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夜話 『埋める』

※長編(約15,000文字)


 気がつくと、夜の森の中に立っていた。

 背の高い木が等間隔に並んでいる。夜空は天窓のように遥か高いところにあって、そこから覗き込むような満月が見えた。うっすらと霧が立ち込めているせいか、視界は青く煙っている。森というより、湖の底にいるようだ。遠くから耳鳴りのように聞こえてくる虫の声は、金属の鱗を持った魚たちが立てる、警告の音ように聞こえた。

 ――ザクッ。

 そう遠くない場所で、尖った音がした。
 茂みの向こうにちらりと動くものが見える。木の陰からそっと覗き込むと、誰かが地面に穴を掘っていた。暗くて顔はよくわからないけど、ときどき聞こえる浅い息遣いから、どうやら男の人のようだった。

 夜・森の中・死体・埋める。

 すぐに、そんなことを連想した。だとしたら、あの男の人の足元には、死体が転がっていることになる。でもここからだと、男の人の足元がよく見えない。

 少し近づいてみようと足を踏み出したとき、反対側の茂みに誰かが立っていることに気がついて、思わず声を上げそうになった。男の人を挟んで向かいの木の陰から、誰かがこちらを覗いている。でも、よく見るとそれは、人ではなかった。

 地蔵だ。

 赤い前掛けをした小さな地蔵が、木陰から覗き込むように立っていた。地蔵と狛犬の中間くらいの形をした、この街では「猫地蔵」と呼ばれる、よく見かける地蔵だ。

 男の人は私と地蔵に気づかずに、休みなく穴を掘り続ける。シャベルではなく枝を使って穴を掘っているようで、とても掘りにくそうだ。他に人の気配はない。地蔵と私だけが、穴を掘る男の人を見つめている。

 やがて男の人は穴を掘り終えると、足元から何かを持ち上げた。よほど重いものらしく、苦しそうに息を漏らす。持ち上げたものはちょうど、小さな子供くらいの大きさだった。子供、と想像して嫌な気分になる。でもそれは、なんとなく人の形をしているように見えた。

 男の人は、持ちあげたものをゆっくりと穴の中に横たえた。そして棒ではなく手を使って、念入りに穴を土で満たしていく。そして完全に埋め終えてから、穴のあった場所に向かって手を合わせた。
 殺してしまった被害者に手を合わせる。それが普通のことなのかどうか、殺した経験も埋めた経験もない私には、よくわからない。

 穴を離れて歩き出した男の人を、少し遅れてついていく。程なく、道路に面した小さな土の広場に出た。隅っこには、月明かりで青白く光った車が、カンカンと乾いた音をたてている。広場の端に置かれたバスの時刻表は、サビだらけで何と書いてあるか読めなかった。

 男の人は車に乗ると、何度か車を切り返して、道路を走っていった。赤いテールランプがゆっくりと遠ざかっていく。片方が壊れているのか、テールランプは左側しかついていなかった。浮かばれない魂のような赤い光は、淡い残像を残して、カーブの向こうに消えていった。

 森の中を振り返る。あの人は何を埋めたんだろう。やっぱり、死体なんだろうか。確かめてみたい気もしたけど、この夜中にひとりで死体と対面する勇気はない。

 しばらく森のほうを見ていると、視界の隅を、ひらり、と魚が舞った。男の人が埋めた穴の上あたりに、数匹の青い魚が、おぼろげに光りながらひらひらと踊っている。

 やっぱり、埋めたんだ。
 魚がいるということは、きっと。
 何か、普通じゃないものを。

 明日、朱音さんに相談してみよう。水曜日だから、夕方はアボカドにいるはずだ。明日朱音さんに会えると思うと、少しだけ、気分がよくなった。
 魚を見つめているうちに、ぼんやりと眠気の波がやってきた。そろそろ戻れそうだ。眠気に身を任せてゆっくりと目を閉じる。閉じる直前、また地蔵が目に入った。

 心なしか、目があったような気がした。

     *

 翌日の夕方、アボカドに向かった。
 アボカドは朱音さんたちのたまり場になっている古い喫茶店だ。朱音さんはいつも通りカウンターの奥の席に陣取って、片肘をついた姿勢で文庫本のページを捲っていた。男の子みたいに短い髪を、無意識に指先でいじっている。長いまつげが瞳に影を落として、少し眠そうに見えた。

 朱音さんは私に気づくと、文庫本を閉じて手招きした。頭の中でしっぽを振って、朱音さんのもとに駆けていく。
「そろそろ来ると思ってた。水鳥、お客さん」
「いらっしゃ〜い……なんだ、波流じゃん」
 奥からエプロン姿の水鳥さんが珈琲豆の布袋を抱えて出てきた。

 朱音さんと水鳥さんは隣町にある大学に通う大学生だ。専攻は民俗学。二人とも無類の怖い話好きで、暇さえあれば、怖い話だけは尽きることがないこの街の、怖い話を収集している。だから私の話も、馬鹿にせずちゃんと聞いてくれる。

