見出し画像

高卒の元バンドマンがバイトをめちゃくちゃがんばってたら、社長になってた話

ぼくのキャリアのはじまりは「フリーター」でした。

社会に出たのは19才のとき。大学には行っていません。

高校を出てからは、ずっとバンドをやっていました。本気でプロを目指していましたが、なかなか売れず、くすぶっていたんです。

そんなとき、父がC型肝炎という病気だとわかりました。

「もう長くない」と通告され、ぼくはどうしたらいいかわかりませんでした。「このまま親のすねをかじりつづけるわけにはいかない」「とにかくなにか仕事をしなければ」と、アルバイトをはじめました。

バイト先に選んだのは、地元大阪の箕面にできた「Right-on」。「仕事中も、店内にかかっている洋楽を聴けるから」という理由でした。

就活もしていない。なにか大きな目標があるわけでもない。

そんなふうに社会に出たぼくですが、その後ライトオンの本社に行って、考えたコピーが会社の経営理念に採用され、それから転職して、最終的にはYahoo!の復興事業部で働き、独立していまは会社を経営しています。

これまで、サッポロビールさんや世田谷区さんなどと一緒にお仕事をさせていただきました。

我ながらよくわからないキャリアなのですが、なぜここまでやってこれたのか、自分なりにふりかえってみました。

もしもいま、やりたいことや生きる理由がなくて悩んでいる方がいたら、なにか少しでもヒントになればうれしいです。

人生賭けてたバンドが解散

ぼくの父は、理容室を経営していました。

実家はいつもにぎやかでした。1階がお店で、社員寮もあって。うちに住み込みで働いていたちょっとヤンチャなお兄ちゃんに、ぼくはギターを教えてもらったんです。

バンドを組んだのは中学生のとき。はやくプロになりたくて、高校にいきながらダブルスクールで専門学校に通いました。卒業生の中には、いまは活動休止中ですが「BABYMETAL」の神バンドのギタリストをしていた人もいます。

ぼくもとにかく時間がある限りずっとスタジオで練習して。高校もギリギリ卒業できるぐらいしか行かず、音楽漬けの生活でした。

当時は「自分にはバンドしかない」と本気で思っていました。大げさでなく、人生を賭けていたんです。

しかし18才のとき、バンドは解散せざるを得なくなりました。中学からの仲間がバラバラになってしまったんです。ひとりは子供ができて結婚して、ひとりは留学に行くことになって。ぼくも、父の病気がわかったタイミングでした。

「これしかない」と思っていたものを、あっけなく失ってしまった。ぼくは途方にくれました。

大好きな景色が失われていくのに、なにもできない

実家のほうも大変な状況でした。

父は、高知のど田舎からハサミ一本で都会に出て、銀行に大金を借りてお店をつくり、独立した人です。社員も15人ほど抱えていて、大阪に2店舗展開していた時期もあります。

羽振りがよくてかっこいい父の背中は憧れでした。

でも病気になってからは、なかなかお店にも立てなくて、いろんなものがうまくできなくなっていきました。経営も、次第に厳しくなっていきました。

ぼくはそんな父に、なにもしてあげられなかったんです。

なんとか経営を立て直せないかと、父にいろいろ提案しても「おまえは何もわかってない」と切り捨てられてしまいます。

「じゃあ、自分が親父の店を継ごう」と、シャンプーの練習なんかもしてみましたが、お客さんとなかなかうまくコミュニケーションがとれず、ぜんぜんダメでした。

バンドも、実家も、大好きだった景色が失われていく。それなのに、自分はなにもできず、ただ見ているだけ。

自分の無力さに心底、絶望しました。

バイトをめちゃくちゃがんばる

そんな中ではじめたライトオンのバイト。

社会に出たのは初めてだし、コミュニケーションもそんなに得意じゃありません。でも、やめたくなるたびに、解散したバンドや弱っていく父の背中がちらつきました。

もう、なにもできない自分のままじゃ嫌だ。立派な目標なんてなかったけど、その一心でとにかくがんばりました。

すると働きぶりを認めてもらい、契約社員から正社員にしてもらって、21才で店長を任されたんです。

店長になったのは、前の店長がトラブルを起こして急遽退職してしまったからでした。「もうしょうがないからお前がやれ」という感じで、なかば「まぐれ」のような形で、店長になるチャンスが巡ってきたんです。

