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【書評?】『街とその不確かな壁』村上春樹(小説)

(作品の内容を含みますので、少しでもネタバレしたくない方は
ぜひ作品を読んでからお越しください)

まず君に伝えておいた方がいいだろうと思うのは、
僕が今、村上春樹の小説『街とその不確かな壁』を読み終えたばかりで、
彼の文体の癖が少々この手紙に影響しているだろうということだ。
最後のページを閉じたのはほんとうについさっきのことで、
まだ彼の文体が僕を内側からほのかな星の光のように温めてくれている。

こんなふうに書くと、君はあるいは心配するかもしれない。
村上春樹の文体を真似するなんて、こっぴどく怒られるのではないかしら、と。
最悪の場合、作家の何某かの権利を侵害して訴えられたり、そういった類の心配だ。
あるいは、何を寝言を言っているのかしらと、呆れているかもしれない。
どれだけ真似しようと思っても、人の文体をそう簡単に真似できるものではない。
ましてや、あの村上春樹である。
似ていると思う方がちゃんちゃら可笑しいと君は考えているかもしれない。

後者の方については僕だってそう思う。
そんなのは手品師の出してくるトランプのようにまやかしで、影響されているなんて考える方がおこがましい。
だから、おそらくこっぴどく怒られるのは回避できるだろう。
それに幸い、この文章を読むのは君だけに限られている。

それにしても村上春樹の文章世界を泳ぐのは気持ちのよいことだと改めて思ったな。
もちろん、そこには楽しいだけではない、触れるのも恐ろしい人の心の成り立ちのような話も含まれている。
そう、村上春樹と言えば、というぐらいの暗く深い「井戸」の存在。内在する暴力性。
僕は今でも「やみくろ」や「リトルピープル」のことを思わないわけにはいかない。
彼ら・・・それらは今どうしているのだろうと。

僕が最初に村上春樹に夢中になったのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だった、という話は以前にしたと思うのだけど
あの「世界の終り」の「世界」に再び踏み入る機会がくるとは正直思っていなかった。
(村上春樹があの世界をもう一度描き直している理由については作者自身が「あとがき」で説明している。)
制御されているのに満ち足りているような、あの静かな世界のことだ。
単角獣が住み、壁に囲まれた町の南には水の「たまり」があり、
主人公は町の図書館で「夢読み」をしている、あの世界。

村上春樹の作品世界には「あちらとこちら」「二つの世界」のようなモチーフが常について回り、
その意味について考えを巡らせないわけにはいかないのだけれど
今回もまた、明確に二つの世界が存在している。
「あちら」では僕たちは、そう、影をなくさなければならないのだ。

そして「こちら」の世界に地に足をつけていて、主人公をこちらに繋ぎとめるような役割として登場するカフェのお姉さんがいる。
お姉さんもまた、ある問題を抱えていて、それは僕に『ノルウェイの森』も想起させるのだけど
いかなる問題を抱えていようと、彼女は「こちら」にきちんと存在していて、それは僕を(読者を)ほっと安心させてくれる。
(だから、いなくならないで、と思いながら読み進めることになる)
まさに彼女のカフェで提供される、コーヒーとブルーベリーマフィンのように。

主人公がやがて勤めることになる東北の図書館の館長や司書、
そこにやって来るイエローサブマリンのヨットパーカの少年など、
他にも個性的な登場人物が多数登場するし、いつもどおり主人公が作るご飯は美味しそうだ。

そして、忘れちゃいけない、比喩のことがある。
素敵なホテルの朝のトーストのようにぱりっとして輝やかしい村上春樹の比喩について、触れないわけにはいかない。
初期の頃から村上春樹の比喩表現は独特で、一般的に考えられる比喩より幾分長く、
比喩自体のオリジナリティーもすこぶる際立っている。
僕もこの文章で、調子に乗って混ぜ込んではみているが、お粗末なもので情けない限りだ。
比喩という湯船に浸かってゆっくりできるこのような小説は、あるいはこの世界にそう多くは存在しないかもしれない。

いつも思うことだけれど、誰かに村上春樹の作品の魅力を伝えることは僕には難しいみたいだ。
薄いグレーの小さな砂粒が、さらさらと指の間から抜け落ちてしまうように。
だから君にも僕の言わんとすることが伝わっている自信がない。
鮮やかな伏線回収や大どんでん返しがあって、ずばっと物事が解決しました、
という類の話ではまったくないから、仕方ないのかもしれないけれど。

でも、僕が思うに、そんなふうに「はっきりしない物事」は実は周りに溢れかえっていて、
それをポケットから取り出してはああでもないこうでもない、と眺めたり手に乗せたりしながら
自分の意見のようなものを作り出す時間が、案外とても大事なんだろう。

普段は見向きもしない、あるいは無意識的に遠ざけている根源的な問題。
それを引っ張り出すのを手助けしてくれるのが、村上春樹の小説なのかもしれない。

やれやれ、また長い手紙になってしまったみたいだ。
それじゃあ、また。
世界中の冷凍庫が開いてしまったみたいに冷える夜だ。
風邪には気をつけて。

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