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【小説】『玉葉物語』前日譚「竹の園生の御栄え」外伝『文始天皇御記』

※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。

外伝『文始天皇御記ぎょき

文始三年の皇室

文始十年十月二十五日条

 幼くして即位した朕だが、十八の成年に達して、ようやく摂政を置かずに済むようになった。これを機に、せっかく元号が『文始』なのであるから、遅まきながら朕も何か文章を、ありきたりなところで日記でも書き始めようと思って、筆を執ることにした。
 これからは叔父上に委ねずに自ら政務をせねばならないのだ。平安貴族が日記を有職故実の書としたように、後の参考になるものを残せたらよいが、それはさすがに難しろうか。

文始十五年六月二日条
「白河宮滋仁しげひと親王、還暦」

 白河宮還暦の祝い。自ら国務を担うようになってからじき五年が経つが、天皇というのは予想以上の激務である。皇室の家長としてそれではいけないとは思うものの、摂政として十年間よく尽くしてくれたこの叔父上には頭が上がらない。
「父親同様に思っています。息子として何かできることはございますか」
 と伺ってみたところ、
「私めも、畏れながら陛下の御ことを我が息子のように思っています、一日も早く孫が見とうございます」
 と言われてしまった。その話は皇太后からも聞いたばかりだ。まだ二十二歳という若さなのだからそんなに急かさなくてもよかろうに。

文始二十年五月六日条
「高倉宮有仁ありひと親王、薨去」

 高倉宮有仁親王、昼に薨去の報あり。享年百四というから大往生である。先々帝の在位中、父上も叔父上もいまだ成年に達せざる頃に、しばしば国事行為の臨時代行をしたと聞く。叔父上が摂政だった頃にも、確か二度ほどやったのだったか。朕が成人した時にはすでに九十五歳で、隠棲して久しかったのであまり直接の関わりはなかったが、
「よほどがんばりませんと、高倉の長老さんのように一生独身になってしまいますよ」
 というように皇太后がたまに引き合いに出すから、そのたびに可哀想に思ったものだった。結婚願望は強くあったようだが、皇族妃になるのは嫌だと世の女どもに断られ続けたあげく、妻子なく高倉宮は一代で断絶。未来の朕を見るようで寒気がする。

文始二十一年六月十日条
「皇太后、還暦」

 皇太后の還暦祝いにつき、大宮御所を訪ねる。しかし相変わらずのお小言だったから、思わず、
「叔父上もそうですが、そんなに皇統の行く末がご心配ならば、揃って早くにお独り身になってしまったお二人がご一緒になればよかったんです。先帝に生き写しの叔父上をしばしば目で追っておられるのを、気づいていないとお思いですか。今となってはもう遅いですが、もしも再婚していれば弟か妹をまだ二人くらいはお生みになれたのではないですか」
 と感情のままに言って、泣かせてしまった。あまりにも親不孝なことをしてしまい嫌になる。すぐに詫びたが、詫びて許されることではない。二度とこんなことはしないと誓う。

文始二十二年十月二十五日条

 今日は天皇誕生日。とうとう三十代になってしまった。宮中でもいろいろとお祝いをしてもらい、嬉しそうに振る舞いはしたが、実際のところは憂鬱である。最も辛いのは一般参賀の時だ。これだけ大勢の女の人が朕を慕ってやってきてくれているのに、隣に立ってくれるほどに愛してくれるのは誰もいないのか、などと思ってしまった。
 朕は一生結婚できないのかもしれない。どの御代も、皇太子妃になってもよいと言う女性は少なく、皇太子妃選びは苦労したという。東宮妃どころかいきなり皇后ともなればなおさらである。どうして先帝陛下はこんなにも早くにお亡くなりになってしまったのか。

同年十月三十日条

 侍従長が、国民から宮内庁に寄せられた天皇誕生日のお祝いの手紙を持ってきた。すべて嬉しく読ませてもらったが、中でも心を打ったのは、十二歳になったばかりの女の子からのものだった。朕と同じ日に生まれたので、昔から朕に親近感を覚えてくれているのだという。大変熱烈なファンレターであった。あまりに嬉しいから、この手紙は後生ごしょう大事に取っておくことにする。このくらい大人の女性にもてたらよいのだが……。