 朱音さんの隣に腰掛けて、言葉を発する前に水をひと口飲む。小学校を不登校中の私は、朝から誰とも話をしていなかった。

「あのね、昨日の夜、変なものを見た」
「例のやつ?」
「だと思う」
「おっ。ちょっと待って。ノート出す」

 朱音さんは足元のリュックからノートを取り出した。これは私の夜歩きを記録したノートで、私が見たものを事細かに記してある。私が夜の街を、歩き回って見たものを。

 私は、夜を歩く。
 寝静まった夜の街を、ひとりで。

 でも実際に歩いているわけじゃない。歩いているのはどうやら、私の意識だけだからだ。そしてそのことを信じてくれるのは、朱音さんたちだけだ。

 夜歩きの最中は、なぜだか変なものをみることが多い。空を泳ぐ魚の群れだとか、路傍で佇む半透明の人影だとか。幽霊めいたものも見たりするので、その辺が朱音さんのオカルトセンサーを刺激するのだろう。

 普通に考えれば夢なのだろうけど、どうも夢ではないらしい。見たものをひとつひとつ検証した結果、私が夜歩きの間に目撃したものが実際に見た場所にあったりとか、実際に夜を歩いていないと知り得ない情報を、私が知っていたことがわかったからだ。というわけで、私の意識は、どうも実際に夜の街を歩いているらしい。そう考えないと、説明がつかないのだそうだ。

 水鳥さんが、私と朱音さんの前に淹れたての珈琲を置く。そしてカウンターの中のスツールに腰掛けて、録音アプリを立ち上げたスマホをカウンターに置いた。
「じゃあ、詳しく聞かせてもらおうか」
 探偵口調の朱音さんに促されて、私は昨日見た出来事を二人に話した。

「……死体?」
「はっきりと見たわけじゃないから、わからないけど」
「なるほど。あ、その広場から月は見えた?」
「見えた。えーと、真上」
「車ってどっちの方向に帰った?」
「広場から見て、左」
「どんな車かわかる?」
「よくわからなからないけど、なんか丸くて……小夜ちゃんの車みたいだった。あ、ランプがひとつ壊れてた」
「ヘッドライト?」
「ううん、後ろの、テールランプ」
「どっち側が壊れてた?」
「私から見て、右」

 朱音さんは私が答えた内容をノートに書き込んでいく。でも森の中ということもあり、場所を特定できそうな情報は圧倒的に少なかった。夜歩きはいつもこの街のどこかで起きるから、昨日の出来事もこの近くなんだろうけど、この街は海に面した東側以外をぐるっと山に囲まれている。

「うーん、これだけじゃ場所がわからないな……。もっと建物とかが近くにあれば探しに行けるんだけど。何か目印になるものなかった?」
「うーん、特に何も……あ、バス停があった。サビだらけで駅の名前は読めなかったけど」
「バス停か……廃止になった路線かな? その線から探せるかも」

 朱音さんがメモの中の「バス停」という文字を丸で囲むと同時に、店の外から猫が喉を鳴らすような低い排気音が近づいてきた。
「あ、小夜来たな」
 水鳥さんはそう言って立ち上がり、珈琲を用意し始めた。

 小夜ちゃんも朱音さんたちと同じ大学に通う大学生だ。
 専攻は数学科で、朱音さんや水鳥さんとは違うけど、三人は高校生の時からの親友で、今でもいっしょにいる。水曜の夕方は、全員がアボカドに集まる時間なのだ。

「ちょうど足が来たし、適当に山のほうでも調べてみよっかな」
「そんな雑な探し方があるかい」
「水鳥もいく?」
「私、バイト中に見えない?」
「だって客いないじゃん」
「確かに朱音たちはあんまり客っぽくないけど」

 しばらくしてドアが開いて、首をコキコキ鳴らしながら小夜ちゃんが入ってきた。細い眼鏡に、黒く長い髪の、先生みたいな風貌だ。実際、数学の先生を目指している。
「あー、疲れた……あら、波流。ひさしぶり」
 小夜ちゃんは私の隣に腰掛けながら、朱音さんの前に置かれた夜歩きノートにちらりと目を向けた。
「また何か見たの?」
「うん」
「ふうん」
 小夜ちゃんは理系でとても現実的な考え方をするけど、私の夜歩きのことは信じてくれている。そもそも、夜歩きが本当にあったことだと証明したのが小夜ちゃんだった。本人はたぶん、夢であることを証明しようとしたんだと思うけど。

 水鳥さんが小夜ちゃんの前にグラスに入った水を置く。
「おつかれ。こんな時間まで講義? 相変わらずギチギチに入れてんね」
「ううん、今日は家の手伝いしてた。この時期って忙しいのよね、ほら、大学入って車買ってもらった新入生があちこちぶつけまくるから」
 小夜ちゃんの家は「小野寺モータース」という自動車の修理工場をしている。そのせいか本人も車好きで、丸っこい、早そうな車に乗っている。

「そうなんだ。お疲れのとこ悪いんだけど、波流が夜歩きで見た場所を探しにいってみようと思って。小夜、これから車出してくれない?」
 言いながら、朱音さんもう椅子を立ち上がりかけている。
「待って、私まだ珈琲も飲んでない」
「そう思ってサーモに入れといたぜ」
 水鳥さんが小夜ちゃんの前に無慈悲にサーモを置いた。
「えー。まあ、いいけど……で、探すって何を?」
 小夜ちゃんの質問に、朱音さんが簡潔に答えた。
「死体」

     *

 それから小夜ちゃんの車で適当に山道を走ったけど、当然、何も見つからず、北の山の展望台に行ってソフトクリームを食べただけに終わった。そのまま、街のはずれにある朱音さんの家に向かことになった。アボカドのあとに朱音さんの家に向かうのが、水曜日のいつもの流れだ。
「亜樹がご飯作っといてくれるって。今朝磯釣りに行ってたから、カサゴの天ぷらか煮物じゃないかな」
「オッケー、じゃあお酒買っていこ」
 小夜ちゃんが行きつけの酒屋がある方に車を向けた。

