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【リライト】 心に灯る、生き方を。

昨日、とあるオンラインイベントに参加して、ふとある記事のことを思い出した。
私の祖父が亡くなって数日後に書いた記事。

昨日のイベントの中である人が話していた、

自分は、祖父の葬儀で泣かなかった。
あとで一人で部屋で泣こうと思ったけど、今度は泣けなかった。
祖父との思い出はたくさんあったはずなのに、それを上手く思い出して泣けなかったことで、自分の中から祖父がいなくなってしまったように感じた。。

というエピソードが、なんだかとても印象的だった。
自分も似たような気持ちになったことがあったから。

以前書いた記事に登場する祖父が亡くなったときは、号泣とまではいかなかったが、いよいよ火葬される最後のお別れのタイミングで、すごくこみ上げてくるものがあり自然と涙が流れた。

一方で、祖父より6年早く他界した祖母のときは、こんなことを書いたら呪われるかもしれないが、、笑
なんというか、「自然と涙が出た」というよりは、半分「泣こうとして泣いた」感じだった。

自然と涙が出ない自分に後ろめたさのようなものを感じたのだろうか。
心のどこかに、人がなくなったときには悲しんで泣くものだ、という信念?みたいなものがあったのだろうか。

最後、もう呼びかけても反応がない状態で、病院のベットで呼吸だけしている祖母を前に、まず理解が追いつかなかった。

反応のない祖母に涙混じりの声で話しかける母、隣で号泣する妹。

その光景を見つつ、小さい頃の記憶を手繰り寄せつつ、やっと涙が出てきた。
そんな感じ。

今思えば別に大したことではない。

祖母が亡くなったのは自分が高校生の時で、中高と部活で忙しかったために会う機会も少なかった。
一方で、祖父が亡くなったのは自分が大学生の時。
時間の融通がきくようになって、割と会うことも多くなっていた。

直近の記憶にたどり着くまでの時間差だったかもしれないし、そもそも、祖父と祖母は違う人間であって、それぞれに対する自分の記憶の多さや強さに違いもある。
それは決して良し悪しの話ではないし、祖母のことを大切に思っていなかったわけでもない。

でも、あのとき、すぐに涙が出てこなかった自分に対して、少しでも後ろめたさを感じた自分がいたのことは確かで、
それはきっと、当時の自分が持っていた「偏見」がそうさせていたのだと思う。

人の不幸を見たら悲しまないといけない。

人の不幸を見てあざ笑ってもいいなんて思わない。
でも、感じ方は人それぞれで、泣ける人もいればそうでない人もいるし、半年後、1年後に思い出して涙する人もいるかもしれない。

「全米が泣いた」映画を見ても涙しない人もいれば、ふと道端に咲くたんぽぽに目をやって涙をこぼす人もいる。

今その人を取り巻く環境や、これまで経験してきたことによって、感じ方や表現方法は多様に変化するし、人の心の動きはそれくらい複雑で、決して「同じ」にはならない。

昔言われたときは、なんのこっちゃよくわからんなと思ってた(その時は、「うん、わかった!」って言ってた...)祖父の言葉が今まさに蘇ってきた。


「自分にだけは嘘をつくなよ。」

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