母のオーラ

【『親孝行にも色々あってですね、』〜愛すべき人々(四)〜】

 春先から飲み始めたという薬の副作用で頬がまん丸に膨れた母の顔を見つめながら、僕は顔の膨らみと同時に細かいシワも程よく伸ばされた分だけ母は少し若返って見える、と思う事にした。
 7月の中頃、年明けからずっと抱えていた大きめの仕事が終わり、勤め先のアニメーション制作会社からまとまった休みをもらうことになった僕は、生活の舞台である東京から関西の実家へと帰省をしていた。
 窓を開け放った居間には、至る所から聞こえてくる蝉の鳴き声が響き、パタパタと団扇を仰ぐ半袖のシャツからから伸びた母の腕は、膨れた顔に反してとても細く痩せていた。
 今年で70歳になろうとする母は、一昨年は胃がんの切除、昨年は胆管を塞いでいた胆石と共にすでに機能を失っていた胆のうを摘出していた。
「歳を取ると病気になるために生きてるみたいなもんやね」
 諦観じみたようにそう言うと、脚の低いテーブルの上に置いてあった手のひらサイズの白いラジオの電源を入れ、母は横になった。
 時折入るザッ、ザッというノイズとともに、昔懐かしい歌謡曲が部屋の中に流れ始めた。
 そのラジオは胃がん手術の入院時に、母から頼まれて僕が買い送ったものだった。
 やることもなくそっと覗いた僕の部屋は、丸められたカーペットや引き出物の大きな箱、季節外れの服などが無造作に敷き積まれ、もはやただの物置部屋と化していた。
 つま先で足の踏み場を探りながら部屋の中に足を踏み入れ、父が買い与えてくれた本棚から学生時代にせっせと買い集めた漫画の単行本を僕は無作為に手に取ってみてはパラパラとめくった。
「幸せになろうと思ったらあかんで」
 関西の大学から東京への就職が決まり、いざ住まい探しのために東京へ向かう僕の背中へ向かって母はそう言った。
 父は僕が高校一年生の時に心筋梗塞で他界し、その父に対してあの世で申し開きが出来ないと感じるほど、母は僕が選んだアニメーション制作という仕事は真っ当な仕事だとは思っていないようだった。
 両親はいずれも当時としては遅めの結婚であったし、二人ともに教職に就いていた人達でもあったから、娯楽という仕事に対しての穿った見方というものはやむを得なかったのかもしれない。
 ただ、僕には母に告げていない記憶があった。
 僕が高校受験を控えていた頃、通っていた進学塾から真夜中と言ってもいい時間帯に帰宅をした時、居間で僕の帰りを待っていた父はテレビに映し出された古ぼけたアニメーション映画を、頬杖をつきながらぼんやりと眺めていた。
 京都の海沿いの農家の10番目の末っ子として生まれたという父は、物心がついた時から家の手伝いに駆り出され、子供らしい遊びをしたことがないと時々思い出したかのように僕に語った。
 テレビの中で襲いかかる敵を次々と投げ飛ばす剣道着姿の少年ヒーローを見つめながら、父は自らの失われた時間を取り戻しているようだった。
 僕はもう、父の声も思い出せないほどの親不孝ものではあるのだけれど、あの時の父の横顔だけは今でも鮮明に思い出せた。
 だから娯楽の仕事もそう悪くはないと思うのですよ、お母さん。
 居間で眠る母を団扇でゆっくり扇ぎながら、これから母にしてやれそうなことをあれやこれやと考えつつ、僕は窓の外の夕暮れにそっと目をやった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?