 亜樹さんも朱音さんたちと同じ大学に通う大学生で、朱音さんと二人で暮らしている。いわゆる同棲で、もちろん、二人は恋人同士だ。
 亜樹さんは物静かで、いつも本を読んでいて、とても綺麗な字を書いて、とんでもなく美味しい料理を作る。男の人が相手だとどうしても緊張してしまうので、そんなにたくさんは話したことがないけど、亜樹さんは同じ空間にいてもあまり気にならない。いても、つい存在を忘れてしまうような、そういう存在感のなさというか、だからこそ生まれる安心感みたいなものが、亜樹さんにはある。

 LINEでお母さんに朱音さんの家に行くと連絡を入れる。お母さんは看護師で、水曜の夜は夜勤で帰らない。お父さんはずいぶん前からいないから、そういうときはひとりで過ごすことになる。だから水曜日は、お母さん了承のもとで朱音さんの家に泊めてもらうことが、ほぼ毎週の確定事項になっている。

 お母さんは朱音さんと仲がよくて、前にいっしょに朱音さんの家に遊びに行ったときは、二人で朝まで日本酒を呑んでいた。揃って酔い潰れてしまった二人を、亜樹さんといっしょにお布団に寝かしつけたっけ。

 酒屋に寄ってお酒を調達してから、田園地帯をまっすぐに突っ切る道路を進む。しばらくすると、山の麓あたりにぼんやりと灯りが見えてきた。あの辺りが、朱音さんの家である「サイレントヒル」だ。もちろん正式な名前じゃない。朱音さんたちが勝手にそう呼んでいるだけだ。名前は朱音さんの好きなホラーゲームに由来している。

 朱音さんの家はみたま市の北西のはずれにある古い平屋の一軒家で、前は見渡す限りの田んぼ、後ろにはすぐ山肌が迫っている。隣の家までは数百メートル、最寄りの外灯までも百メートルあるので、家の近くは夕方でも暗いし、夜になると完全に闇に飲まれてしまう。
 山が近いせいか頻繁に霧が出て方向を見失うし、霧の中からよくわからない鳥の鳴き声が聞こえてきたりして、昼間でも気味が悪い。というわけで、サイレントヒル。

 でも私は、朱音さんの家が嫌いじゃない。夜はちょっと怖いけど、夜の闇に浮かぶ朱音さんの家の灯りは温かくて、玄関をくぐると、いつも「帰ってきた」という気になる。人が多い街のほうが、私には落ち着かない。

 サイレントヒルに到着するころには、日はすっかり落ちてしまっていた。車から降りると、山の匂いと炊きたてのご飯の匂いがした。朱音さんに続いて家にあがり、手を洗って居間に入ると、開け放した襖の向こうに、料理をする亜樹さんの後ろ姿が見えた。

「おかえり。二人ともいらっしゃい」
 亜樹さんがこちらを振り返る。普段は眼鏡をしているけど、今は料理中で外していた。
「おじゃまします」
「おじゃましまーす。亜樹くん、仙禽のドメーヌ買ってきたから、みんなで飲も」
「やった。じゃあ、つまみっぽいの作るよ」

 ご飯とつまみができるまでの間に、みんなで居間のちゃぶ台に食事の準備を整えた。待ちきれない朱音さんが、ちゃぶ台の前に座って日本酒の栓に手をかける。
「ちょっと味見しようぜ」
「ずるい、私も」
 小夜ちゃんが朱音さんの隣に座る。お猪口を持った亜樹さんも、台所から滑るようにやって来た。みんな日本酒に目がないのだった。みんなに日本酒が行き渡ると同時に、外からバイクの排気音がした。
「さすが水鳥、鼻が利く」
 朱音さんは立ち上がって水鳥さんの分のお猪口を持ってくる。玄関のドアが開く音と、「おじゃましまーす。あっ、吟醸香ォォォ!!」という水鳥さんの声が聞こえてきた。

 私もグレープフルーツジュースをもらって末席に加わる。私は小学生だからもちろんお酒は飲めないけど、朱音さんたちが好む日本酒から漂ってくる甘い香りは、好きだ。
 みんなの声を聞きながら窓の外を見ると、真っ暗な闇の中に、市街地の灯りがぽつぽつと浮かんでいるのが見えた。夜の街の灯りを遠くから見つめていると、何だかいつも、少し寂しくなる。それと同時に、街から離れていることに、心のどこかでほっとする。街は私にとって、外から眺めているほうが安心できるものなのかもしれない。

 亜樹さんがおつまみと料理を運んできて、そのまま夕食になった。夕食は春菊とちりめんじゃこのサラダ、カサゴの煮付けと唐揚げ、それに、きりたんぽと鶏団子の入ったせりと薺の鍋だった。

「春菊の季節もそろそろ終わっちゃうね」
「んっ、じゃこがいいアクセント」
「せりの根っこ美味いな」
「鍋はそのまま食べていいし、ちょっとポン酢落としてもいいかも」
「朱音、お酒おかわり」
「もうないが?」

 この家の食卓はいつもにぎやかで、栄養だけじゃなくて、いろんなものを吸収している気分になる。

 食事が終わるとみんなでお皿を洗って、水鳥さんがコンロを借りてハンドドリップで珈琲を淹れてくれた。全員が再びちゃぶ台に落ち着いてから、朱音さんがノートを見ながら、昨日私が見たことを手短にみんなに話した。

