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第1話 政治が人事権を持つことを嫌がる人たち。

昨今、内閣が官僚人事に対して権力を持つことを、ことさら批判する人たちがいる。#検察庁法改正反対の騒ぎもその一環である。

あるワイドショーで評論家の東国原氏が次のようなことを言っていた。

「内閣人事局みたいなものがあると、官僚が内閣に忖度し、国民の方を向かなくなる」

一見、正しそうな意見で、国民が迎合しそうだが、よくよく考えると、これはどう考えてもおかしい。

まず、「国民」とはだれか? 官僚が国民の方を向くとは、どこを向くことか? なぜ、話の前提が、内閣が国民の方を向いていないと決めつけるのか?

国民と言ったって、一枚岩ではない。A案に賛成の人もいれば、B案に賛成の人もいる。単純に多数派が正しいとも限らない。そういった利害関係を調整して最終的に判断するのが、政治家であり内閣である。なぜ、それを否定するのか。

逆に、官僚が勝手に「これは国民のため」と判断して政治を無視して行動する方がよほど恐ろしい。

内閣とは、最終的に選挙によって構成された、国民の意思の代表だ。それを否定することは民主主義の否定だ。

選挙によって、選ばれた国会議員が内閣を選ぶ。内閣は官僚をコントロールし、国を動かす。であるから、内閣が官僚に対して人事権を行使することは当たり前であり、民主主義の大前提だ。日本国憲法もそのような前提で作られている。

もちろん、その人事権を悪用する悪い奴もいる。しかし、それを裁くのも国民であり、選挙である。けして官僚ではない。

国民は直接官僚をコントロールできない。それができるのは内閣である。国民は内閣を通して、官僚をコントロールする。

内閣の権力は国民の権力だ。内閣から人事権を含め権力を奪うことは、国民から権力を奪うことに等しい。

権力を奪われた内閣は何もできない。何も変わらない。

しかし、この官僚への人事権批判というのは、きわめて時勢的で、移ろいやすい。事実、国民に人気の政治家が出てくると、今度は逆に、官僚は抵抗勢力に区分され、政治主導だと言って政治家の人事権が善とされる。

小泉首相や最近では小池都知事などがよい例である。

昨今の、この人事権批判も結局は、普遍的な批判ではなく、安部長期政権に対する批判である。単に、安部長期政権が気に入らないだけの話である。安倍政権が悪いなら、安倍政権だけを批判すればいい。何も人事権まで否定する必要はない。

一政権を批判するために国家の一番大事な統治システムまでゆがめる。それが左派・批判家たちの愚かさである。

トランプ大統領は、人事権を悪用し、司法長官をはじめ、側近たちを次々と首にした。当然アメリカ世論は批判した。しかし、大統領に人事権があるから悪いなどとは誰も言わない。

悪い忖度の原因は長期政権にあることは間違えない。だから、悪い忖度をたち切るのは政権交代だ。政権交代こそが、悪い忖度を生まない国の仕組みだ。

ところが、この国では政権交代がなかなか起こらないので、結局、悪い忖度を生まないように人事権自体を否定してしまう。

しかし、そうやって人事権を否定してしまうと、本当に政権交代が起きた時に、新政権は官僚をコントロールできず、混乱し、短命に終わる。そして、また長期政権が始まる。悪循環である。

日本の野党は、人事権を否定するが、自分たちが政権に就いたことを考えないのだろうか。それとも、そもそも政権交代の意思すらないのではないか。
もし、本当に自分たちが政権に就こうとするなら、けして人事権を否定したりしないはずだ。

いずれにせよ、こんなおかしな論調が、ワイドショーで語られ、だれも不思議に思わない。このままでは本当に日本はだめになってしまう。




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