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「差別はいけない」で終わらせないためにーー加藤直樹『九月、東京の路上で』と江馬修『羊の怒る時 関東大震災の三日間』を読む

私がこの本でもっとも大事にしたいと考えたのは、関東大震災の朝鮮人・中国人虐殺について、事実を「知る」こと以上に「感じる」ことだった。

(加藤直樹『九月、東京の路上で』、202ページ)

「憐れみの倫理」と「自己批判の精神」

加藤直樹『九月、東京の路上で』(ころから)は新大久保で生まれ育った著者が、醜悪な盛り上がりを見せた近年のヘイトスピーチに憤怒の情を抱き、かつて虐殺のあった歴史を追体験するように文章を綴ることでレイシズムに抗う目的のもと、執筆した本だ。本書には「憐れみの倫理」と「自己批判の精神」が底流していて、この二つの思想信条に貫かれている数々の言葉、酷たらしい情景の鮮烈な描写を前に読者は圧倒されずにはいられないだろう。僕もまたそんな読者の一人だった。100年前の大震災が悲劇を、それも人間の醜悪な部分をさらけ出すかたちで引き起こしていたことは、教科書程度には知っていた。しかし、史実を史実として伝える以上の意志を持つ本書には、その被害者の「声」が克明に綴られていて、それがそのまま僕たちの生きる現代へと響いてくる。凄まじい描写力と語りの力。著者の力強い文章が訴える差別への強烈な抗いに僕は大筋としては賛同しながらも、しかし同時に、読む側の問題として、奇妙な落ち着かなさを感じた。そのことを簡潔に説明してみたい。

本書からは、入念な資料調査と臨場感のある文章によってたくさんの凄惨な光景が浮かび上がる。かつての日本人が犯した倫理的な過ちの数々に、僕の胸は強く痛んだ。「強く胸が痛む」とは、なんて陳腐な感想だろうか。そんな言葉しか出てこない自分への苛立ちに似たものを覚えながら半分ほど読み進めた。読み進めていくうちに文章にさらにドライブがかかったのを感じたのは、第3章と第4章あたり。

まず、著者は関東大震災直後のジェノサイドを、レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』で提示された「エリートパニック」という概念を使って分析している。ここは、著者の慧眼と言えるだろう。「エリートパニック」とは、ハリウッド映画などに描かれてきた、パニックに陥る一般市民と英雄的な少数派という構図を覆すものだ。もともとはコロラド大学の自然災害センターを率いる災害社会学者キャスリーン・ティアニーが提示したもので、〈エリートは、自分たちの正統性に対する挑戦である社会秩序の混乱を恐れる〉という主張がその根本にある。つまり、「エリートパニック」は、〈社会的混乱に対する恐怖、貧乏人やマイノリティや移民に対する恐怖、火事場泥棒や窃盗に対する強迫観念、すぐに致死的手段に訴える性向、噂をもとに起こすアクション〉のことなわけだ。キャスリーン・ティアニーは、〈メディアは市民の無法ぶりとより厳しい社会管理の必要性を強調するが、それらは災害管理における軍の役割の拡大を求める政治論をうながし、強固にする。そのような政治的立場は、合衆国では、イデオロギーとしての軍国主義の台頭を示唆する〉とも述べている。(レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』、171〜172ページ)

これこそ、まさに関東大震災直後にあのような凄惨な虐殺を引き起こすきっかけとなった大きな要因だということが、本書を読むとわかる。普通、歴史の教科書などを読んで、僕たちが抱く想像は、極度の混乱状態に陥り、冷静な判断力を欠いた群衆が朝鮮人を誤って殺害した、というものだろう。実際に、僕は本書を読み通すまで、例えば、ティム・バートンの『バッドマン』に描かれるような、蒙昧な人々が情報を得る手段が無いなかで、権力側の統制も効かなくなり、個人であることをやめ群れとなって「敵」に襲い掛かっていく、という無秩序な状況のもとであの出来事は起きたのだと想像していた。だが、事実は異なる。権力側のコントロールはある意味では存在した。警察は自ら率先して朝鮮人に暴行を加え、軍は大げさなまでに市民を守ろうとする。自警団はそのような空気感のなかで、俺らも黙って見てられないぜ、という具合に市民が権力側に手を貸すような形で、結成されていった。警察は守ってくれないから、とか、軍は頼りにならないから、というのではなく、権力がパニック状態で作り出した秩序のなかで彼らは動いていたのだ。