文始二十四年十一月三日条
「白河宮滋仁親王、薨去」

 滋仁親王、急逝の悲報。八歳そこらで父帝を失った朕にとって、この叔父はまさしく父親代わりであった。早く「孫」を見せたいと思っていたのに、とうとう叶わなかったことが悔やまれる。かつて高松宮という皇族が、義母の逝去に際して、
「おばばさまにしてからお送りすればよかった」[1]
 と嘆いたと聞くが、今の朕にはその気持ちがよくわかる。白河宮を継いだ実仁さねひと親王も、きっと朕と同じ思いだろう。どちらも相手すらいないから仕方がないことであるが。

文始二十九年九月十三日条
「愛媛県行幸」

 愛媛県行幸。天皇が同県を訪ねるのは三十年ぶりとのこと。朕にとっては初めてである。今日最も記憶に残ったのは福祉施設での出来事だった。高校を卒業したばかりだという職員の美しい娘さんが、小学生の頃に天皇誕生日に手紙を書いてくれたあの子だと申し出てきたのにはとても驚いた。
「よく覚えている、あの時の手紙は今でも大事に取ってある」
 と言ったら、嬉し涙を流して喜んでくれた。行幸が相当に久しぶりである県の、ごくわずかな訪問先の一つで会えるとは、なんという巡り合わせであろうか。どうか気兼ねせずにまた送ってほしいと言っておいた。
 あれだけ美しい娘に育ったなら、きっとすでに好い人がいるのだろうし、もしいないとしてもできるのは時間の問題だろう。あと十年もすれば、今度はあの子の娘さんからも手紙が送られてくるかもしれない――。そのような余計なことを考えてしまって、嬉しいやら悲しいやら。

かのふみをくれしわらべも今はひめ 我が身ひとつはもとの身にして
(かつてあの嬉しい手紙をくれた童女も、今では立派な美人になっていた。時の流れは早いものだ。朕だけは何も変わらないままでありながら……)

同年十月一日条

 待てども手紙が来ないので、天皇に手紙を差し上げるのは畏れ多いなどと思われたのかと思って、あの娘さんが小学生の頃に書いてくれた手紙のコピーを同封し、こちらから手紙を書いてあの福祉施設に送ったのが一昨日のことである。
 そして今日、夕方に侍従が神妙な顔をしながら手紙を持って来たのには、本当に困ってしまった。小学生の頃からずいぶんと大人びた字であったが、お手本のような綺麗な字だった。朕も負けじとこの次は有栖川御流で書こうか。

同年同月二十五日条

 三十七歳の誕生日。祝賀行事が続いて朝から忙しかったが、合間にあの福祉施設に電話をかけてみた。先日のように手紙がすれ違いになってはいけないと思って、しばらく返事を出さなかったので、前の手紙への返事を口頭でするとともに、あの娘も今日が誕生日だと聞いていたから、祝福しようと思ったのである。ほんの二分だけのつもりが、いざ話してみると少し長くなってしまって、
「陛下、もうお時間でございます」
 と侍従に止められてしまった。今更ながら、やりたいことがいつも以上にろくにできないというのに、天皇誕生日の何がめでたいものか。

同年十一月三日条

 先日の電話の折、あの行幸後に地元紙にインタビューが掲載されたことを恥じらいながらも教えてくれたから、侍従に取り寄せるよう言っておいたのだが、ようやく手元に届いた。新聞紙は劣化しやすいから、一応ここに書き写しておく。
「実は小学生の頃、天皇誕生日に際して、陛下に手紙を差し上げたことがあるのです。詳細なやりとりは明かせませんが、ご丁寧なお返事をいただいて胸が熱くなったのを覚えています。その陛下とこうしてお会いできたことの感動は言葉にできません」
 あまり大きくはないが、彼女の写真も出ていた。大正天皇は、女性の写真を集めるのが趣味であったと聞く[2]。朕にそのような趣味は無いつもりだが、彼女の写真をもっと欲しいと思ってしまった。この日記を書き始めたちょうどその日に生まれた十八歳も年下の娘を相手に、いったい何を考えているのだろうかと、自己嫌悪に陥る。

