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二番手だったぼくが思う組織のリーダーとはの話(後編)

ビジョンを描くことに話を戻します。

ビジョンという言葉もわかるし、それっぽいことも言える、しかし、自分は組織のリーダーとして方向性を示したり、目標を決めていく時に、


【これで合っているのかな?】


と不安になったときに、寄りどころになるのは、自分のビジョンの明確さや、やる理由です。


掲げたものが正しいのか間違っているのか、

効果的なのか非効果的なのか、

それは現時点では誰にもわかりません。


見方はたくさんありますが。検証するには、最後は結果にするしかないのです。

山でいえば、登ってみるしかないのです。もしそれで登ってみて、その山であっているなら意気揚々を下山してまた次の山を目指したらいいですし、もしイメージした景色と違うなら、そのときもまた意気揚々と潔く下山してほかの山に仲間と登ったらいいと思います。


一番リーダーとしてしてはいけないのは、迷うことです。

この山かな、あの山かもしれないと、山の麓で決断できずに右往左往しているだけでは景色は変わりません。


いろんな背景や現状あれど、それらを全部背負って、決断することが求められるとぼくもまだ未熟な点が多くありつつも感じているところです。


山の例えを続けると、

登山の途中、他の山がキレイに見えたり、他の山道がよく見えたりすることがよくあります。仲間たちもきっとそう思っていることでしょう。


そういうときこと、リーダーは明るい未来を断言して、登頂という【成果】に対して、全体を推進していかなければなりません。

このとき、別に毅然としていなくてもいいと思うのです。

最近は共感型リーダーシップも多く本で紹介されるようになってきていて、昔でいう強く完璧なリーダーでなくてはいけないことはないと思います。


しかし、どの時代も共通して、リーダーには決断が求められると思います。

その裏では、幾重にも一緒にいる仲間に想いを巡らせ、その上で、だからこそ必要な成果となるビジョンを描きます。


傍目からそれは非情に映ることもしばしばです。
しかし、人の気持ちを汲み取ると、体の良いことは言って、チームの成果責任を取らないリーダーは結局そのチームを沈めてしまうことになるのです。

誤解を恐れずにいえば、リーダーは自分のビジョンにわがままになり切るくらいがちょうどいいと思っています。言い訳を排除し、自分が責任を100%取るというところに立つということです。


なんとなく、ビジョンを決めるときはみんなの意見を聞いて、まとめてそれをビジョンや目標にする

と以前は、思っていました。


そのやり方もあると思います。ただ、いかにもそれっぽくて、ぼくはそればかり多投し、うまくいかなかった時期がありました。


結局、トップはわがままなくらい自分がどうしたいかという強烈なビジョンを描いて、そこに向かい、そこを示すことが大事だと感じる日々です。


その決定にどれだけ一人ひとりの想いを載せられるかが、リーダーの器であると思うと、やはり自分自身の器を広げたいなと思っています。


彼が自分の創り出す成果にわがままなくらい夢中になって、走った半年後、どんな景色を見るのかが今から楽しみです。ぼくも今日も楽しみながら山を登りたいと思います。

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