「……てなわけなんだけど、今わかってる情報から、なんとか場所を探せないかな」
 朱音さんが珈琲片手にみんなを見回す。
「やっぱ、バス停から洗うのがいいんじゃない? もう使われてない路線のどこかなのかも。そういう情報なら、ネットで見つかりそう」
「でもこのあたりって山だらけだし、廃路線めっちゃありそうじゃん?」
「う。でもまあ、いちおう調べてみるわ。水鳥、手伝って」
「おっけー」
 小夜ちゃんと水鳥さんがスマホで廃路線を調べ始めた。
「亜樹、なんか思いつくことない?」
 朱音さんが亜樹さんに話を振る。
「んー、地蔵からどうにかして探せないかな」
「地蔵から?」
「猫地蔵って地蔵っていうか道祖神に近いよね。普通は路傍とか境界にあるものだから、森の中にあるっていうのが珍しいと思った」
「言われてみれば、そうかも」
「教授にみたま市の道祖神関連の資料を借りてみるよ。もしかしたら載ってるかも」
 民俗学ってそういうことも調べるんだ。民俗学がどういう学問かよくわかってないけど、朱音さんたちを見ていると、私も勉強したくなってくる。

「……埋めてたのって、やっぱ死体なのかな」
 検索に飽きた水鳥さんがいかり豆をかじりながらつぶやく。
「わかんないけど、夜の山の中に埋めるんでしょ? その文脈だと、やっぱ死体でしょ」
 朱音さんの言葉に小夜ちゃんが首をひねる。
「そうなんだけど……なんか、現実感に欠けるっていうか」

 小夜ちゃんの言うことは私にもわかる。この街の山のどこかに、誰かが死体を埋めたと言われると、あんまり現実感がないような気もするのだ。
「それに、埋められてるのがみたま山だったりしたら、起きあがるんじゃない? 死体」
 水鳥さんが家の裏のほうを振り返って言う。

 みたま山は、みたま市の北西に位置する山で、昔は霊山と呼ばれ禁足地だったらしい。そのせいか、山には怖い話がたくさんあって、その中には「山に埋めた死体が動き出す」という、いわゆる起きあがりの伝承が多く残っている。

 水鳥さんの言葉に想像する。
 夜の森の中、湿った土を掻き分けて、死体が起きあがってくる。死体はふらふらと歩き始めて……何をするんだろう?

「……死体って、起きあがったら何をするの?」
「そりゃ、犯人を探すんじゃない? 恨みを晴らすために」
 私の疑問に、朱音さんが答える。
「ホラー映画的には、目撃者のところに来るってのもあるかな」
「えー……」
 泣きそうな顔になっていたのか、朱音さんは私の頭をポンとたたいて、笑った。
「ごめんごめん。大丈夫、来たりしないよ」

 けど、それはやって来た。
 思っていたものとは、別のものだったけど。

     *

 ――コツン。

 小さな物音に目を覚ました。
 見慣れた木目の天井が月明かりにぼんやりと浮かびあがって見える。頭を動かすと、すぐ近くに朱音さんの寝顔があった。

 そうだ、朱音さんの部屋が散らかってて片付けるのに時間がかかりそうだったので、今日は居間に布団を敷いて眠ることになったんだっけ。私は朱音さんといっしょの布団で、隣の布団に小夜ちゃんと水鳥さん。
 小夜ちゃんは寝ぼけて、さらに奥の水鳥さんの胸に抱きついていた。水鳥さんは寝ぼけて小夜ちゃんの髪をかじっている。亜樹さんは部屋に戻って寝ているようで、亜樹さんの部屋に続く襖は閉められていた。

 ――コツン。

 また音がした。何かがガラスに当たるような音だ。
 体を起こして庭に面したガラス戸に目を向ける。ガラス越しに、月明かりに照らされた庭がぼんやりと浮かびあがって見えた。でも、ガラス戸の一部だけが何かが立てかけられているように暗い。
 なんだろう、と目を凝らして、意識が一気に覚醒した。

 小さな人影が、ガラス戸の向こうに立っていた。

 体を起こしたままで、息を呑む。朱音さんを起こそうと思ったが、目を離すと家の中に入ってきそうな気がして、動くことができなかった。
 しばらくそのまま影を見つめていると、雲が流れて、明るさを増した月の光が、ガラス戸の外の影を照らし出した。

 立っていたのは、赤い前掛けをした、小さな地蔵だった。

     *

「昨日も来た?」
「……来た」
 翌週、水曜日の昼過ぎ。私はだいぶまいっていた。

 先週の水曜日に朱音さんの家に泊まって、窓の外から覗く地蔵を見た。あの日はあのまま布団に潜り込んで、朝になってから朱音さんたちと窓の外を調べてみたけど、地蔵の痕跡は何もなかった。
 夜歩きという感じでもなかったし、前日に見たもののせいで、夢を見たのだろうということになったんだけど……。
 あれから毎日、地蔵は私を訪ねてくるようになったのだ。