文始三十年三月二十四日条

 夕べ、夢でまた彼女を見た。これで何度目だろうか。何度もこの気持ちは何かの間違いだと否定しようとしたが、いよいよもって朕は彼女に恋をしてしまっているのだと認識せざるを得ない。
 かつて罪を得て島流しに処された上皇たちはみな、都への望郷の歌を辺境からお詠みになったものだが、朕はといえばその逆に、東京を離れて雛びた愛媛に、白鳥にでもなって飛んで行きたいという思いが日ごとに強くなっていく。
 奈良絵本『烏帽子折草子』の中の用明天皇は、
「仏の娘に恋をしてしまったのだ。帝の位も惜しくはない」
 と、出奔しゅっぽんして単身で豊後国にまで行って、身分を隠して恋しい人の邸宅で三年間も下働きをしたという設定になっている。もし許されることならば、そのように国事を放り出してでもあの人のもとを訪ねたい。

同年五月一日条

 昼間、あの人を伴って皇居内を散策。気が付けば、美しい藤の花が咲いていた。数えきれないほどの紫の花房が垂れ下がっているさまを遠くから眺めると、まるで紫色の雲のようだった。
 今ではほとんど使われない表現だが、かつては皇后のことを「紫の雲」ともいったそうだ。ちょっと前までは、手を伸ばせばたやすく触れられる藤棚の花房とは違って、皇后のほうにはとんと無縁な生涯なのだろうとほとんど諦めていたけれども、どうやらそうでもないようである。

クロード・モネ『藤』

 一週間ほど前、思い切って電話をして、彼女に想いを打ち明けた。その日の日記にも書いたことだが、彼女の返事をもう一度、噛みしめながらここに書き残しておく。
「畏れ多いとは思いつつ私も、雲の上のお方というよりも一人の男性として陛下を見るようになってしまいました。たとえ若ければ誰でも構わないとの思し召しによるものだったとしても、私は喜んでこの身を捧げたでしょう。まさか陛下が私のような女を想ってくださるだなんて、思いもよらないことでございます!」
 そして今日、若さゆえの行動力であろうか、愛媛県からはるばる東京まで訪ねてきてくれたのだが、これを書いている今この時にはすでに離れ離れになってしまっていることが本当に悲しい。来春からは、皇居に咲く藤の花を二人きりで心行くまで見られるであろうか。遅くとも再来年の春には見たいものだ。

竹の園いまや藤さへ萌ゆるなり 愛媛よすなはち九重ここのへ
(竹の園生に今まさに藤までもが芽吹いているようだ。故郷に帰ってしまった愛しい人よ、愛媛県から、すぐさま皇后として宮中においでなさい)

同年七月十五日条

 愛しい人が訪ねてきてくれた。彼女が小学生の頃にあの手紙をくれた時、朕から礼状を書いたのだが、今日はそれを持ってきてくれたので、朕も大事にしまい込んであった手紙を見せた。
 その後、どういう流れでそうなったのだろうか、有栖川御流の手ほどきをした。そのようなことはほとんどする必要もなかったが、少しばかり彼女の柔らかい手を取って指導した時には、たったそれだけの触れ合いで、いい年をして天にも昇るような心地がした。まっすぐ参内してくれたというから、花の近くなどには寄らなかっただろうに、彼女からはどうしてあんなに甘い匂いがするのだろうか。

文始三十一年一月十日条

 今年、朕は生まれて初めて歌会始のために恋の和歌を詠んだ。これを披露すれば、国民はきっと大いに驚くことだろう。

紫の雲とぞ見ゆる藤のかう いとままうす君にぞ移る
(愛しい貴女がお別れの挨拶をしてくれた時、紫の雲のように自然と見えるあの藤の花の甘い匂いが漂ってきた。二人でしばらく眺めていたあの時に、匂いが移ってしまったのだろう)

 三十代後半になっても皇后を立てられずに、国民に対してずいぶんと心配させてしまって申し訳なく思うこともあったけれども、今となっては、これまで出会いがまともになかったのは二十歳近くも若いあの人に巡り合う運命だったからだとさえ思われる。
 かつて『源氏物語』を初めて読んだ時、まだ幼い紫の上に惚れ込んだ光源氏について、率直に言って、気持ち悪いという思いを抱いたものだ。光源氏と紫の上の年齢差は、大きく見ても十歳程度であるが、朕と彼女には、その二人どころではない年の差がある。今年の秋、朕は三十九歳で、彼女は同時に二十一歳になる。はたして国民は快く受け入れてくれるのだろうか……。

