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米国で全損の自動車事故を起こした話

約4年前、米国に駐在していた頃の話を振り返りたい。米国駐在最終日は全く楽しい思い出ではなかった。むしろ悲惨なものだった。最終日前日の夕方、お世話になった愛車を中古車買取業者に売りに行こうと家を出た5分後、自動車事故を起こしてしまったのだ(事故直後の写真は以下の通り)。

ちなみに私の車は前方の赤い車です

「立つ鳥後を濁さず」の言葉の通り、お世話になった米国に感謝の気持ちを込めながら、家も車もきれいさっぱり綺麗に引き払ってから帰国しようとしていた米国駐在の最終日。大きな自動車事故を起こしてしまい、あわや事故の処理で帰国できないのではないか、という危機に見舞われた。さらに悪いことに、この交通事故を起こした直前に私は自動車保険解約をしてしまっていた。

人間は危機的な状況に追い込まれない限り本気を出せない、とよく言われる。まさにその言葉通り、自動車事故を起こした直後の私は本気で警察や保険会社と交渉をした。私はなんとしても翌日のフライトで予定通り日本に帰国すべく、死に物狂いで交渉を行った。そしてなんとか日本に帰ることができた。今でも当時を思い返すと嫌な気分になるのだが、今後こういった事故は二度と起こさないとの思いを胸に以下、当時を振り返ってみたい。

1.前兆

私の帰国日は10月1日だった。10月1日は空港近くの宿で一泊しそのまま空港に直行予定であったため、その前日の9月30日に自動車の売却と自動車保険の解約を計画していた。

9月の上旬、自動車の売却については現地のメーカー系列ファイナンス会社と日系中古車販売業者の2社に見積もりを出し、売却価格条件が良かった日系中古車販売業者にて売却を行うことに決めた。売却日は9月30日。その日、売却対象となる車を運転し、その業者に持ち込むことに決めた。

一方、自動車保険についても9月30日付で解約をする必要がある。私は保険会社(正確には保険代理店)に解約をしたい旨を申し出た。保険会社からは以下のCancellation Documentに記入をしてほしい旨の連絡があったため、私は9月19日に以下のフォームを記入し、代理店経由で保険会社に提出した。

当時記入したフォーム

その2日後の9月23日、以下のような解約通知書が届いた。

違和感を覚えたのは解約日(Cancelletion Date)である。9月30日の午前12時01分となっていたのである。確かに、上記のCancellation Documentでは私は解約日を9月30日とは書いたものの、9月30日の何時までは明記しなかった。

私は中古自動車販売業者には9月30日の夕方に自動車を持ち込むことになっており、仮にその際に自動車事故を起こしてしまった場合、その時間帯は無保険であるため、全額自己負担となる

まさか最終日に限って、そんな事故など起こすことはないだろうと軽い気持ちでいたものの、それでも1日無保険で運転を行うことは非常にリスクが高く不安だったので、保険会社には以下のように「解約時間を9月30日の12時1分から、同日の午後11時59分に変更してほしい」とのメールを打った。

先方からは「それは出来ない。だが、10月1日に変更ならできる」とのこと。私は即座に「では10月1日に変更してほしい」とメールを打った。これは9月30日の午前中の出来事だった。その後、返信は先方から来なかった

2.事故に遭った日の様子

こうして、自動車保険が適用されるのかわからぬまま事故当日(9月30日)を迎えた。

午前中は引越し業者が家に来て全て家具を引き払った。3年半もお世話になった家(アパート)だったこともあり、最後にガランとした部屋を見た時には寂しい気持ちと感謝の気持ちが湧き出てきた。

その後、午後はプレスクールに預けていた息子を迎えに行った。プレスクールで仲良くなった友達、お世話になった先生方と集合写真を取り、そして我々家族からはお世話になった印として餞別の品をお渡し、また家に戻った。

息子をガランとした家に送り届けた後は、家族は二手に別れた。私は車を売却するため中古車業者に向かい、私の妻と息子は最終日だけ泊まるためにAirBnBで予約した空港近くの宿にUberで向かった。

私は家を出る際、最後になぜか感傷的な気分に浸ってしまい、SpotifyでThe Ten TenorsのThousand Years(オリジナルはChristina Perri)をかけて聴きながらドライブをすることにした。その5分後、最後に米国でのドライブを楽しもうと思っていた矢先に事故に遭遇した。