もうひとつ、本書を読んで気づかされたのは、戦後社会がこのジェノサイドを思い出すまでに30年近くかかっている、ということだ。例えば、当時陸軍大尉だった遠藤三郎がノンフィクション作家の角田房子に朝鮮人を殺害したことを認め、その事実を語ったのは1970年代。

また、王希天に親愛の情を抱き、彼が殺害されたことに怒り、軍人でありながら自分たちがいま行っていることに強烈な否定的感情を覚え、それを虐殺の実態とともに日記に綴っていた久保野茂次がそのことを公表したのも70年代。ジャーナリストの田原洋が王を斬った中尉を探し当て、本人の口から事実が明らかにされたのは1980年代。さらに、保坂正康の父が息子に、関東大震災直後のある朝鮮人の殺害が自分のトラウマとなっていることを打ち明けたのは1984年。

そして、本書の原動力である関東大震災のジェノサイドに関わった人々の証言集『風よ鳳仙花の歌をはこべ』の編纂のはじまりも1977年。この証言集は、荒川放水路について子供たちに教えるために地元を調査していた絹田幸恵が、町の老人から朝鮮人虐殺についての話を聞いたことがきっかけで編まれることになったものだ。

こうした事実 ―― 関東大震災後の朝鮮人虐殺についての証言がなかなか世に出てこなかったこと ―― は、時間の経過とともにようやく人々が過去の愚かな過ちを認められるようになった、と考えるよりは、戦後社会は自らに都合の悪いこと、清算せねばならない罪を忘却する上で成立してきた、と考えた方が良いだろう。

敗戦後の焼け野原から経済大国日本となるまで、日本社会は急速な成長を遂げてきた。アメリカにおんぶに抱っこな状態で、アジアのなかで最大の力を有するまでになった。だが、そのなかで異民族に対する人種差別がジェノサイドに行き着いた、あの忌まわしき記憶が呼び起こされることはほとんどなかった。戦後社会は戦前の悲劇に向き合うことなく、その罪を他国から糾弾されないことを良いことに、それを故意的に忘れながら戦後復興を遂げてきたのだ。第二次大戦における他国に対する謝罪や賠償責任の問題などが確かに取り沙汰されてきたのは間違いない。しかし、自国のなかで起きた、それゆえに他国に対してひた隠しにできる歴史の暗部についてはほとんど語られることがなかった。その記憶が虐殺を当時経験した民衆の口から語られるようになるのは、1970年代に入ってからである。

ここに戦後的な欺瞞を感じると言っては、大袈裟だろうか。戦後社会が何を見て、何を見なかったのか。それは戦後のナショナルな主体が何を思い出すことを恐れていたのか、という問題につながっていくはずだ。

差別の構造

さて、本書を読んで感じた僕の胸のうちに生じた違和感について書いておきたい。本書は多くの日本人に、自分たちが忘れてきた忌まわしき過去を追体験させるのに申し分ない筆力で書かれている。また、筆者は罪もないのに殺されていった名もなき無数の朝鮮人たちを、なるべく固有名詞を探し当てることで、個人として蘇らせようとしている。このこともこの本の大きな特徴だろう。関東大震災から100年後の現在、東日本大震災後の日本社会、そしてヘイトスピーチが街にはびこる日常に生きる僕たちには必読の書だと言っていい。

だが、それだけでいいのか、と考えてしまう。これは本書への批判ではない。本書を読んで満足している自分への批判だ。

確かに、僕は本書を読んで、凄惨な光景の数々に胸が痛くなり、「憐れみの倫理」が揺さぶられた。そこから、上記で考えたような、日本人としての自己批判を試みる気にもなった。けれども、それではただ、人種差別が良くないことを再確認する作業に過ぎない気もするのだ。