もともと優秀なスタッフが集まっていたこともあり、店長になってからも順調に売上を伸ばすことができて、それがエリアマネージャーの目にとまりました。

吹田のボロボロの店舗に飛ばされる

エリアマネージャーに呼び出されたぼくは「本当にお前の力で売上が伸びたのか?」と言われました。アルバイト出身でどこの馬の骨かもわからない坊主に、そんなことができるのか、と。

それで、次はボロッボロの、大阪の吹田にあるお店に飛ばされたんです。隣は回転寿司屋さんで、バックストックは常に魚市場のような匂いがするところでした。

「そこの立て直しができたら、実力を認めてやる」と。

ぼくは悔しさをバネに、めちゃくちゃストイックに店の改革をしました。

マーケティングやマネジメントの知識を得るために、とにかくビジネス書を読みまくり、その内容を実践していったんです。

田舎の店なので、休憩時間に駐車場でランチを食べながらずーっと本を読んでいました。1日に1冊以上のペースです。本屋さんに行って「マーケティング」とか「店舗運営」の棚にある本は、ほとんどぜんぶ読みました。

自分でも驚きましたが、ギターに熱中していたころと同じぐらいの熱量で勉強に打ち込めたんです。

スタッフは年上の人ばかりで、最初は下に見られることもありました。

でも、本を読んで勉強したことで、コミュニケーションが怖くなくなったんです。

たとえば平尾誠二さんの『気づかせて動かす』を読んで、スタッフが主体的に気づくようなマネジメントに変えたり。『他の店が泣いて悔しがるサービス』を読んで、内容をスタッフにも教えたり……。

どんどん的確に指示ができるようになって「中屋さんから聞いた作戦を実行したら売れました!」とか「頭の中が整理されて、お客さんとの会話がスムーズになりました」と言ってくれるスタッフも増えてきました。

お店の雰囲気は、どんどんよくなっていきました。

工事用のライトで店をピカピカにする

次は売上を伸ばさないといけません。

この店の課題は、昼間に比べて夜間の売上が落ち込むことでした。

その店の周辺は、夜になると真っ暗になるような場所です。ぼくは「そもそも暗くて、店が開いているかどうかわからないんじゃないか?」と思いました。

そこで、ホームセンターで外に置ける工事用のライトを買って、店の周りにグルグル巻いて、ピカピカに光らせました。

すると「あ、まだやってるんだ!」とお客さんが気づいてくれるようになり、落ち込んでいた夜間の売上がフラットになったんです。

自分の考えたアイデアを実行して、本当に人が動いてくれた。それがぼくにとってはめちゃくちゃうれしかったし、楽しかったです。

全国トップ3の売上に

改善を重ねた結果、お店の売上は、前年比で全国トップ3に入るまでに成長しました。お店のスタッフも、販売数で日本一になる人が出るぐらい、すごくがんばってくれて。

ボロボロだった店舗が、ちゃんと復活したんです。

それが認められて、ぼくは新店舗の店長を任されました。西宮の阪急にできる、西日本でいちばん大きな施設です。

勉強して、それを実行して、人が動いてくれる。結果が出ると、また次のチャレンジする権利をもらえる。

元々なにもなかったぼくにとっては「人生のチケット」をもらっているような感覚でした。

がんばっても、すぐに目先の時給が上がるわけじゃありません。でも、求められる以上の働きをすれば、見てくれている人が必ずいて、自分を引き上げてくれるんだと思いました。

役員から手紙と本をもらう

新店舗には毎日のように役員が来てくれて、そのなかのひとりがぼくにとても目をかけてくれました。

その人は会社の物流をとりまとめている人でした。それで、お店に入荷する服と一緒に、本を送ってくれたんです。「これを読みなさい」って、手紙つきで。

ぼくは送られてきた本を読んで「こういうところがお店にも使えると思います」と提案しました。そんなやりとりを繰り返して、すごく後押ししていただいたと思います。

ラッキーなことに、それから1年半ぐらいして、マーケティング職の社内公募がありました。ぼくはそれに応募して、東京の本社へ行けることになったんです。

ライトオンの会長から「このコピー、買い取らせてくれ」

配属された本社のマーケティング部。ぼく以外は、みんな新卒から上がってきた人でした。ぼくは一人だけ新卒研修も受けていなくて、名刺交換の作法すらまともに知らなかったんです。