幹線道路に私の車が合流する際、ちょうど左折をしてきた車と衝突したのだ。車は私の左側にある運転席のちょうど真横に衝突してきた。見事に凄まじい音と共にどちらの車も一部が大破してしまった。

スローモーションで相手の自動車がぶつかってくる様子が今も思い出される。こうした不意の出来事に遭遇した際、脳の感覚は非常に鋭敏になり、その一瞬をまるで10秒経過したかのように感じられるのだが、そこに身体の運動神経がついていかない。頭では「このままいけばぶつかる」と認識していても、その認識に見合うスピードで、ハンドルを咄嗟に切り返す等の動作が追いつかないのだ。映画のワイルドスピードやタクシーの主人公であれば咄嗟の判断で危機を回避できるのだろうが、現実には「あ、このままいくとぶつかる。けど身体が動かない」というケースの方が大半なのではないだろうか。

事故にあった直後、「赤色の車は交通事故に遭いやすいことが統計で示されている」という、同じ職場だった方の言葉をふと思い出した。曰く、赤色を選択するようなドライバーは運転に難があり事故に遭いやすいそうだ。

私の車の色は赤だった。上記の話を聞いた当時は「そんなことないだろう」とたかを括っていた。が、実際に事故に遭遇してしまった。しかもかなりの大規模な事故である。やはり統計に裏付けられた確率論には抗えないのか。いや、赤色の自動車が事故に遭う確率が高いというのはあくまで確率論の話であり、すべての赤色の自動車が事故に遭うわけではないので、抗う・抗わないの話ではない。自分はその事故にあった赤色の自動車側に入ってしまった、ただそれだけなのである。「まさか自分が、しかも駐在最終日に」と少し頭がクラクラしたことを覚えている。

交通事故を起こして焦りながらも、少し冷静な自分もいた。不思議な気分であった。交通事故を起こす夢なよく見ていたので、これも夢なんじゃないか、と現実逃避に走りそうになる自分がいた。そのため、夢だと思いたい自分と、早くこの交通事故にうまく対処しなければと焦る自分が併存していた。

いずれにしても、私も相手方も無傷だったことは不幸中の幸いであった。

私はまず相手方と運転免許証の情報を交換し、警察とレッカー業者を呼んだ。向かうはずだった中古車販売業者にも連絡を取り、事故の様子を写真付きで送付し、念の為もう買い取りは無理だということを確認した。

そして、自動車保険会社への連絡である。まさか自動車保険解約日の9月30日に、しかもその保険期限が午前12時1分で切れていたのか、10月1日まで分時延長されていたのかわからないまま、まさかの大きな事故に遭遇してしまった。

お恥ずかしい話だが、私は大変焦り、苛立っていた。明日、日本に帰るというのに帰れない可能性が生じたこと、そしてまさか自動車保険が適用されずに事故の代金を負担する必要が生じるかもしれないこと、これらを思うと精神的な動揺がおさまらず、なんとか深呼吸をして冷静さを保ちながら、警察との応対、そして保険会社との応対を開始した。

保険会社に対しては、まだ保険が有効期限内であるとの前提の下で私の保険番号を伝え、事故の様子や必要事項を電話で伝えた。警察に対しては事故が起こるまでの様子を相手方と一緒に説明をした。もう自動車保険会社には、保険が有効であるとの前提の下で交渉をするしかない。そう腹を括った自分は、「ちなみに保険の有効期間は10月1日まで延長されているはずであり、自分はその旨を既に保険代理店を通して連絡をしている。したがってこの保険の請求は有効である」という説明を保険会社の窓口に強く説明した。

その後、おそらく警察が呼んだのだろう、レッカー業者がやってきて私の無惨に破壊された車を引き取りにやってきた。レッカー業者の運転手から「乗って行くか?」と言われたので私はそのレッカー車の助手席に乗り、意気消沈してひとまず引き払い済みのアパートのリーシングオフィスのロビーに戻った。

大変な事故を起こしてしまった。この件が解決しない限り日本には戻れないかも知れない。自動車保険も下りないかも知れない。こうした不安がよぎる中、少し心を落ち着けた後で妻と息子が待つ宿泊先にUberで向かった。

3.駐在最後の悲痛な晩餐

駐在最後の晩餐は、息子を寝かしつけた後で妻とゆっくりカリフォルニアワインを心穏やかに飲むつもりでいた。だが、この予定は木端微塵に粉砕された。引き続き保険会社との対応は続き、当時所属していた会社の人事と、帰国後の所属予定部署の上司に事故が起きた旨を伝えた。