ここで(人種)差別とは何かを一度考えてみたい。ルネ・ジラールは差別一般の現象を、暴力と排除のメカニズムとして捉えようと試みた『暴力と聖なるもの』(古田幸男訳、法制大学出版局)のなかで、次のように言う。一つの共同体においてその秩序を維持するためには、そこのメンバーがそれぞれお互いに暴力を振るうような状況を避けなければならない。そのためには特定の個人や集団を勝手に、恣意的に、選んでそこに暴力を集中させ、そのことによって逆に共同体全体の安定感を維持する必要がある。ルネ・ジラールはそれを「スケープ・ゴート理論」と呼ぶ。

この議論を応用し、学校における「いじめ」の構造を解き明かしたのが赤坂憲雄だ。赤坂は『排除の現象学』(筑摩書房)のなかで、近代に誕生した学校教育では、均質であることを強制されてきた子供達が「差異の消滅」という危機的状況におかれていた、と述べる。つまり、教室という空間において、それぞれが分身のように似たりよったりの子供たちのなかに〈ほとんどとるに足らない徴候〉が見つかると、それが生贄(スケープ・ゴート)として選び出される。そして、暴力がその不幸な生贄に向けられると、その瞬間に、それまでばらばらだった子供達の意志疎通は全員一致を見る。その結果、集団はあらたな差異の体系の再編へと向かい、「差異の消滅」という秩序の危機は回避されるというのだ。このときに差別に特有の、囲い込みと排除のシステムが発動し、他者において発見された特異性を絶対的で本質的なものとして、「われわれ」にはないものとみなし、斥ける。

この二つの議論を批判的に捉えながらも、その延長にもう一つの差別の構図を描いたのが佐藤祐『差別論ーー偏見理論批判』(明石書店)である。佐藤はそのなかで、赤坂やルネ・ジラールの議論はただ「状態」を表したものに過ぎないと述べる。そこから一歩進んで、差別を「行為」ととらえる必要があるというのが佐藤の議論の根幹にある主張だ。佐藤は差別行為を考える際に、差別者が被差別者を見下して、他者化するのと同時に、差別者は共犯者を必ず従えており、この見下しと他者化を共有するように「同化」を求めることに留意する必要がある、と述べる。つまり、差別とは差別者と被差別者の間だけの問題ではなく、必ずそこに共犯者を必要としており、差別者と共犯者の間における「絶え間ないコミュニケーション」のなかで彼らは「同化」し、同時に、被差別者への見下しと他者化の構造を維持・再生産し続けているというのが佐藤の主張なのだ。

この「排除」のメカニズムと「同化」のメカニズムはもちろん、人種差別にそのまま当てはまる。世のなかに蔓延するレイシズムは肌の色の違い、生活習慣の違いといった取るに足らない差異を目ざとく見つけ、彼らを「他者」として自国やコミュニティから排斥するが、それは差別をする側にとって、そのことがそのまま共同体を維持する方法だと考えられているからだ。そして、その「排除」のメカニズムがなめらかにまわればまわるほど、それは自然と彼らの間に「同化」のメカニズムを起動させることとなる。その結果として、本来あるはずの差別者と共犯者たちの間の差異や特異性 ―― 本来、個性あるいはそれを持つ人という意味で「個人」と呼ばれるものだ ―― は見えなくなり、彼らは集団として「同化」してしまう。それは、関東大震災以後のジェノサイドでも起きた問題なのだ。

『九月、東京の路上で』を読んでいて感じるのは、加害側だった警察・軍・自警団・その他の民衆に顔がないことである。彼らは群衆として描かれ、個人としての要素がない。いわば、互いに同化し、非個人化され、まるで一人の人間としての意志をもたない、一つの巨大な生き物の躰のように浮かび上がってくるのである。

著者は言う。100年前に私たちの社会の脳裏に刻まれたのは、三一独立運動を隣の出来事として目撃した東京で〈朝鮮人を「非人間化」する「不逞鮮人」というイメージが増殖し、存在そのものの否定である虐殺に帰結した〉という悲惨な記憶である。本書はあの日、理不尽な暴力を受け、命を落とした朝鮮人たちをもう一度「人間化」させることに大いに成功している。その限りにおいて、僕はこのノンフィクションにとても好意的な感想を持っている。