はりきって臨んだ商談で「まずはあいさつだ!」と、役員や先輩をさしおいて名刺を差し出して、後からめちゃくちゃ怒られたり。恥ずかしい思いはたくさんしました。

そんななか、たまたま経営理念を変革するプロジェクトにアサインされたんです。

ぼくは「スピードは情熱の証」というコピーを提案しました。

当時のライトオンの強みは「スピード」でした。本社では「SY(すぐやる)会議」というものが毎週行われていて、そこで決まった経営改善の施策は、ほんとうにすぐ実行されていたんです。

ぼく自身、店舗運営をするなかで実感したことでもあります。与えられた時間は平等。他の人と差をつけるには「スピード」を上げ、量をこなすしかなかった。そして、その馬力を生むのは「情熱」でした。

すると、ライトオン創業者である当時の会長から「この言葉、誰が考えたんだ? 買い取らせてくれ」と言われたんです。本当にびっくりしたし、うれしかったです。

父の余命宣告。大阪のIT企業へ転職

ライトオンではいろんなことを学ばせてもらいました。

マーケティングの部署では、会社から販促予算として何十億というお金を渡されて、動かす経験もさせてもらえて。ほんとうに感謝してもしきれません。

一方で、だんだんと行き詰まりを感じてきたのも事実でした。

本部でおこなうマーケティングは基本的に、不特定多数に向けたもの。数字の上では、自分の企画が多くの人に届いたことがわかります。でも手元に届く言葉は、一部のネガティブな意見ばかりだったりするんです。

大きな予算を動かす仕事は日々のプレッシャーも凄まじく、健康診断で胃潰瘍の跡が何か所もみつかるぐらいでした。

そんなとき、父の病状が悪化し、余命宣告を受けました。

ぼくは悩んだ末に、大阪へ戻り、ITの会社に転職することにしました。シナジーマーケティングという会社です。当時、最先端だった「デジタルマーケティング」をもっと学んでみたいと思っていたことも、決断を後押ししました。

「わからない」ことがおもしろい

そこでやったのは、大阪にある外資系テーマパークの仕事。デジタルマーケティングでリピーターを増やすのが目的でした。

ぼくが担当したころ、そのテーマパークは元P&Gの森岡毅さんが主導で、超V字回復を図っている時期。

森岡さんは「数字の鬼」のような人です。末端のぼくにまで、担当者を通じて彼の目は届いていて、プレゼンを何度も突き返されました。

ぼくは数学なんてまったく得意じゃないのに「数的有意差があるのか?」「カイ2乗検定では有意差が認められます」みたいな会話をしたり、クリエイティブや分析担当と組んでABテストをしたりしていました。

毎日、鬼のようにテーマパークに通っていました。「また突き返されるんじゃないか」と思うと、楽しい場所のはずなのにめちゃくちゃ怖かったです。

だけど、そのヒリヒリ感すらも、すごくおもしろかったんです。なんかわかんないけど、とにかくおもしろい。

現場でのリアルな学びをもらえたのは、ぼくにとってすごく刺激的でした。

漁師のファンクラブ会員を1万人に

しばらくして、シナジーマーケティングがYahoo!に買収されました。ぼくはそのタイミングで、ヤフーの「復興支援室」へ出向になったんです。

それからは、いろんな地方を飛び回るようになりました。

印象的だったのは、石巻で漁師さんのファンクラブ会員を増やす仕事です。

これはしびれるほど大変な、泥臭い仕事でした。

たとえば、漁師さんたちと東京で「生産者バーベキュー会」をやって、そこでファンクラブの会員を増やせるしくみを作ったり。「食べるのが好きで、生産者さんのことをもっと知りたい」という都心部の人たちが、けっこう集まってくれるんです。

