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『ひろしま』と『原爆の子』 二つの原爆映画の違い



 
 映画『ひろしま』は最近各地で上映されて話題になっているようですね。

 1952年にサンフランシスコ講和条約が発効されるまで、GHQの映画統制、いわゆる922覚書があったので、日本では原爆の映画を作るのが難しかったのですね。

 これ以降は自由に制作できるようになって、本格的な原爆告発映画として、近代映画協会が新藤兼人監督で『原爆の子』が創られました。

 ところが公開後、広島の関係者から不満と批判の声が上がった。
 原爆の投下直後の広島市民の悲惨な状況が描かれていないというところが問題でした。

 そこで、作り直そうと関川秀雄監督で、『ひろしま』が創られたわけです。

 関川監督は新藤監督と比べれば、写実的なリアリティを重んじる人ですから、こっちの方がかなりリアルで恐ろしい出来になりました。

 『原爆の子』は被爆直後の悲惨さよりも、原爆の災禍を生き抜いてゆく人びとの苦難と現状を描いた作品で、視点が全く違っていた。

 でも結果的に、いま、『原爆の子』ではなくて『ひろしま』が注目を集めていることを考ると、より生々しい写実的なこの作品が残ったのだなと思います。

 『ひろしま』を批判するなら、あまりにも教科書的な原爆教条を詰め込みすぎたきらいがあります。教育映画っぽさが気になります。

 反米の姿勢も幾分ヘイト的な雰囲気にならざるを得なかったのも仕方ないことなのかもしれませんが、ドラマとかみ合ってこないのです。

 『ひろしま』は被爆者の激情を訴えるには恐ろしい力がありました。
 一つ一つのショットに恐怖を感じさせます。
 これも大切なことなのです。

 でも『ひろしま』に登場する人物は岡田英次演じる教師をはじめ、どこかレディーメイドで優等生で、教科書っぽい雰囲気なのです。
 どの登場人物からも生きている人間臭さがこの映画からは伺えない。

 その点では『原爆の子』は逆に人間しか描いていない。

 被爆者の悲しみも悲惨さも、どこか個人的な問題として、そこから原爆という大きな問題へと突きつめる。
 だから人間を描くことを積み重ねてゆくのです。

 『ひろしま』は大きなマクロの事件から人間ドラマのミクロの方へ向かってゆくけれども、『原爆の子』はその逆なのですね。

 スペクタクル悲劇か、家庭劇レベルでの悲劇か、ここは難しいところです。

 しかし、二つの作品は終戦後、間もない時代の映画ですから、原爆という問題がたいへん肌で感じられる恐怖を伴ってきます。

 両作とも、もう今となっては絶対に作ることのできない、原爆映画だということは確かです。

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