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ギルド社会主義 ~空想上の共同体~

小代焼中平窯の西川です。
今回も例によって、宗教哲学者・思想家の柳宗悦氏について考察していきます。

…なんかしつこくてすみませんね…。



柳氏は『ギルド』と呼ばれる共同体により、美しい民衆的工芸品が生まれることを期待していました。


しかし、
現実世界にかつて存在したギルドと、柳氏の頭の中にあるギルドでは性質が大きく違うのです。

『ギルド』を通して理想論と現実のギャップについて考察していきます。





柳氏の言葉の引用


まず最初に柳氏の著書『工芸の道』より、柳氏の社会制度やギルドに対する認識について引用します。


問 正しい民藝を復興し得る望みが果してあるか。

答 私は希望を失わない。現代の制度をこのままに肯定して、その上に正しい民藝を建てようとするなら望みは薄い。制度それ自身が「正しさ」と「美しさ」とを拒むからである。だが宗教よりして道徳よりしてまた経済学よりして、現代の資本制度が正当な健全なものでないということは、すでに公理であると云ってよい。現代が自らの病気に斃(たお)れる日は近づいている。一切の社会主義的運動は今後強まるとも、決して弱まることはあり得ない。私は改変せられる将来の社会制度の上に、来るべき工藝の輝かしい運命を信じる。最近における中世社会制度に関する研究の勃興と、ギルド社会主義の主張とは、最も注意すべき現象である。ある者はそれを「復古主義」として非難する。しかしそれは復古とか逆行とか模倣とかいう意味に依るのではなく、そこに永遠な、古くしていつも新しい社会法則を見出しているのである。過去への崇拝ではなく永遠な原理への認識である。ギルドに古今はない。

柳宗悦『工芸の道』



現実世界のギルド


ギルドとは、中世から近世にかけてヨーロッパで結成されていた職業別の共同組合のことです。

商人ギルドや手工業ギルドがありましたが、民藝(民芸)関連の話題でギルドと言う場合、基本的には中世ヨーロッパの手工業ギルドを指します。


ギルドに所属していない人々の目線になると、ギルドは特権的、独占的、排他的な性質も多分に持ち合わせていました。


徒弟制度と呼ばれる身分制度があり、親方の指導のもとに職人達や見習い達が手工業を営み、様々な工芸品を生み出します。

工芸品の規格や価格はギルド内で厳格に統制されていました。

ちなみにギルドという組合に参加するのは、親方という身分の人間だけだったようです。

所謂『師匠と弟子』のような関係と想像しても良いでしょう。



ギルドに参加した人々はその就業年数や技術力に応じて、
見習い→職人→熟練工→親方(指導者)
という具合に身分の階段を上っていきました。


現代の会社で例えると、
20歳そこそこの新入社員の中で、仕事が出来たり指導力がある人から、
一般社員→課長→部長→役員→社長
のように階段を登る様子に似ています。

…まぁ、仕事ができたり人間力のある人から順番に出世する訳ではないでしょうが、それはまた別の問題ですので、ここでは置いておきます。



柳氏の頭の中のギルド


柳氏も現実世界と同じように『ギルド』という言葉を使っていましたが、
実はその内容は現実世界のギルドとは、構造的に大きく異なるものでした。


柳氏が頭の中で想定していたギルドでは
最初から最後まで、死ぬまで身分が固定」なのです。



職人になるために修業を開始した見習いは、その一生を職人という身分のまま終え、美の指導者にはなれませんでした。

一部の選ばれし天才的な陶芸家(濱田氏や河井氏など)のみが指導者になる資格を有し、

99.9…%の作り手は
無知で無学で無欲で無名で美意思を一切持たない無個性な職人
として一生を終えることを想定していました。


昭和7年頃・縄をなう人々


そして、
その自我のない無個性な職人たちは天才(濱田氏や河井氏など)の作品を無意識に黙々と繰り返し繰り返し、何千個何万個と真似して作ることで、世の中に美しい物が満ちてゆくはずだと、柳氏は信じていました。



問題点と実例


昭和2年京都にて上賀茂民芸協団が発足します。
柳氏の理想としたギルドを実現すべく、志ある4人の若者達が集まり、柳氏は思想面・精神面で彼らを支えました。


そして、たったの2年で解散してしまいます。


柳氏の想定した『ギルド』は現実世界の民衆の姿や社会構造を想定していなかったため、崩壊は時間の問題でした。



柳氏の想定した
健康的な暮らし・健康的な工芸品
を2年間経験することで、団員の青田氏は胸を病み、黒田氏は一時再起不能かと思われるほどに精神を病みました。




柳氏は美によって民衆が救われるかのように語りましたが、
同時に、柳氏の想定する民衆は、美を解さない無知な存在とされていました。


これでは、民芸理論で救われるのは一体誰なのでしょうか?



民衆を美で救おうにも、彼ら一般庶民は美を解さないので、
何千何万と工芸品を作り続けても、何時までたっても彼らは救われません。



柳氏の想定する『ギルド社会主義』には厳格な身分制度が存在し、

民藝思想の要(柳氏)

天才的陶芸家であり指導者(濱田氏・河井氏)

無知で無学で無欲で無名で美意思を一切持たない無個性な職人達(消費者である一般庶民も含む)

という強固なピラミッド型構造によって民藝理論は成り立っています。

最下層の無知無学な民衆が、同時代に1人~2人しか存在しえない天才になる事などは想定の範囲外であり、このピラミッド型構造は柳氏の民藝理論における根本的な世界感です。


柳氏は(少なくともご自身がご存命中の間には)、
・濱田氏や河井氏に並ぶ天才的指導者
・自身に匹敵する審美眼と思考の持ち主
が職人や一般民衆の中から出現する可能性を一切考慮に入れていませんでした。



さいごに


私の書いた考察についてより詳しく知りたい方は、
出川直樹氏『民芸 理論の崩壊と様式の誕生』をお読みください。


『民芸 理論の崩壊と様式の誕生』


一般の民衆達は、はたして本当に
「無知で無学で無欲で無名で美意思を一切持たない無個性」
な存在だったのでしょうか?


柳氏の民藝理論の中には
・1人~2人しかいないような超天才。
・意志を全く持たない民衆達。

の二通りの人々しか想定されていないんです。


しかし、
現実世界を生きる民衆達というのは、そのほとんどの人が天才と無個性の中間の位置にいるのではないでしょうか?



私だってそうです。

私は日本一の知識人でも芸術家でもありません。

しかし、
義務教育を同級生達と卒業し、
大学では美術・工芸を勉強し、
自分の興味のある事にはそこそこの知識があり、
宝くじでも当たらないかなぁという欲もあって、
自分の好きな服を選べるくらいの美意識を持ち、
誇れる程では無いにしろ多少の個性が存在し、

そして今こうして、
興味のある柳氏への考察を小代焼・焼物師の立場から書いている。



そんな
現実世界にいる一般民衆の姿を、柳氏は想像できなかったのです。




2024年5月7日(火) 西川智成


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