伝土佐光起筆『源氏物語画帖』若紫

文始三十二年二月三日条
「立后」

 平安朝の宇多天皇は、『寛平かんぴょう御記ぎょき』という日記に愛猫あいびょうについてあれこれと書いたことで知られる。今の朕が書く日記は、気を抜くと皇后がどんなに可愛いかを延々と綴るだけのものになってしまいそうだ。本人は昔から気にしていると言っていたけれども、初めて枕を共にした夕べ、月明かりに照らされて顕わになった首筋のほくろも、たいそう愛らしかった。
 この日記はもとより子々孫々に伝えられても構わないという気持ちで書き始めたものだし、そうでなくても覗き見することを皇后に許してしまったので、あまり過激なことは書けない。とりあえず、「あばたもえくぼ」ということわざの通りに、皇后のすべてが愛おしくて仕方がないとだけ書き記しておく。

同年同月四日条

 ご公務にお出ましの間に昨夜のご日記を拝見いたしました。私のほうも、お上が愛おしくて仕方がございません。愛しいお上のなさる御ことはすべて受け入れるつもりでございます。私の目はお気になさらず、どうかお上のお好きなようにお書きくださいまし。

 それでは本当に好きなように書くよ。あの夕べ、
「小学生の頃にお手紙を差し上げた時に、『もしも私が大人になってもまだご独身でいらっしゃったら、どうか私を皇后にしてください』と書こうかとも思ったのですが、さすがに恥ずかしくて書けませんでした。でも、まさか本当にその夢が叶うことになるとは――」
 恥じらいながらもそのように言ってくれた皇后があまりにも愛おしくて、思わず途中でその唇を奪ってしまった。おおよそは想像通りだろうが、言葉の続きを本人から聞けなかったのが惜しまれる。――今度は最後まできちんと聞くから、改めて聞かせてはくれないだろうか。

同年十二月二十日条
「内親王、誕生」

 齢四十にして初めての子が生まれた。なにぶん生まれたばかりの顔であるから、美しい母親によく似ているとはお世辞にも言いがたいが、わが子だと思うからこそそう感じるのであろうか、とても可愛らしい内親王であった。皇后がずいぶんと若いので皇太子がまだいないことはそれほど焦っていないけれども、この子のためにも、弟でも妹でもどちらでもよいから、なるべく早いうちに作ってやりたい。今の皇室には同じ年頃の子が全然おらぬので可哀想だ。

文始三十四年三月三日条
「白河宮実仁親王、婚約内定」

 実仁親王の婚約内定。朕よりも五歳も年長のこの従弟が、これから無事に白河宮家の跡取りを儲けられるのか、気がかりである。相手は実仁親王よりは十歳以上も若いとはいえ、すでに三十代半ばと聞く。もちろん皇后ほどではないものの、なかなかに美しい人で、とてもそのような年齢には見えないけれども。
 長らく相手のいなかった実仁親王が晴れて婚約に至ることができたのは、立后に伴って、宮家に皇位が渡る可能性が低くなったからではなかろうか。そのような打算の一切ない、純粋な愛ゆえの婚約だと信じたいが……。

文始三十五年六月十日条
「皇太子、誕生」

 待望の皇太子が生まれた。慶事は続くもので、新婚の白河宮のところでもめでたく懐妊判明とおととい報告があった。泉下の叔父上もさぞやお喜びになることだろう。生まれるのは今年の暮れ頃かという話。同い年になるわけだから、ぜひとも皇太子のよき遊び相手になってもらいたい。

同年同月十六日条
「命名の儀」

 命名の儀。「興宮おきのみや」という称号と「聡仁さとひと」という名を、皇太子に与える。何とかいう漢書の立派な文を出典とするようだが、自分で考えたわけではないので、忘れてしまった。静宮の時にも思ったことだけれども、ああでもない、こうでもない、と他でもない自分自身で候補を考えて思いのままに命名できる宮家の立場を、こういう時ばかりはちょっと羨ましくも思う。

同年十一月二十八日条
「女王、誕生」

 早朝、白河宮のところに女王誕生。やや高齢出産だったが、幸いにして母子ともに健康とのこと。さて、どんな名前にするつもりなのだろうか。

同年十二月四日条
「命名の儀」

 白河宮家に誕生した女王に「秋子あきこ」と命名との知らせ。秋の生まれだからそう名付けたとのことだが、いささか安直すぎやしないか? そもそも十一月の下旬はすでに立冬から半月が過ぎているが、まだ秋生まれと言えるのであろうか?

