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「女子嫌い」と言う女子だった

イブラム・X・ケンディ著『アンチレイシストであるためには』の第11章「黒人のレイシスト」に、黒人を見下す黒人の話が出てくる。

「あのな、おれはいい車にのってるんだ。なのに、警官に車を止められて、ニガーどもと同じ扱いをされるのが嫌でね」

こう言ったのは著者の知人の黒人で、彼は”ニガーども”(※ニガーはふつう、黒人の蔑称)と、同じく黒人であるはずの自分を区別し、「警官に車を止められるようなニガーども」を軽蔑していた。

本来なら問題なのは、人種的な偏見から、黒人である彼や他の黒人の車を停止させて尋問する警察官であり、レイシズム的なステレオタイプだ。

それなのに黒人の彼は”ニガーども”を嫌い、軽蔑し、見下していた。


この章を読んでドキリとした。自分にも覚えがあったからだ。レイシズムではなく、セクシズムの文脈で。

私は”女子”が嫌いだった。

自分も女子だったのに。

噂話ばかりすること、外見を過度に気にすること、意地悪なこと、男の子に媚びること、政治の話をしないこと

それらを”女子”の性質として本質化して、「自分はそうじゃない」と、自分と”彼女たち”を区別して蔑んでいた。

”ああいう女子”と自分は違うと思っていた。違うと思いたいと思っていた。自分はあたかも”女子”ではないかのように、あたかも特異な存在であるかのように振る舞っていた。そうすることで男子と同じように評価されようとしていた。

本に出てきた黒人が、自分は”ニガーども”とは違う、と思っていたように。彼が”ニガーども”と同じ評価をされ、車を止められて怒ったように。

内面化されたセクシズムで”女”を見下していたのだ。


「こういう女子嫌い」「ああいう女いるよね」

ある人の特徴を、ある性別に本質化して結びつける行為はそもそもセクシズム的だ。(ある人の特徴を、ある人種に本質化して結びつける行為がレイシズム的であるのと同様に。)

例えば、噂話ばかりすること、外見を過度に気にすること、意地悪なこと、男の子に媚びること、政治の話をしないこと、といった特徴を、”女子”という性別に本質化して結びつけるのは間違いだ。(例えば、騒々しいこと、無知であることといったネガティブな特徴を、”ニガーども”という人種に本質化して結びつけるのが間違いであるのと同様に。)

噂好きも、外見を気にしすぎる人も、意地悪な人も、男性に媚びる人も、政治に無関心な人も、今まで私が出会った人の中には性別関係なくいた。他の人の話ばっかりの男の子も、四六時中前髪をいじっている男子もいたし、わざと挨拶を無視してくる男の同級生も、上司に媚びてばかりの大人の男性も、投票に行かない男もいた。

私は噂話が好きじゃない。服とか髪の毛以外の話もしたい。意地悪は嫌だ。誰かに媚びたくない。政治の話をしたい。そう言えばよかったのに、それらのネガティブな特徴を”女子”のせいにして、”女子”を見下す正当化に使った。

私は”ああいう女子”というステレオタイプを再生産し、自分と区別し、見下すことに加担した。私は女子に対するセクシストの女子だった。


私のように、セクシストの女子にならざるを得ない女子はたくさんいるのだと思う。自分が見下されないために、自分と同じであるはずの”女子”を他者化して差別する。そうすることで自分が差別されることから身を守っている女子が。

本当の問題は”女子”が軽蔑の対象になることだ。”女子”をスティグマ化するシステムや言説が問題なのだ。

本当は私は女子として、”女子ってこうだよね”と見下すやり方に抵抗して闘うべきだったのだ。それに乗っかるのではなく。

次、あなたが口から「ああいう女って」「女子って」と口から出そうになったら思い出して欲しい。

あなたが女であっても、それはセクシズムだ。

”女子”嫌いと思っていた私と同じだ。

”ニガーども”と言った黒人と同じだ。






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