ただ、問題はそこで思考を止めてはいけない、ということだ。あの時、日本社会のなかで「非人間化」された朝鮮人を100年の時を越えて、再び一人の人間として蘇らせたあと、僕たちがなさねばならないのは、「排除」と「同化」のメカニズムのなかで、非個人化していった群衆たちに、もう一度、個人としての姿を与え、ひとりひとりの加害者としての責任をこの手に取り戻すことなのではないだろうか。その時、戦後社会が目を瞑ってきた問題を初めて直視できるのだ。

加害者たちの顔を蘇らせるために

では、100年前の加害者たちの顔を蘇らせることは果たして可能なのだろうか。僕はその極めて具体的な実践として、筑摩書房による江馬修『羊の怒る時』の(再)復刊を受け止めたい。この本は凄まじい記録の書だ。

江馬修という近代の小説家を僕はほとんど知らなかったのだけれど、本書に付された簡単な紹介を読むと、1889年生まれで、田山花袋に師事し、「早稲田文学」などで小説を書いていた作家のようだ。文壇で成功したとは言えないこの小説家が1925年に刊行した『羊の怒る時』は関東大震災直後の東京の様子を克明に描写し、あのジェノサイドの様子を記録した小説である。小説なのだが、(再)復刊に際して解説を書いた西崎雅夫が〈『羊の怒る時』は小説という形をとってはいるが、明らかにドキュメンタリーである〉と言うように、記録文学として読むのが正しい本だろう。

本書は大正12年の9月1日、東京を大きな地震が襲う場面から始まる。小説家の〈自分〉は代々木にある自宅で書き仕事をしているさなかに罹災する。家族と一緒に慌てて外へ逃げる〈自分〉の目に映ったのは、明治神宮の森を覆う黒煙、崩壊している家々、そして、〈異常な不安と緊張の色〉を隠せない人々の姿だった。震災発生直後から多くの死傷者を出したこの1日、そして続く2日間の東京の様子をありありと描写し、〈その後〉の時間がいかなるものであったかを作者は記録していく。

もちろん、綴られるのは朝鮮人虐殺の悲惨な実態だ。〈自分〉には、鄭君と李君という親しく付き合っていた朝鮮人学生がいた。彼らの無事を確かめる冒頭の場面では、その直前に、朝鮮総督のT伯爵の邸宅の前を通りかかり、〈赤い屋根瓦ひとつずれた様子もなく、憎らしいまで巍然として真昼の日光の中に聳え立っていた〉という描写が置かれているが、ここは示唆的だ。小説の背景に帝国主義の〈憎らしいまで〉の威光があり、このあと起こる悲劇がどのような階層で成立しているのかを告げている。

鄭君と李君の無事を確認し、彼らが日本人の赤ちゃんを救出するところを目撃した〈自分〉は、胸のうちで、こう、述懐する。

彼らはどれも善良な、勉強ずきな、そしてその悲しい呪われた運命の下にまじめに苦しんでいる人々であった。それは自分に言い難い同情と一緒に、それにも増して深い敬意を感じさせた。彼らもまた自分に於いて、一人の親友を見出したように思ってくれた。そういう自分はかねてから、亜細亜の同盟の理想の抱懐者であり、主張者であったのである。――そして殊に朝鮮の問題については常に深い同情をもって対していた。

そんな〈彼ら〉をジェノサイドが待っていることが、悲しく、痛ましい。では、流言はどのように飛び交うのか。朝鮮の人々に対するよからぬ噂は二日目には蔓延し始めるのだが、第二日の章の冒頭には、まず、新宿駅付近の交番の掲示板に〈本日午後零時半もしくは一時頃に激震あると思われるによって、この時刻には皆屋外にあるべし、〉と書かれ、鵜呑みにした人々が狼狽える場面が描かれている。地震を予知したという公権力のフェイクニュースを容易く信じてしまう民衆の姿に、コロナ禍をくぐり抜けた僕たちは、不安に取り憑かれ、デマを鵜呑みにしてしまった現代の人々の姿を重ね合わせることだろう。社会にはびこる不安が信じる主体そのものを脆弱にしてしまうのは、100年前も現在も一緒のようだ。