文始三十六年の皇室

文始四十年八月二十日条

 興宮が嬉しそうにしていたので、何かいいことがあったのかと聞いてみると、実仁親王のところの秋子女王と、大人になったら結婚しようと約束してきたのだという。朕にも覚えがある。子供同士の約束だからどうせ叶わないだろうが、このくらいすんなりと皇太子妃が決まればよいのに、と思ったりした。

文始四十二年四月八日条
「皇太子、初等科入学」

 興宮と秋子女王、初等科の入学式。まことにめでたい。同じく父母として臨席した白河宮と同妃も、いつになく嬉しそうだった。この年頃というのは総じて女子のほうが大人びて見えるもので、実際には半年くらい年下であるというのに秋子女王のほうがしっかりしていて、並ばせて一緒に記念撮影をした時にはまるで姉のように見えた。
 秋に五十歳になる朕は、やはり若い人たちが多い中でやや肩身が狭かったが、若い頃から白髪が多く「白髪の宮」などとあだ名されていた白河宮が同じ空間にいてくれたおかげで、いくらか気が楽だった。そういえば少し前、髪を黒く染める気はないのかと聞いたことがあったが、
「娘というものはそのうち父親を嫌うようになるそうです。だから私は秋子に祖父のように思われたいのです」
 と返されて、朕もいずれ静宮に嫌われてしまうのだろうかと不安に思ったけれども、幸いにしてそういう様子はまだ感じられない。

文始四十四年七月六日条
「皇太后、崩御」

 朝、皇太后にわかに崩御。正直、日記などは書く気にならないけれども、この悲しみを紛らせるために、あえて筆を執る。
 おたあさんにはとても可愛がってもらっていたから、興宮はひどく悲しんでいた。興宮にとっては、これが生まれて初めて直面する近親者の死だ。よく覚えておいてほしい。天皇はこの悲しみを知ってこそ、悲しむ国民に心から寄り添うことができるのであるから。

文始四十八年三月十八日条
「皇太子、初等科卒業」

 興宮が卒業式を終えた後、皇太后崩御の時よりもひどく悲しげであった。聞けば、中等科からは秋子女王と学び舎が別になるのが辛いのだと言った。夜、実仁親王が拝謁に来たので、その話をしてやったが、秋子女王も同じだそうだ。
 聞くところによると、二人は休憩時間中、ほとんど常に一緒にいたということだ。かつて二人が結婚を誓ったと聞いた時には、幼い子供同士のことだからと本気にしなかったが、もしかすると本当にそうなるのかもしれない。

文始四十九年五月二十三日条

 夜、興宮に有栖川御流の指南。まだ始めてからそれほど経っていないが、そもそも興宮の字はひどい。出来はともかく、即興で和歌を詠む才能だけは辛うじてあるようだが、基本的に皇室の古めかしい伝統文化にはあまり関心が持てぬらしい。いずれは公文書に署名すべき立場になるわけだけれども、それでも書道の類を修めさせることはもはや諦めたほうがよいのかもしれない……。
 静宮は同じ習い始めの頃でもまだましだったが、いまだに落第点である。そもそも比較対象が興宮では話にならない。興宮が幸いにして皇統を未来に繋ぐことができたとしても、朕か皇后が目の黒いうちに皇孫に教え込むことができなければ、有栖川御流はもうおしまいだ。

同年八月三日条

 きょうも秋子女王が参内。興宮が先日、
「有栖川流を後世に伝えたいのでしたら、秋子女王にも伝授すれば宜しいではないですか」
 と言ったからその通りにしてみたわけだが、秋子女王は呑み込みが早い。有栖川御流の次代の継承者は決まったも同然である。これで朕がこの世からいなくなっても、秋子女王から皇孫に伝授してもらえるだろう。間違いなくそうなるように今から拝み倒しておこうか。