 部屋の窓から覗いていたり、電柱の陰に立っていたり。昨日は二階にある私の部屋の窓から眠る私をじっと見ていて、目を覚ますなり叫び声をあげてしまった。
 悪意のようなものは感じないけど、心臓に悪い。
「どうしろってんだろうね。犯人じゃなくて波流のとこにくるなんて」
 朱音さんが腕組みをして考え込む。カウンターの中の水鳥さんもドリッパーを手に唸っている。
「犯人のとこに行ったけど、霊感がないとかで全然見えなかったから波流のところに来たとか?」
「埋められた人の無念を波流に晴らして欲しいってこと?」
「期待されても困る……」
 ついぼやきが出てしまう。地蔵は、私に何ができると思っているのだろう。

 何度目かのため息をついたとき、朱音さんのスマホに着信があった。
「小夜? どうした? うん、いるけど。えっ?」
 朱音さんが私のほうをちらりと見る。
「うん、わかった。とりあえず向かう」
 朱音さんは電話を切ると、脱いでいたパーカーを羽織った。
「波流、今から大学に行こう」
「えっ、大学?」
「波流に関係ある話だったん?」
 朱音さんは水鳥さんに向かって微妙に頷いた。
「関係あるかはわからないけど、ちょっと気になる話だった。小夜が学食でお昼を食べてたときに、近くいたグループが怖い話をしてたらしいんだけど」

 怖い話……
 そう言えば小夜ちゃんは、誰かが怖い話をしてるときに偶然側に居合わせるという、奇妙な特性があるのだった。
「そいつらの友達に、地蔵に追いかけられてるやつがいるんだって」

     *

 私と朱音さんはバスで、水鳥さんはバイクで、朱音さんたちの通う「まほろば大学」に向かった。大学に足を踏み入れたのは初めてだ。
 夕方なのに思ったよりたくさんの人がいて、人混みが苦手な私はすっかり人に酔ってしまった。当たり前だけど、朱音さんと同年代の人たちばっかりで、小学生は私以外に見当たらない。
 朱音さんは「へーき、へーき」と言っていたけど、ジロジロ見られまくってさらに酔いが加速した。フードコートっぽい雰囲気のところに入ると、隅っこのテーブルで小夜ちゃんが手を振っているのが見えた。

「小夜、サンキュ。で、その地蔵に追われてる人は?」
「ここに呼び出してくれるって。呼び出した人は、講義があるから行っちゃった」
「なんて言って呼んでもらったの」
「ほら、朱音たちが怖い話を集めてるのって、わりかし有名じゃない。だからその人の話、ちょっと聞きたいんだけどーってお願いしたの」
「さすが小夜、機転が利く。んじゃ、怖い話を聞く体で進めるか」
 朱音さんが小夜ちゃんの隣に座る。私もその隣に腰掛けた。
「ていうか水鳥も来たの? 店は?」
「緊急事態につき、閉めてきた。どーせ夕方以降、あんま客来ないし」
「相変わらず自由な店ね……まあ、あそこ、水鳥の店みたいなもんだし」
 水鳥さんが朱音さんに向かって片手をあげる。
「んじゃ、朱音。私はあっちにいるから」
「プランA、よろしく」
「ラジャ」

 水鳥さんはテーブルを離れて、入り口近くの別のテーブルに陣取った。

「あれ? 水鳥はあっち?」
「とりあえず話を聞いたあとでちょっとカマかけるから。怪しい動きを見せたら、水鳥が尾行することになってる。尾行するなら面の割れてないほうがいいかなって、水鳥はバイクで尾行もしやすいし」
「尾行って、何のために?」
「波流と同じ地蔵に追われてるとしたら、埋めた本人である可能性もあるよね」
「まあ、すっごく極端に言えば」
「カマかけたら慌てて戻るかもしれないじゃん、埋めた場所に。だからうまく行けば場所を特定できるかもって」
「それがプランA? プランBは?」
「いや、Aしかない」
「それただのプランじゃん」

 朱音さんと小夜ちゃんの会話を聞きながら、まわりをぐるりと見回す。食事をしている人だけじゃなく、本を読む人やパソコンを広げている人もいる。カフェみたいだ。
 あちこち見回していると、人波の向こうに、ちらりと青い影が見えた。
「……あっ」

 魚だ。

 出入り口に行き交う人の上に、ひらりと魚が泳いでいる。やがて人波をかき分けて、暗い雰囲気の男の人がこちらに歩いてきた。魚は、その肩にまとわりつくように泳いでいる。
「波流、どうした?」
「……たぶん、あの人だと思う」
「何か見えた?」
「うん、魚が、くっついてる」
「……オーケー」
 朱音さんがポンと私の頭を撫でる。魚は男の人のまわりをひらひら泳いでいたが、テーブルに到着する頃には消えてしまった。

「……あの、小野寺さん、ですか?」
「あー、小野寺は私なんだけど、話を聞きたいのはこっちの」
 小夜ちゃんが朱音さんを指す。
「ども、黒崎です。わざわざごめんね、えーと」
「あ、横田です」
「横田くん。私、怖い話を集めててさ、君の体験した、地蔵に追われてるって話を聞かせてもらいたいんだけど。あっ、こっちの子は気にしないで。妹なんだけど、大学見てみたいってついてきちゃってさ」
 急に妹にされてしまった私は、慌てて頭を下げた。

 横田さんは向かいの席に腰掛けて、地蔵の話を話し始めた。内容は、私の体験とほぼ同じだった。誰かの気配を感じて振り向くと、物陰から地蔵が見ている。家の窓からも覗いている。車のバックミラー越しに、後部座席にいる地蔵が目に入る……。

