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【マシュマロ】わたしにとっての哲学 - サルトルとカミュ

 マシュマロに質問を頂きました。

 わたしにとって哲学は人生の特効薬です。

 と言っても、哲学について、体系的に学んだことはありません。ただ、大学時代は仏文科だったので、サルトルとカミュを学び、実存主義と不条理には没頭しました。

 目指すところは一緒なのに、反対のアプローチで人生を見つめる二人の思想に魅了されました。

 サルトルは社会の外から物事を考えています。たとえば、自伝的小説『言葉』に、切符を失くしたまま鉄道に乗っている気分で生きてきたという一節が出てきます。常に、車掌がやってきて、「切符のないやつは出ていけ」と追い出される恐怖に怯えている、と。

 そんな疎外感の裏返しがアンガージュマンであり、積極的に社会参加することでしか、サルトルの実存はあり得なかったのです。

 対して、カミュと社会の関係は受動的です。これについて、随筆『シーシュポスの神話』が象徴しています。

 神々の怒りを買ったシーシュポス。罰として、大岩を山頂に運ぶ労働を強制されます。やっとの思いで運び終えるも、大岩は必ず、ふもとまで転がり落ちます。そのため、シーシュポスはこの無意味な作業を死ぬまで繰り返し続けます。

 死ぬとわかっているのに、あれこれ頑張る人間はシーシュポスと同じだとカミュは言います。一見するとキツい皮肉のようですが、その後、こう付け足します。無意味な作業の間に景色を楽しんだり、効率よく岩を運ぶ方法を発明したり、人間は絶望の内に喜びを見出すこともできる、と。

 このとき、シーシュポスが神々に追放されていない点がポイントです。社会から追放されることを恐れていたサルトルとは発想が真逆なのです。

 カミュにとっての社会参加は逃れられない不条理なのです。それは不自由で苦しいことだけど、本人の捉え方次第で、価値あるものに変えられる。

 結果、サルトルとカミュは論争し、絶縁状態になるほど対立しました。でも、個人的にはどちらが正しいという話ではないように感じます。

 少なくともわたしはこれまで、社会から阻害されることにも、社会に縛り付けられることにも、同じぐらい悩まされてきました。そして、本気で精神的にヤバかったとき、サルトルとカミュ、それぞれの哲学に救われました。

 なんというか、サルトルとカミュにはマジ感謝!

 そんなわけで、文字通り、わたしにとって哲学は人生の特効薬です。




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