有栖川宮幟仁親王による「五箇条の御誓文」

文始五十年九月三十日条

 秋子女王が参内。よせばよいのに皇后が、
「二人とも、幼い頃に結婚の約束を交わしたのを覚えていますか」
 などと興宮と秋子女王に尋ねたのだが、意外なことに二人とも平然としていた。気まずそうにするどころか、
「もしも二十五歳になってもお互いに特定のお相手がいないようでしたら、あのお約束の通りに致しませんか。私めのほうはその心配はないと思いますけれども」
「皇統を絶やさないためだ、不本意だがその時には皇太子の務めとして秋子くらいの女で妥協してやるか」
 などと冗談のように言い合っていた。
 夕方、金木犀キンモクセイの香りを楽しもうと庭園に出た時、その二人が抱擁し合っていたのには仰天した。じきに向こうも朕に気付いて、大変気まずかったが、興宮が顔を真っ赤にしながら近づいてきて一言、
「真剣な交際です」
 とだけ言ってきた。それを聞いた朕は、昭和天皇のあの有名な振る舞いを特に意識したわけでもないのだが、
「あ、そう」
 としか返すことができなかった。白河宮のほうでどう思うかはともかく、朕としては男女交際をするのは構わないが、あくまでも節度ある付き合いを望む。それにしても、いつからそういう関係になったのだろうか。

同年十二月二十五日条

 クリスマス。相手は秋子女王であろう、興宮がリビングで長電話をしていた。あの日以来、興宮は想いを隠そうとしなくなった。もうじき六十歳になる朕も、いまだに皇后を恋しく思う心が冷めやらないのだから、あれの年頃では無理もないことだろう。しかし、白河宮は娘があれと交際していることを知っているのだろうか。

文始五十一年一月二日条
熙子ひろこ内親王、成人」

 きょうは、静宮が成人してから初の一般参賀。若い内親王が登場したのはいつ以来か知れないほどだったので、国民はここ数年間の一般参賀では最も熱狂していたように思う。もちろん親としては嬉しく思うけれども、愛する皇后の注目度が下がってしまったことが少し悲しくもある。

同年同月十八日条

 夜、白河宮が参内。この機会にそれとなく秋子女王の様子について尋ねる。宮曰く、
「最近はよく遅くまで電話をしている声が自室から漏れ聞こえてきますが、相手が誰なのかは教えてくれないので、父親としては不安でたまりません。こんなことだったらまだ携帯電話など与えるのではありませんでした。学校での成績はすこぶる良好なので、無理に取り上げるわけには参りませんし、弱り果てています」
 深く気にしていなかったが、そういえば白河宮は元々多かった白髪が近頃さらに増えたようだった。こういうことは当人たちから報告があるのを待つのが本当はよいのだろうが、このままでは宮があまりにも哀れなので、知らせてやった。
「大切な一人娘ですから、並大抵の男にはやれませんけれども、皇太子殿下がお相手ならばまだ諦めがつきます」
 などと言っていた。

文始五十二年十月二十五日条

 還暦だから、宮中ではいろいろとお祝いをしてもらった。しかし、同時に四十二歳になった皇后はまだ三十代前半に見えるほど若々しいというのに、朕ばかりが老いていくことが辛い。年ごとに白髪が増え、頬のしわが深くなっている気がするが、きっと気のせいではないだろう。朕がますます老いていっても、美しいままの皇后は朕のことを愛する心まで変えずにいてくれるだろうか。

同年同月二十六日条

 私はいついつまでもお上のことをお慕い申し上げます。普通に考えれば私のほうが二十年ほど長生きするのでしょうが、もしも許されることならば、乃木希典のようにお上に殉じたいと前々から思っているくらい深く愛しています。二人の子供もすっかり手が掛からなくなりましたし、お上がおいでにならない世界なんて、生きていても仕方がございませんもの。

 殉死は絶対にならん。絶対に天寿を全うするように! 勅命である、これに背けば平将門などと並ぶ逆賊であるぞ。興宮以降、どれだけがんばっても三人目はできなかったが、二度とそんなことを言わないように、今からでももう一人作ろうか。

文始五十四年十月二十五日条

 天皇誕生日。お祝いの中身はこれまでとあまり代わり映えしないが、何と言っても、六月に十八の成年を迎えたばかりの興宮が、いや、もう成人したのだから称号で呼ぶのはよそうか。皇太子聡仁親王が一般参賀に加わるようになったことが嬉しくてたまらなかった。十年ぶりに懐妊した皇后がまた流産してしまったばかりでしばらく気持ちが沈んでいたが、久しぶりに晴れ晴れとした心地だった。
 よくよく考えてみれば、東宮が早く子を儲けてくれれば、今さら朕が三人目の子を持とうとしなくてもよいのだった。その時はきっとそう遠いことではないだろう。気が早い話かもしれないが、孫がある程度大きくなったら、東宮に譲位しよう。朕はその時、七十五歳くらいだろうか。

