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【映画感想文】「言いたいこと」と「言えること」はいつだって違うんだ - 『落下の解剖学』監督: ジュスティーヌ・トリエ

 話題の作品『落下の解剖学』を見てきた。今年はなんだか難しい映画が立て続けに公開しているけれど、これもまた非常に難解で、かつ、めちゃくちゃ考えさせられる内容だった。

 ストーリー自体はシンプル。雪山の家に暮らす夫婦と視覚障がいのある息子。ある日、夫が転落死する。状況から妻は殺人を疑われてしまう。しかも、彼女は有名な小説家だったので、この事件は世界の注目を集めるスキャンダルへと発展。裁判の行く末に誰もが固唾を呑むようになる。

 そんなわけで、法廷劇を中止をした作品であり、そういうフィクションのお決まりとして、現実の裁判をベースには全然していなかった。検察官も、弁護士も、証人もみんな、ミュージカルをしているかのように感情豊か。

 本来、裁判長および判事などの関係者は証拠をすべて確認の上、法廷でのやりとりは形式に近いはずだけど、そのリアリティを完全に放棄しているということは、つまり、すべてはメタファーなのだろう。

 って、気づいたあたりから、この映画は実質的にドストエフスキーの小説みたいポリフォニーをやりたいのだとわかってくる。

 ポリフォニーとはなにか。文芸学者ミハイル・バフチンがドストエフスキー研究をする中で提唱した理論であり、作中の人物がそれぞれ独立した人格として現れ、独自の思想を語るため、作品内で多次元かつ多視点の対話が成立する手法を指している。……はあ? 

 そんな風に定義を説明してもわけがわからない。そこで、具体的に言うならば、ドストエフスキーの小説の登場人物は作者と異なる思想を持ったやつが何人も出てきて、作者の思想を論破したりするのである。

 これはめちゃくちゃ異常なことである。普通、作者は自分の考えを伝えるために作品を書く。反対意見を出すとしても、それはあくまで客観性を担保するため、作者が用意した都合のいい反対意見。最終的には跳ね除けられるようになっている。だからこそ、国語のテストで「作者の伝えたいことは?」という問題が成り立つのである。

 しかし、ドストエフスキーの場合はそうではない。反対意見がガチなのである。作者の意見に忖度は一切なくて、気づいたら、そっちの方が存在感を増していき、結果、物語は想定外の哲学へと発展していく。

 これと同じことをジュスティーヌ・トリエ監督は『落下の解剖学』で試みている。

 仮に、作者である監督が夫は事故死と決めていたとする。その場合、主人公である妻の無実が証明させることが目指させるべきだろう。弁護士は絶対的な味方であり、警察にはずさんな捜査という欠点があるべきで、検察は犯人を仕立て上げたいという功名心でいっぱいという設定にするのが常だろう。マスコミに煽られる大衆は愚かであり、紆余曲折ありながら、決定的な証拠が見つかり、絶対的な存在である裁判長が大岡裁きで一件落着。たぶん、2時間ドラマだったら、そんな筋書きになるはずだ。

 ところが、『落下の解剖学』はそうじゃない。まず、弁護士が完全な味方ではない。状況から妻が犯人かもと疑っている。彼女が心情を含めた詳細を語ろうとしても、「事実はどうでもいい。まわりがどう思うかが重要なんだ」と諌める始末。そして、彼女はなにも言い返せない。

 警察もちゃんとしている。むしろ、主人公の方が落ち度があると指摘されてしまう。検察も嫌なやつだけど、資料を細かく読み込んでいて、めちゃくちゃ仕事熱心なことが窺える。

 なんというか、主人公であるはずの妻が正当に不利なのだ。理不尽な仕打ちは全然なくて、ちゃんと論理を重ねた上で、しっかり疑われているのである。

 このドストエフスキーに通じるポリフォニー性こそ、『落下の解剖学』がありきたりな法廷ドラマに陥らない秘密なのだとわたしは思った。

 さらに、意地が悪いことに、主人公である妻は無愛想なドイツ人で、普段使っている言語は英語なのに、事件が起きたのはフランスなので、裁判中、フランス語を使わなきゃいけないというハンディまで背負わされている。加えて、職業が小説家なので、言葉巧みに嘘をつけると色眼鏡で見られたり、過去に書いた言説による印象操作にさらされたり、めちゃくちゃ窮地に追いやられる。

 これほど、もどかしいことはない。だって、彼女は「言いたいこと」がたくさんあるのに、実際に「言えること」は別物にならざるを得ないんだもの。

 まともに話を聞いてはもらえない。たとえ、聞いてもらえたとしても、みんな、聞きたいようにしか聞いてくれない。

 ただ、それって、この映画で扱われているような状況でしか起こらない特別な現象なのだろうか。いや、そんなことはない。むしろ、わたしたちが普段、悩み、苦しんでいる人間関係のトラブルは大半、そのようなコミュニケーション齟齬に起因している。

 こんなに言っているのに、どうしてわかってくれないんだろう。そんなとき、相手をわからずやと批判したくなってしまう。でも、本当のところ、こちらが「言いたいこと」と「言えること」にはズレがあるのかもしれない。