バーベキューはコストもかかりますが「プレミアムバーベキュー」という立て付けで、きちんと値段を設定してやることでうまくいきました。

そういうノウハウを一つひとつ、現場で手に入れていったんです。

漁師団体の事務局長さんと一緒に「apバンクフェス」という小林武史さんがやっているフェスでブースを出したり、社食イベントに出したり……。ほんとうに地道なリアルの活動で、ファンを増やしていきました。

最終的に、会員数は1000人から、1万人にまで増やすことができました。

仕事が仕事をよび、流れで「起業」をした

そうやっているうちに、行く先々の地域で、いろんなお仕事を相談されるようになってきました。

なかには、IT企業として受けられないような「食」のイベントや地域のPRみたいなものもあって。副業として、個人で仕事を受けることも増えてきたんです。

ぼくも、頼ってもらえるのはうれしいので、なるべく引き受けていて。

気がついたらその報酬が、会社からもらっているお給料とほぼ同額ぐらいになってしまったんです。

ふと「あれ? 会社員のまま、副業でこんなにもらってて大丈夫なのか?」と思い、社長に相談しました。「ちょっとまずいと思ってるんですけど……」と。

すると社長は「わかった。でも、うちの会社を離れてすぐ独立ってのも、大変だろ」と言って、ぼくが退職したあとも、いまだにずーっと仕事の契約をしてくれているんです。ほんとうに、人に恵まれていると思いました。

そんな感じなので「起業したい」なんて思ったことはなく、気づけば会社になっていたんです。

「自分本位ではうまくいかない」父の教え

子どものころ、一緒にお風呂に入りながら、父がよく言ってたことがあります。

「湯船で、自分のほうに水をかき集めてみろ。そしたらどうなる? 水は逃げていくだろ」

「今度は、水を押して、お風呂の淵に向かって水をかけてみろ。そうしたら、自分のほうに返ってくるよな」

「それが商売だよ」

いまになって、あのとき父が言っていたことがわかった気がします。

10代のころ、ぼくはものすごく「自分本位」な人間でした。自分のために音楽をやっていたし、ものすごく世界が狭かった。

親父はそれを見抜いていたんだと思います。

社会に出ると「自分が主役になろう」としても、うまくいかなかったんです。アパレルのお店でも、ぼくではなくスタッフ一人ひとりに「主役」になってもらわないと、いい接客はできませんでした。

いまも、主役はぼくではなく、それぞれの地域の自治体や、地元にいる人たち。

だから、企画がぼくの手を離れても、うまく回っているんです。

この世界はもっと広くて、おもしろい

19才のころのぼくは、視野が狭く、自分の無力さに絶望して、生きる意味を見いだせずにいました。

でも、社会に出ていろんな人と関わって、必死で勉強して。それを誰かが見ていてくれて、また新しい場所につれていってもらえました。

いろんな人や経験に引き上げてもらって、世界がどんどん広く、鮮やかになっていったんです。

いまぼくは、dot button companyという会社を経営しています。

サッポロビールさんと一緒に、北海道で「起業家応援コミュニティ」をつくったり。世田谷区と一緒に「産官学金融連携のプラットフォーム」をつくり、複数のプロジェクトを同時に走らせたり。熊本の若い農家さんたちと、農業のカッコよさを広める団体をつくったり……。

いろんな地域や職種の人と関わるので、いまだに毎日が勉強です。

とくに農業や林業をしている団体に会いにいくと、まったく知らなかった世界や価値観に驚かされます。

この世界には、もっと知らないおもしろいことがたくさんある。自分の知らないところで、がんばっている人がたくさんいる。

それに気づくだけで「もうちょっと生きてみようかな」って思える気がするんです。

ぼくらは企画によって、いろんな場所にいろんな出会いを生み出します。

それによって、あの頃の自分みたいな人に、少しでも「生きるきっかけ」を見つけてもらいたいーー。そんな思いで、今日も仕事をしています。


この記事が参加している募集

転職してよかったこと

最後までお読みいただきありがとうございます! 今後もキャリアのことや、仕事の中で得たおもしろい学びを発信していきます。お役に立てたらうれしいです^^