同年十一月二十八日条
「秋子女王、成人」

 秋子女王、成年の挨拶のために参内。これで皇室に未成年の者はまた一人もなし。夜、東宮が、
「これでようやく、お互いに結婚できる年齢になったね」
 などと嬉しそうに電話をしていた。相手はもはや聞かずともわかる。もう携帯電話があるのだから、そんな話は自室でやったらよかろうに。
 東宮のことを「春宮」ともいうが、そうなると春宮妃秋子女王ということになるのか。女王の印は「えのき」だった。まだ二人からそういう話はないが、婚儀は冬にしようか。……つまらないことを考えたものだ。これも年齢のせいか。

文始五十五年一月八日条

 正月の間は宮中行事がとにかく慌ただしく、しばらく日記をつけるのを忘れていた。
 今年の正月で最も印象的だったのは、一般参賀だ。年末に成年を迎えた秋子女王も今回から加わったから、数年前とは打って変わって若者の姿が三人となって、雰囲気が一気に華やいだように思われる。
 後で映像を見てみると、同い年の二人は、目を合わせることこそなかったけれども、しばしば互いを見ていた。もしかすると、目ざとい国民の中には、ただならぬ仲であると気づいた者もいたのではないか。

同年二月三日条

 東宮が、もう成人したのだから独立したいと申し出てきた。あれの考えは見え透いている。赤坂にある旧東宮御所に引っ越せば、白河宮家とはご近所さんということになるわけだから、秋子女王と少しでも近くにいられると思ったのであろう。
 宮家の跡継ぎに恵まれない実仁親王はかつて、できれば男として生まれてほしかったなどと言っていたが、朕としては女でよかったと思う。世間には皇族のお妃なんてまっぴらごめんだという女ばかりであるから、もしも秋子女王が男だったならば、東宮ともども伴侶を見つけられないままだったかもしれない。

同年八月二十日条

 実仁親王、誕生日につき参内あり。東宮御所から白河宮邸への往来があまりに足繫ければ、ほとんど平安時代の妻問婚つまどいこんさながらとのこと。若い二人がどんなに熱々かという話が次々と飛び出して、ただただ苦笑するばかり。しまいには、もう見ていられないから早く結婚を認めてほしいという催促であった。
「私や妃が在邸の時ですらあのご様子なのですから、私ども夫婦が公務などで不在の間には何をなさっているやら。ご婚儀を待たずにコウノトリが来てしまうようなことになっても知りませぬぞ」
 などと脅迫に近いことまで言っていた。
 本当かどうかは知らないが、鶴のつがいというものは、どちらかが死して骨になっても、その骨に近づく者に対して威嚇するほどに絆が深いと聞く。周の霊王の太子しんが仙人となり、白い鶴に乗って去ったという『列仙伝』の故事から、皇太子の乗る車を「鶴駕かくが」と呼ぶ。ゆえに、聡仁親王が生まれた時にその印をあまり深く考えずに「鶴」と定めたけれども、あれの秋子女王への執着はまさに噂に聞く鶴そのものである。

円山応挙『群鶴図屏風』

文始五十六年二月六日条
「皇太子と秋子女王、婚約内定」

 東宮が秋子女王を連れて、とうとう結婚したいと申し出てきた。これを認めた後、宮家の生まれであるからか、秋子女王は皇統を保つことに強いこだわりがあるようで、
「もしも私が子を生めない身体でしたら、ためらわずに離縁をなさってくださいね。魅力的な殿下でしたら、後添えはすぐに見つかるでしょう。私は宮家に戻って、一介の皇族として殿下をお支えいたします」
 などと言い出した。東宮がそれに対して、
「皇太子としては失格かもしれないが、秋子を捨てなければならないくらいなら皇統を絶やしてもいい」
 と言って、朕の目の前だというのに秋子女王を熱く抱擁し始めたから、目のやり場に困った。これほどまでに仲睦まじい二人が、子に恵まれないということはないであろう。今にして思えば、秋子女王の「秋」という文字は、皇后の宮殿を意味する「長秋宮ちょうしゅうきゅう」「秋の宮」を暗示していたような気がする。
 実仁親王には嗣子たる王がないので、白河宮家はこのままでは廃絶を免れ得ないが、いずれ二人の間に生まれてくる親王の一人に同じ宮号を賜って再興させればよいだろう。江戸時代の世襲親王家は、子孫が絶えた際には適当な皇子をして継がせしめたものだった。もしも二人が大勢の男子に恵まれたなら、伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の名跡を蘇らせるのもよいかもしれない。来年の話をすると鬼が笑うなどというが、どうしても朝家の明るい未来図を思い描かずにはいられない。