ここから暴徒となった朝鮮人が暴動を起こすというデマが流れ、不安に取り憑かれた民衆が虐殺に走るまではあっという間だ。

「今そこでフト耳に挟んできたんだが、何でもこの混雑に乗じて朝鮮人があちこちへ放火して歩いていると言うぜ。」

「何でも彼奴らは自動車を乗りまわして、どんどん家事を延焼しやすいように、路地の陰や軒下なぞに小さな石油缶を置いて歩くというんです。また或るものは、爆弾を投げて歩いているとも言いますよ。」

さっきも触れたが、語り手の〈自分〉は博愛主義者だ。朝鮮の人々とも親しく接し、彼らのことを理解もしている。だが、この直後、そんな〈自分〉でさえも不安に取り憑かれ、疑いの眼差しで彼らを見ていたことを告白する。

そして一切が明らかにされた今でさえも、そしてあんな際に最も理性を失わなかったと自信している自分でさえも、あの時学生の手にあったものが石油か爆弾では無かったかと言うような気がふっとする事がある。人間の心の惑乱の恐ろしさよ!

江馬修『羊の怒る時』99ページ

この小説が時を経ても鮮度が落ちないのは、いや、時を経るからこそ読む価値を獲得していくのは、不安に取り憑かれた群衆の心理を実にまざまざと描きながら、〈自分〉を決して棚上げしないからだろう。語り手は思想的には朝鮮の人たちの味方をしたい人物だし、実際に彼は朝鮮の友人に救いの手を差し伸べる。だが、〈人間の心の惑乱〉と〈自分〉は無関係ではあり得ない。特にこのような何が真実かわからない状況にあっては、なおのこと、そう。

僕はこの作品の批評性は人称の使い方にあると考えている。ここで使われる一人称は、私小説によくある〈私〉ではない。〈自分〉が私小説の人称として使われるのは、それほどケースとしては多くはないはずで、パッと思いつくところでは太宰治の『人間失格』くらいだろう。〈私〉ではなく、〈自分〉。その違いは、〈私〉という人称が、他者を前に自己を置くことを目指すものに対し、〈自分〉という言葉はあくまでもおのれの内側を掘り続けるイメージの人称だという点にあるのだろう。〈私〉が他者と向き合う人称だとすれば、〈自分〉とは自己との関わりのあり方を探る人称だ。ヘーゲルが自己のありようとして、対他と即自(対自)を区別したことを思い出しても良いかもしれない。

では、この〈自分〉という語りは何か。僕はこの小説における〈自分〉とは意識を指すものだと考えている。つまり、ジェノサイドに加担しなかった〈私〉、パニックに陥ったその他大勢の群衆にはならなかった〈私〉を表現する人称ではなく、〈人間の心の惑乱〉とは無縁ではいられない〈自分〉、ジェノサイドに加担した日本人としての〈自分〉を意味する人称のもと、物語は語られているのではないか。

そして、ここには、加害者の個人としての姿を蘇らせ、責任の意識を我々日本人の手に取り戻す方途が存在している。だから、僕は『九月、東京の路上で』と『羊の怒る時』はセットで読まれるべきだと考えている。〈関東大震災の朝鮮人・中国人虐殺について、事実を「知る」こと以上に「感じる」こと〉を前者を通じて経験したあと、そこで歩みを止めるのではなく、ジェノサイドに加担した個人の主体を自己のなかに立ち上げること。「差別はいけない」で終わらせるのではなく、〈人間の心の惑乱〉にとらわれたかもしれない自分の可能態に思いを巡らせること。100年後のいま、僕たちがなすべきなのは単なる反省や「知る」ことではない。外在的な評価軸で過去の出来事を捌くだけは未来は拓かれないはずだ。想像力を逞しくして、当時の出来事を〈感じる〉ことが過去から未来を作る一途なのではないか。

*本稿は書評サイト「シミルボン」に以前、寄せた文章を大幅に加筆修正したものです。

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