殺生」思想やインドの聖牛崇拝の観点から説明することも可能だろう。しかしいくらスリランカがインド文化圏とはいえ、上座仏教には本来肉食へのタブーはない。彼の牛肉食忌避の主張は、もっと政治的な色彩の濃いものだった。

かつて筆者はオルコット大佐のスリランカ来訪に関連して、「伝統的な「シンハラ王権による保護」を失った仏教が近代社会でサバイバルするためには、宗教倫理を内面化し、(マックス・ヴェーバー流にいえば)世俗内禁欲を遂行する「自覚的な仏教徒」の成立が不可欠だった」と記した。スリランカのシンハラ族を「自覚的な仏教徒」として再編成しようとしたオルコット大佐の活動をより先鋭化した形で継承したダルマパーラは一八九八年に『信者規則』というパンフレットを発行し、仏教徒の細かい日常生活の指針を明文化する。「ランカーの獅子」は牛車や馬車、のちにはフォスター夫人に買ってもらった自動車に乗ってセイロン各地を巡回し、「酒を飲むな」「牛肉を食うな」という単純なスローガンを掲げて民衆を啓蒙し扇動したのである。

フォスター夫人から布施された自動車に乗り、スリランカで演説旅行に向かうダルマパーラ。車体には「牛肉を食べるな」とシンハラ語のスローガンが書かれている。

註釈

*6 ボンベイ行路の開設に至る経緯については『日本とインド 交流の歴史』五十頁に詳しい。

*7 「印度に就て」ダルマパーラ演説 野口善四郎(復堂)通訳 臼井喜代速記(『浄土教報』第一六四号、十二月五日)

*8 『浄土教報』第一六四号

*9 『仏教』第四十九号、一八九二年

*10 『仏教』第八十八号「佛蹟興復は望みなきか」より。ほかに『仏教』八十七号、九十号、一八九四年を参照のこと。

*11 法龍はイギリスで生涯の友となる南方熊楠と出会ったほか、神智学協会のベサントとも会見した。ロンドンの神智学協会(ブラヴァツキー・ロッジ)を訪問した際、「此に予が尤も感ぜしは、彼の秘密室に釈興然上人の写真のありしことなり。是はオルゴット氏等と一所に撮りしものにて、多人数なれば上人の儼として天竺風の偏袒右肩にて居らるるの状を龍動(ロンドン)にて見るとは、亦意外の事に覚えたり……」(「神智学会談」『佛教』第八十七号、一八九四年)
神智学協会について、彼は宗教家として比較的偏見のない眼差しで観察を行っていたが、次のような私見を示し、日本仏教の「宗教外交」に見受けられる軽挙妄動を戒めた。「……神智会は元より宗教に関せず。道の異同を云わずと雖も先ず、変則の佛教と云わざるを得ず。而して其出所即ち神智会の慈母は、雪山及び西蔵の佛教ならんは必せり、然らば大乗に近し。然るにヲルコット氏多年在印度の結果は、印度の佛教即ち小乗教は頗る此れと異なるを見る。故に亦小乗の信徒となりてエッチ・スマンガラ和上を戴だき遂に小乗教を大乗教と一致融通せしめんとす。而して其大乗と一致せしむるは、是れ或は神智会と一致せしむるの階梯の用たるにあらざるなきか、是れ大いに吾人がヲ氏の所為に対し調査講究を要すべきなり。」(同)彼の欧州〜セイロン〜インド旅行については『木母堂全集 伝記土宜法竜』大空社、一九九四年に詳細なレポートが掲載されている。

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