契りたる子らのそびらを眺めつつ 夫婦めをとあそびをふと思ひ
(結婚を許した聡仁親王と秋子女王の退出していく背中をぼんやりと見やりながら、幼い頃にあの二人がおままごとをしていた光景をふと思い出した日だよ。まさか本当に夫婦になるとはなあ)

文始六十二年十月二十五日条

 今日で七十歳。いろいろとお祝いをしてもらったのはありがたいが、婚礼から五年以上が経っても東宮のところにまだ子がないので、気が晴れない。あれだけ睦まじい夫婦にどうして子が生まれないのか、不思議でならない。どうやら熙子内親王は結婚する気がまるでないらしいし、孫を見られるのはいつになるやら。

文始六十七年八月二十日条

 妊娠していた秋子女王が、またしても流産とのこと。残念至極。婚礼から早くも十年が経つが、いまだ子は得られず。同族での結婚であるとはいえ、はとこであるから血縁的にはそれほど問題はないはずなのだが、いったい何がいけないのだろうか……。

文始六十九年二月十八日条
「白河宮実仁親王、薨去」

 白河宮実仁親王、けさ療養の甲斐なく薨去。五歳差だから、朕もあと五年ほどの命か。あの広い殿邸に一人きりとなってしまった白河宮妃の心中を思うと胸が痛む。皇太子が傍らにいるからまだましではあろうが、秋子女王もさぞや寂しかろう。一般的に娘は父親を嫌うものらしいが、あそこは父と娘というよりも、白河宮が目指していたように祖父と孫娘のような仲だったのだから。子がいれば気を紛らすこともできるのだろうが……。

文始七十年の皇室

文始七十年一月一日条

 在位七十年目を迎えた。今年の秋には七十八歳。そろそろ皇太子に譲位したいと思ったこともあるが、国民はみな、憲政史上最長となった在位記録をもっと伸ばすことを期待しているようだから、死ぬまで位にあり続けようと思う。それに、天皇というのは予想以上の激務であるから、子を儲けるのもやはり今よりはいくらか難しくなろう。皇太子夫妻には今の立場であるうちにがんばってほしい。

文始七十三年三月六日条

 皇太子妃にまた懐妊の兆しありと聞く。今度こそは無事に育ってほしい。二人とも三十代だからまだ時間的な余裕は少しあるものの、問題は朕のほうだ。かなり前から老いを感じていたが、齢八十を過ぎて、老化がひどく顕著になってきた。男でも女でもどちらでもよいから、死ぬ前に孫というものを抱いてみたいものだ……。

安化元(文始七十五)年八月二十日条

 早いもので、お上がお隠れになってからきょうで半月になる。このご日記のページをめくるたびに、在りし日のお上との思い出が鮮明に蘇ってくる。お上の副葬品にすべきではないかとも考えたけれども、私物とはいえ一級品の歴史的資料であることは間違いないし、お上自身、後世に残すことを望んでいらっしゃったご様子だから、公刊を認めることにした。私の死後、手元にある原本については、一緒に陵に埋めてほしい。
紫子ゆかりこ

安化三年十一月五日条
「皇太子迪仁親王、誕生」

 お上、つい先日、とうとう皇太子がお生まれになりました。充宮、迪仁と命名されたこの玉のような親王は、奇遇にもお上と同じ誕生日です。その顔を眺めてみますと、ご存命なら八十六歳におなりのお上の面影がどことなく感じられ、まるで愛しいお上の生まれ変わりのように思われます。私はこの孫の成長のみを楽しみに余生を過ごしたいと思います。可愛い孫との思い出話をたくさん用意しておきますから、そちらでゆっくりお待ちくださいな。

安化十年の皇室

【脚註】
[1]高松宮宣仁親王『高松宮日記』。
[2]久世三千子『女官』。

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