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温故知新のヒーロー論:「レインボーマンは何と戦っていたのか?」

 特撮ヒーローもので特定の敵組織を設定することを行って最も成功したのは東映だった。仮面ライダーのショッカーが有名なところだが、こうした設定は東映が得意とした時代劇や任侠もの、ギャングものの影響が大きい。

 ウルトラマンなど円谷プロのシリーズは特定の敵を設定しても物語を自在に動かして展開してゆくことには常にぎこちなさが目立った。
『ウルトラマンA』の異次元人ヤプールとか『ミラーマン』のインベーダー、『ウルトラマングレート』の宇宙生命体ゴーデスとか、全て尻すぼみに終わってしまっている。唯一の成功 例は『電光超人グリッドマン』の敵カーンデジファーだ。

 ここらは悪の組織が何ゆえに悪を働くのかについてのしっかりした基本理念を設定することが強みになる。円谷プロ作品はそこのこだわりが弱かった様だ。

 東映は悪の組織や権力を前に戦うヒーローというものを時代劇で多く経験してきたので、特撮テレビ番組でもそのノウハウをほぼ感覚的に飲み込んでいたのではないだろうか。

 ショッカーはナチの残党という設定になっているので、なぜ悪を働くのかという理屈は必要としなかった。
 ナチという動かしがたい戦後に決定的になった絶対悪は何をしようとも悪であり、悪を行う動機も目的も必要としない。

 例えばハリウッドの戦争映画でヒーローが無差別にドイツ兵を幾ら殺しても観ている方はそこに殺人とか虐殺とかを特に意識しない。それはナチスは問答無用に裁かれてもいい存在だからだ。

 だから仮面ライダーがショッカーに幾ら暴力を行使しようとも誰も疑いを感じる者はいない。同時に何故、ショッカーが悪を働くのかという動機付けも必要としない。ショッカーがナチの残党だという極めて安直なアイデアは予想以上に効果を果たした訳だ。

 以降、東映の特撮ヒーローテレビ番組はこのショッカー型の悪を量産してゆくことになる。
 『人造人間キカイダー』のダーク、『秘密戦隊ゴレンジャー』の黒十字軍、『超人バロム1』のドルゲなどなど数え上げたらキリがないが、これらは全てナチ型(それは幾分ナチらしく見えるというだけのものだが)の敵だった。
独裁者がいてそれに付随する幹部がいて、下々に行動隊長(怪人)や突撃隊員(戦闘員)がいるという構造は映画流ナチの再現だ。

 こうした日本の特撮ヒーローものから遅れて同じ手法を使ったのがジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』だった。
 東映の悪の組織の造形は他社の作品まで広く影響を与えたが、そのためにどうして悪の組織が悪を行うのかという問題に関しては宙吊りのままになった。
 悪だから滅ぼされて当然であるという反ナチ流の論理にしか支えられていなかったからである。
 
 70年代後半から80年代になってロボットアニメで悪には悪なりの論理や大儀があるという視点が持て囃された時期があったが、これは特撮ヒーロー番組から既に始まっていた。

『月光仮面』の流れを汲む川内康範原作の『レインボーマン』だ。

 レインボーマンの敵、「死ね死ね団」はかつて大日本帝国によって侵略を受けた東南アジアの被害者たちが日本が経済復興によって再び経済力によって世界へ侵略を行うことを押し戻すために日本人を皆殺しにしようと組織された結社だ。

 日本人に憎悪を抱くミスターK(平田昭彦)の日本人に対する悪の行為は尋常なく執念深い。だが、そこには何故日本人を皆殺しにするのかという目的や大義がある。漠然とした世界征服とか暗黒世界の樹立とかいうものではない訳だ。

 これはヨーロッパ新秩序建設とかアジア解放の聖戦とか如何にも嘘っぽいナチや大日本帝国の大義に比べると恐ろしくスリムで先鋭化されていて、ある種のリアリティがある。
 この大義に対して闘うレインボーマンの動機もはっきりしてくる。

 レインボーマンの師匠、インドの修行行者ダイバダッタは非暴力主義者であり共生主義者だった。ヨガの秘法で印パ戦争で互いに殺しあった人びとを生き返らせ、武器を捨てさせ解散させたりしている。後にレインボーマンとなるヤマト・タケシはそれを目の当たりにする。

 この辺は川内康範の「憎まず、殺さず、赦しましょう」という基本となる思想が生きている。

 レインボーマンはダイバダッタの教えに従い「死ね死ね団」と戦っている。
 基本は非暴力と共生だが戦わざるを得ない。

 しかし、レインボーマンが戦っているのは実は「死ね死ね団」ではないのだ。
『レインボーマン』の主題歌「行け!レインボーマン」(作詞:川内康範)の二番の歌詞に次のようなフレーズが登場する。

人間誰でも 皆同じ
肌や言葉の 違いを除きゃ
みんな仲間だ そうなのだ
そいつを壊す ものがある

 歌詞カードによれば「ものがある」の「もの」が「者」となっているものがあるが、動詞は「ある」であって「いる」ではない。
 この「もの」は人物を指すのではなく観念をさしているのだ。

 レインボーマンが戦っているのは共生の理想を阻害し破壊しようとする「もの」なのである。

 これほど崇高な理念に支えられた闘う動機を持ったヒーローは恐らく世界中探しても見つけ出すことは難しいだろう。

 しかも、悪には悪なりの被害の傷があり大義がある。しかし、それを理解できたとしてもダイバダッタの教えに理想を抱くレインボーマンは暴力に対してはそれにNOと言わざるえ負えない。
 
 戦わざるを得ない。

 レインボーマンの戦いは今風に言えばヘイトや排外主義に対する戦いである。

 紋切り型のナチ的な悪とヒーローが戦っていても、それが数万回繰り返されたとしても、何故彼らが戦うのかという説得力は生まれては来ない。

 『レインボーマン』は既に51年も前の作品である。

 しかし、川内康範の理想とともに我々はこの子供番組から何故、我々は戦わなくてはいけないのかを学び取ることが出来る。

 今の時代だからこそ真のヒーローの思想が必要なのではないか。

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