「それが毎日続くから参っちゃって……友達は誰も信じてくれないし……これ、どう対処すればいいんでしょうか。やっぱりお祓いとか行ったほうがいいんでしょうか」
 横田さんは縋るような目を朱音さんに向ける。こういうことの対処に詳しい人だと思われているようだ。
「うーん、私は怖い話を集めてるだけで専門家じゃないからなぁ……。地蔵に追われる心当たりって、何かないの?」
「そんなの……ないですよ」
 横田さんは少し言葉に詰まってから答えると、ごまかすように珈琲の入ったカップを持ち上げた。朱音さんと小夜ちゃんが一瞬、視線を合わせる。

「そう? 何かあるんじゃない? 例えば…………車で、誰かを轢いたとか」
 え? それを聞くの?
 と思った途端、横田さんの手からするりとカップが抜け落ちて、膝のうえに派手にこぼれた。

「あっつ!!」
「ちょ、大丈夫!?」
「あ、私、布巾とってくる」
 小夜ちゃんが走ってカウンターから布巾を取ってきた。
「す、すみませんでした。あ、あの、僕。ちょっと用事あって……失礼します」

 横田さんはこぼれた珈琲を片付けると、朱音さんの質問には答えないまま、そそくさと歩き去っていった。朱音さんが水鳥さんにハンドサインを送る。水鳥さんは小さく頷き、少し間を空けてから横田さんを追っていった。

「怪しい動きをしたらとは言ったけど……なんだあのベタな反応」
「私は朱音さんの聞き方が直球すぎてびっくりした……」
「うそ、自然に聞いたつもりだったけど。ねえ小夜、自然だったよね?」
 話を振られた小夜ちゃんは、顔を傾けて唸っている。
「……私、いまの横田くん? どっか見たことある気がする」
「何かの講義がいっしょとかなんじゃない?」
「うーん、そうなのかなぁ……」
 小夜ちゃんはしばらく頭の中を検索するようにこめかみに手を当てていたが、やがて思い出したようで、パッチリと目を開いた。
「……思い出した。こないだうちに来たわ。お店のほうに。ちょうど波流から夜歩きの話を聞いた日だったと思う」
「小野寺モータースの客?」
「そう。ぶつけてライト壊したから、直してくれって。テールランプ」
「……へえ」
「普通に駐車場でぶつけたとか言ってたような……。私、事務所でデータ入力手伝っててちら聞きしただけだから、あんまりよく憶えてないけど」
「人を轢いたような傷じゃなかった?」
「わかんないな、車は見てないし。でも、流石にそれっぽかったらうちのお父さんも通報すると思う」
「だよね。まあ、あとは水鳥の報告を待ちますか」

 そのまま食堂で待機していると、1時間ほど経過したころに、水鳥さんから朱音さんのスマホに電話があった。
「どうだった? あ、ちょっと待ってみんなにも聞こえるようにする」
 朱音さんがスマホをスピーカーに切り替えてテーブルに置く。すぐに水鳥さんの声が聞こえてきた。

「ビンゴですよ、ビンゴ。車で移動したからバイクでついてったんだけど、山道に入って、途中で車停めて森の中に入ってった。南の、みたま市からまほろば市に続く山道の途中。あ、旧道のほうね。Google Mapにピン刺しといた」
「ナイス!」
 報告を聞いた朱音さんが指を鳴らす。
「でも、ちょっとまずいかもしんない」
 水鳥さんの声が硬くなった。
「え、何かあったの?」
「あいつさ、たぶんサイコパスだよ」
「なんでよ」
「ちょっと想像してみて。あなたは死体を埋めました。んで、バレたかもしれなくて、死体を埋めた現場に戻ってます」

 朱音さんが目を閉じる。想像しているらしい。

「うん、想像した」
「どんな気持ち?」
「どんなって、確かめるまで気が気じゃないっていうか」
「でしょ? そんなとき、なにか食べようと思う?」
「それどころじゃないでしょ」
「あいつ、ファミマ寄ってファミチキ買ったぜ」
「ファミチキ?」
 朱音さんが変な声を出す。
「まあ、ひとまず向かうよ。水鳥いまどこ?」
「まだ尾行中。横田くん、山を降りてすぐにあるコメダに入って、カウンターでスマホいじってる。私はシロノワール食べてる」
「オーケー、そのままよろしく。また連絡する」

 通話を終えて朱音さんが立ち上がる。
「じゃあ、行ってみよっか。小夜、車お願いしていい?」
「いいけど……行ってからどうする気?」
「それは行ってから決めようかなって……あ、人数は多いほうがいいかもしれないな。亜樹も呼ぼう」
 朱音さんは珍しく緊張した顔をしてから、スマホを耳に当てた。

     *

 薄暗い森。乾いた土の広場。錆びたバス停。
 夜歩きのときに見た場所だ。あの夜、車が止まっていた場所には、今は小夜ちゃんの車が止まっている。森に入ると、広場から少し入ったところに、土を掘り返した跡が見つかった。そして近くの木の陰には、覗き込むように地蔵が立っている。やっぱり、ここに間違いない。

「ここ?」
「……だと思う」

 朱音さんは頷くと、地面にしゃがみこんで掘り返した跡を検分し始めた。すぐ近くに上が平らになった石があって、その上に紙袋のままファミチキが置かれていた。
「これ、お供え物のつもりかな?」
「いよいよサイコパスみが増したわね……」
 小夜ちゃんが嫌なものを見るような目をファミチキに向ける。
「で、これからどうするの?」
「いちおう、怪しい反応も見れたし、こうして掘り返した跡も見つかったし……」
「警察行く?」
「掘り返しちゃダメかな?」
「嫌よ、何いってんの」
「あ、亜樹が来た」

