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演劇の台本向けのネタ拾いをしている流れで、氷見で人口が増やせそうな起点を発見したけど、発見しただけで何かできるわけでもないので、書き留めておく。

氷見の地域劇団のネタ拾いのために、氷見の人にインタビューをしている。お題は概ね「私と氷見・氷見で暮らしていてどうか」。
ほんのり面白い共通点が見て取れる気がするので、このインタビューはもっと大勢できちんとやったら良いと見ているのはさておき、聞きながら、今どうして人口が減少していくことになっているのか、流れが見えてきている気がするので、書き留めておく。
ついでに、血パンダの次回公演のために使おうと思って、小柴とパサージュ論の検討会をしていることも、いろいろ考えるための燃料になっている。こういうの大事。

現金収入はさておき、田畑、山があればひとまず「貧乏」でも家庭生活ができるレベルの暮らしのサイクルが崩れているせいで、いろいろとおかしくなっているのではあるまいか。
「当時は貧乏だった」という話しとして語られる。それはつまり、現金収入がなかったということだが、現金とは縁の薄いレイヤーが存在していたということが見て取れて、現在の老後の不安、子育てにかかるお金などに見られる「お金の不安」とは全く別の次元の話しだ。

第二次大戦の戦後について、教科書で習った流れと、インタビューで聞いた話しをかみ合わせて追ったイメージとしては、高度経済成長の結果が、良かったのか悪かったのかということになる。
ひょっとすると、高度経済成長は個人にとっては表面的には良かったのかもしれない。ただし、社会構造にとっては、自律的な「生産者」になれた筈の多くの人々を、再び資本が「労働者」に組み込みなおして「金」で縛り、「生きることとは消費すること」という定義にはめ込んでいっただけのことだ。
行政が社会を富ませるために、積極的に税金を言い訳に使おうと考えたタイミングもあるかもしれない。

インタビューで話しを聞かせてくれた80代、90代の皆さんも、数年前俺が入院していた時に、起きている時間はずっと、自らの一生の後悔をブツブツと繰り返していた爺さんも、同時代を生きてきた氷見で暮らす人だ。
どうしても、これが同じものの表裏の明暗には見えない。ただ、周囲に人が居るか、「金」以外の何かに目が向いていたかが、かなり重要な鍵で、あの繰り言の爺さんの語りは、まるっきり救いが無かった。マーレイが居なかったスクルージの晩年の告白はかくの如くかというところだ。
高度経済成長は、個人にとって表面的には良かったかもしれないと言いつつ、こういう現実も存在している。

社会に金が回りだし、人にも金は回るが。その金を得たり使ったりする仕事と生活のバランスがおかしい。入口の分、出口があって、今はともすると必ず出ていかねばならない金額方が多い。

氷見に絞れば、かつての用水や土地改良の投資の分、人は受益しているだろうか。
漁業と農業、林業から得られるものは、市街地の何かに貢献するサイクルがあるだろうか。この辺はもう、昭和のうちに構造が壊れているので、今さらどうにもならないかもしれないが、壊れているということは、はめ込み放題ということでもある。

こんな刺激の無い田舎に誰が来るのかということは、消費の刺激だけを見ればそうだろう。自発する人間にとっては場所も関係ないくらいに、多くの人間に情報の受発信が可能になり、都市生活は労働以外が許されないくらい、日本は金に縛られて貧しくなっている。
チャンスしかないので、40代から60代ぐらいの、知的にも精神的にも土地に縛られて視界を失っている皆さんが、せめて心だけでも自由になれば、田舎には今、金以外のチャンスが大量に転がっているので、とりあえず氷見からなんとかなる方法はありそう。

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