 一見すると、自分のバカさに気がついていないせいのようにも感じられるが、たぶん、頭の良し悪しは関係ない。むしろ、知的とされているような人ほど、どえらい失言をしてしまうものである。そして、言語能力も関係ない。作家など、言葉のプロと言われる人たちがうかつにも炎上する例は枚挙にいとまがないのだから。

 では、どうして、そんなことになってしまうのか。消去法で考えるならば、たどり着ける結論はひとつだけ。つまり、言葉はそもそも不完全なコミュニケーションツールに過ぎないのだ。

 このことを『落下の解剖学』は見事に突きつけてくる映画となっていた。言葉の力を信じてきたわたしとしては絶望以外のなにものでもなく、見ていて、なかなかつらかった。

 だが、それで沈黙してしまったら、彼女は夫を殺したことになってしまう。なにせ、言葉は不完全でも、我々は他にコミュニケーションツールを持っていないわけで、ダメもとで使うしかないのである。

 絶望はするけど、諦めていないとき、人はどうするか。わかっちゃいるけど、やめられないで、とにかく前に進むしかない。つまり、「言いたいこと」と「言えること」はいつだって違うと知った上で、それでも「言えること」を言っていくしかないのである。

 そういう意味では、結局のところ、わたしたちにとって現実は言葉の中にしかないのかもしれない。本当に夫を殺していなかったとしても、本当は夫を殺していたとしても、彼女の語る言葉を通してしか現実は存在しないし、その言葉を受けて、まわりがなにを語るかでしか現実は修正されていかない。

 観客として、『落下の解剖学』を見るとき、わたしたちはそんな様子をなにも語れない立場で見守る必要がある。これは究極の不自由体験であり、間接的に、言論の自由の大切さが浮き彫りとなってくる。

 とんでもない映画だった。エンドロールが流れ始めたとき、わたしは『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』を読んだときに感じた所在なさを静かに感じた。

 真実がなにかではなく、なにを真実にしたいかでしか、我々は世界を捉えることができない。それは現在の司法制度とは相容れない思想だし、実際の裁判ではそうならないような運用がなされているけれど、完全なるフィクションの中で、人が人を裁くという行為の限界点をジュスティーヌ・トリエは提示してみせた。

 しかし、どうして、いまの時代にそんなテーマを扱おうとしたのだろう。ドストエフスキーの頃であれば、神なき時代に神の存在感を逆説する意義はあったけれど、AIの進化が著しい2020年代に神をあれこれする理由は見当たらない。つまり、描きたいものは他にあるということだ。

 ここからはわたしの仮説だけれど、ジュスティーヌ・トリエは架空の裁判を通して、SNS上の炎上を戯画化しようとしたのかもしれない。

 ある発言が問題となるとき、叩きたい側は自分の目にした情報を叩くため、そのための解釈を重ねていく。そのため、炎上した人は謝罪しようと、言い訳しようと、説明しようと、なにを語っても火に油となる。そして、それを傍観しているわたしたちがいる。これはまさしく、フィクショナルな法廷劇そのものである。

 従って、ネット上の言論空間で示される結論というものは、一見すると勝敗がついているようでも、あくまでわたしたちがそれを真実にしたいと思っただけ、常に暫定的なゴールに過ぎないことが示される。

 最近、わたしは東出昌大に興味を持っている。アンドレさんから、二子山部屋のYouTubeに東出さんが出ていて、素晴らしかったと教えてもらった。視聴してみたら本当に素晴らしかったので驚いた。

 東出さんは二子山部屋の人たちにふるまうため、大量の猪カレーを仕込むのだけれど、その手際のよさに目を見張る。一朝一夕で身につくような技術ではない。

 東出さんが山で狩猟生活をしているというニュースは見ていたけれど、正直、そういうポーズをとっているだけだと見くびっていた。でも、その何気ない所作の洗練さから、本当に山で命懸けの活動をしていることが伝わってきて、いまさら、わたしは尊敬の念を抱いた。

 たしかに、現世で東出さんは人から批判されるようなことをしたのだろう。たぶん、「言いたいこと」がたくさんあっただろうに、「言えること」はその通りにならなくて、つらい思いをしたはずだ。しかし、なにもかもを自業自得と受け入れて、山の世界に流れていった。これはもう出家以外のなにものでもない。

 現世を捨てて、文明から離れたところで暮らしているのであれば、現世の批判を気にすることもないのだろう。

 たぶん、いまでも、東出さんを叩く人はいる。不倫なんてしなければよかったのにと言われたら、おそらく、ぐうの音も出ないだろう。

 しかし、それでも生きていかなくてはいけない。なにをしても批判される絶望を前にして、批判を避けようと思えば死ぬしかないが、そんな選択はあまりにも悲し過ぎる。だったら、批判されても、表現を続ける方がいいに決まっている。

 そう。わたしたちはそういう風に絶望しつつも、やるしかないをやることでしか、きっと、生きていけない生き物なのだ。




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