それ以外の出来事については今となってはあまり覚えていない。ただ、米国駐在最後の夜がこのような残念な形で終わってしまったことに意気消沈していた。

そして一点、重要なことに気づいた。事故で大破した車の中に、息子が生まれた時の産声が録音されているCDを置き忘れてしまったのだ。急遽レッカー業者に連絡を取り、忘れ物をしてしまったので自動車の中を見せてくれないか、と連絡を取る。大丈夫そうだったので、次の日の10月1日の朝にレッカー業者のオフィスに行き、無事CDを回収した。

同時に、レッカー業者には1日あたり自動車の預かる費用がいくらになるのかも確認した。自動車保険が適用されなかった場合のことを想定し、1日あたりいくら支払債務が増えて行くことになるのか、シミュレーションをしておくためだ。

4.帰国後、自動車保険の引き受け先が見つかり、保険でカバーされたことを知る

まだ自動車保険が下りるかどうか不透明ではあったものの、その後の事故対応は、保険会社に一任することとして予定通り10月1日はフライトに乗ることにした。飛行機の中で何をしたかはもう覚えていない。だが、映画を観たり飲み物等を呼んでくつろぐ精神的余裕がなかったことは記憶している。

その後日本の深夜に到着し、空港近くのホテルにて宿泊した。その深夜のことだ。以下のようなメールが保険会社から届いたのだ。

保険が適用される旨の連絡メール

内容としては、10月1日まで保険期間が延長され、また自動車事故についても新たに見つかった保険会社が補償をしてくれる、との内容だった。このメールを見た時は本当に嬉しかった。引き続き事故対応はしなければならないものの、少なくとも自動車事故関連の費用は全て保険会社によりカバーされることが確定したからだ。すかさず保険会社に感謝のメールを送った。

その後は事故関連情報についての詳細な照会がメールで入り(下記ご参照)、一つ一つ回答をしていった。結果、全損保険が適用され、レッカー業者代、事故車処理代を始め、自動車ローン残債支払も全て全損保険代金にてカバーされることになった。事故車は保険会社に引き渡され、保険会社が処理をしてくれることになった。

私生活を振り返って最も安堵感を味わった瞬間はこの時だったと思う。

全損保険を適用するための保険会社からの質問状

5.(少し無理矢理ですが)学び

これまで述べてきた通り、私は約3年半の海外駐在の最終日に、自動車保険でカバーされているかどうか不明である中、全損事故を起こし、そしてその翌日に無事日本に帰国することができた。そして保険も適用された。

これが事実の羅列である。発生する確率論で言えば極めて低い出来事を経験したように思う。そのためか、この一連の出来事に対して意味またはストーリーを構築し、教訓や学べたことを無理やり紡ぎ出そうとしてしまうのが人間の性分である。では、この一連の帰国間際のドタバタ劇を通して、自分は何を学べたのか。

一つは、交渉は最後まで強く主張をした方が良い、ということである。保険会社に対し、自分の保険は有効であることを強く主張しなければもしかしたらまた違った結果になっていた可能性もある。

二つ目は、「起こり得ることは起こり得る」というマーフィの法則である。まさか3年半の駐在の最終日に、事故を起こすとは思いもよらなかった。だがそれは現実に起きた。「絶対起きない・大丈夫」という事象は世の中にこ存在しない。それを知らしめてくれた。

三つ目は、「最後はなんとかなる」という楽観主義である。同時に、最後はなんとかなってしまったために学べなかったこともある。「何が起こるかわからないから、あらゆる事態を想定し用意周到・万全に備えておくべし」というマインドセットである。振り返れば概ねOK、という結果になってまったが故に痛い思いを見ることもなく、「最後はなんとかなる」という楽観的な思考が増殖した。

もし保険が下りずに全額自分で支払いをしていたら、もし怪我をしていたら、痛い目を見た勉強代としてまた別の学びがあっただろう。「最後は何とかならない。だから慎重・用意周到に準備すべきし」という学びである。人生長い目で見た場合、果たしてどちらが有用な学びとなり得たのか今となっては定かではない。一つだけ言えるのは、この事故をきっかけに自分は楽観主義的な思考に傾聴するようになり、悲観主義的で慎重な思考を育む機会を失った、という点のみである。


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