 広場に亜樹さんのRV車が入ってくる。車から降りた亜樹さんは、なんと片手にシャベルを持っていた。
「え、ちょっと待って。亜樹くん、まさかここ掘る気?」
 小夜ちゃんが信じられないという表情をする。
「さっき朱音に聞いた感じだと、反応が怪しいってだけで殺人とか死体遺棄の証拠って何もないから、通報するにしても、もう少し証拠が必要かなって」
「だとしてもよ? だとしても……えー?」
「まあ、それらしい痕跡が見つかったら警察に任せるよ。それより、水鳥ちゃんは? もしかしてその男の人をまだ尾行中?」
「そう、コメダに入ってそのまま動いてないって」
 朱音さんがスマホを確認しながら答える。
「もし悪い想像が当たってた場合だけど、死体を埋めた本人ってことだよね。まあ、人目があるところで何もしないと思うけど、念のため、水鳥ちゃんのところに行ったほうがいいと思う」
「それもそうだ」
「俺はここ掘ってから合流するから、声かけるとしたら、俺が来るまで待って」
「わかった」

 というわけで亜樹さんがここに残り、私と朱音さんは小夜ちゃんの車で水鳥さんのところに向かうことになった。
 去り際、なんとなく違和感を覚えて、足を止めて周囲を見回す。目の前の風景が、さっきまで見ていた風景と微妙に違うような気がした。何かが増えたような……いや、何かがなくなったような……。
「波流、どうした?」
「ううん、何か変な気がして……」
 言葉の途中で、違和感の正体に気づく。

 さっきまで木の陰に立っていた地蔵が、どこにもなかった。

     *

 コメダにつくと、水鳥さんが外で待ち構えていた。
「あっ、朱音! やばいやばい、もう出てきそう。あ、出てきた」
 扉が開き、横田さんが出てきた。
「……仕方ない、亜樹が掘り返すまで、時間持たせるか」
「え、朱音。亜樹くん来るまで待つって言ってたじゃん」
「駐車場で話すだけだから」
 朱音さんが横田さんのところに走っていく。横田さんは朱音さんの姿を見てびっくりしていたが、すぐに怪しむような表情に変わった。

「……まだ僕に用ですか?」
「ごめんね、何度も。地蔵の話、気になってさ。どうして追われてるのかなって」
「だから……それは……こっちが聞きたいですよ」
 やっぱり歯切れが悪い。
「ホントに心当たりない?」
「ホントに、ないですってば」
 朱音さんはしばらく迷っていたが、やがて覚悟を決めるように、横田さんに向き直った。
「……ホントはわかってるんじゃない?」
「……何がですか?」
「地蔵に追われてるのは、死体を埋めたのと関係がある……と私は思うんだけど。地蔵を見るようになったのは、死体を埋めた後から……違う?」
 横田さんの動きが止まる。否定するかと思ったら、横田さんはそのまま、下を向いて黙り込んでしまった。

「そうなんですか……やっぱり、恨まれてるんですかね……」
 やけにあっさりと認めた。小夜ちゃんが目を見開いてスマホを取り出す。
「……警察、呼ぶよ? いいよね?」
「警察沙汰になるんですか?」
「いや、あたりまえでしょ! 何言ってんの!」
「いや、でも、ちゃんと埋めたし……」

 その答えにゾッとする。水鳥さんが言っていた、サイコパスと言う言葉を思い出した。小夜ちゃんは恐怖より怒りが勝ったのか、それとも怒りで恐怖を誤魔化しているのか、横田さんを問い詰めている。

「いや、埋めたからって、そういうわけにはいかないでしょ!? だって、殺して、埋めたんでしょ? 犯罪だからね!?」
「確かに死なせちゃったけど……犯罪になるんでしょうか」
「なるに決まってんでしょ! 人を殺して埋めたのよ!?」
「……いえ、埋めたのは猫ですけど」
「……猫?」

 横田さんの話はこうだった。
 大学入学祝いで買ってもらった車で、旧道を使ってドリフトの練習をしていたとき、操作を誤ってカーブで後輪が流れてしまった。車に何かがぶつかった感触があって、路肩の木に接触したと思って車を降りたら、猫が倒れていた……。

「そのまま放っておくのも忍びなくて……近くの森に埋めたんです」
「はあ……そう……ええ……?」
 朱音さんはなんとも言い難い表情をしている。
「じゃあ、あそこには猫が埋まってるわけ? え、でも、ちょっと待って。なんかうまくつながらない。地蔵はどっから来た?」
 混乱している朱音さんの肩を、小夜ちゃんが叩く。
「……ねえ、亜樹くんに電話したほうがよくない? このままじゃ猫の死体と対面しちゃうわよ」
「あ、やばい」
 朱音さんは亜樹さんに電話をかけて、すぐに甲高い声をあげた。
「え? 掘っちゃった?」
 朱音さんの声に、小夜ちゃんが天を仰ぐ。
「もう掘っちゃったって」
「聞こえたわよ! ああ、想像しちゃった……」
「それで? え? 出た? え? なんで?」
 朱音さんは「とりあえず行く」と言って、電話を切った。
「小夜、車出して。私たちも行こう」
「えっ、行くの? 私も? 見なきゃだめ?」
「あと、えーと、横田くんも」
「よくわかんないんですけど……何が起きてるんですか?」
「いや、君が埋めたところね、私の彼氏が掘り返したんだけど」
「なんでそんなことするんです!?」
「掘ったら、地蔵が埋まってたんだって」
「……地蔵?」

 人の思考が覗けたら、きっと全員の頭の上に、大きなクエスチョンマークが見えただろう。
 結局、誰も何も説明できないので、現地に行くことになった。埋めた本人である横田さんは、納得いかないようにさかんに首をひねっていた。

     *

 掘り返された穴の横に、地蔵がちんまりと置かれていた。
 間違いない、私を追ってきた地蔵だ。その代わり、木の陰に立っていたはずの地蔵は見当たらない。もしかしたらあれは、私にしか見えていなかったのだろうか。

「……地蔵だね」
 朱音さんが亜樹さんの隣に立って、もっともな感想を言う。
「だから、そう言ったじゃない」
「えっ、なんで? えっ、だって、確かに……ええっ!?」
 横田さんはあの夜を再現するかのように、何かを抱える真似をしたり、埋める真似をしたり、記憶と現実のすり合わせに必死になっている。
「確かに猫だったんですよ! 地蔵なんかじゃなかったんですよ!」
 混乱しきった横田さんの肩を、亜樹さんが落ち着かせるように軽く叩く。
「猫を轢いたのってどの辺?」
「す、すぐ近くのカーブですけど」
「そこに行ってみよう。もしかしたら、何かあるかも」
「あるって何が?」
「まあ、とりあえず」

 亜樹さんに従ってみんなで移動すると、思いもしなかったものが見つかった。
 地蔵だ。赤い前掛けをした小さな地蔵。さっき掘り起こした地蔵と、傍目には同じに見える。
 その隣には、地蔵が置かれていたらしい石の台座があったが、よく見るとそれは台座ではなく、折れてその場に残った地蔵の根元の部分だった。もとは二つの地蔵が並んで置かれていたようだ。

「たぶん、カーブを曲がりきれなくて後輪が流れて、そのときにテールランプが地蔵のひとつに当たって……それで割れちゃったんじゃないかな」
「えっ、でも……確かに猫……だったはずなのに……」
「まあ、混乱してたから猫に見えちゃったんじゃないかな」

 亜樹さんが横田さんを落ち着かせるように言う。
 亜樹さんの言葉の通りなら、車で壊した地蔵を猫と間違えて森の中に埋めて、それを私が目撃した……というのが、あの夜に起きた出来事のようだ。横田さんはまだ納得していない様子だったが、水鳥さんの「地蔵に化かされたんじゃね?」という言葉にゾッとしたのか、それきり静かになった。

「こんなとこまで後輪流したの? ちょっと突っ込みすぎなんじゃない?」
「あと猫にファミチキ食わせんな。例えお供え物でもだ」
 ドラテクにうるさい小夜ちゃんと猫にうるさい水鳥さんからダメ出しを食らって、横田さんはますます静かになってしまった。

 掘り返した地蔵は土の中に埋められていたせいか、だいぶ汚れていたので、いったんサイレントヒルに持ち帰って洗ってから、後日元の場所に戻すことになった。

 次の土曜日、私たちは再び森を訪れて、地蔵を元の場所に戻した。
 水洗いした地蔵は見違えるように綺麗になった。赤い前掛けも、水鳥さんの縫った新しいものに取り替えた。地蔵は綺麗に割れていることもあり、断面に石材用の補修材を塗って、そのまま乗せることにした。

 来なくてもいいから、と亜樹さんは言っていたけど、当日は横田さんもやって来た。ちゃんと見届けておかないと、まだ地蔵に追いかけてきそうで不安なのかもしれない。水鳥さんのアドバイスが効いたのか、今回のお供え物はファミチキじゃなくて、猫用の減塩煮干しだった。

「……地蔵が元のところに戻して欲しくて私のところに来たってこと?」
 地蔵の前に線香を立てながら朱音さんに質問する。
「どうだろう。そう考えると、辻褄が合わなくもないけど。でもわかんないのは、なんで横田くんには猫に見えたのかってこと。亜樹は混乱して見間違えたって言ってたけど……本気でそう思ってる?」
「わからないね。猫地蔵自体、まだわからないことが多いから」
 亜樹さんは朱音さんの質問に、小さく肩をすくめた。

 この街には、至るところに猫地蔵がある。山にも街にも、人の目に付くところにはどこにでも。建物を建て替えるときに地面を掘ったら猫地蔵が出てきたというのも、よくある話だ。誰がどういう目的でこれほどの数の同じような地蔵を作ったのか、未だによくわかっていないらしい。

「まあ、地蔵はもとの場所に戻ったわけだし、これで波流のとこにも来なくなるよね」
「たぶん。そうだと思うけど」
「お礼に宝物とか持ってきてくれたりして」
「笠地蔵みたいに?」
「そうそう。ところであの話の教訓ってなんなんだっけ」

 朱音さんと亜樹さんの会話を聞きながら、地蔵の前に座る。
 二体並んだ猫地蔵は、妙に収まりがよくて、ひとりでいるときよりも、なんだか穏やかで、幸せそうに見えた。
 手を合わせて目を閉じると、木々のざわめきに紛れて、どこからか猫の鳴き声が聞こえた……ような気がした。

 それ以来、地蔵が訪ねてくることはない。

(了)

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