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毒の連鎖に気づいた話

私の父は、毒親だ。
人の間違いを責め立てるくせに、自分の間違いは決して認めない。自分の痛みには敏感なくせに、人を傷つけることには鈍感だ。自分の機嫌に周りが合わせるのが当たり前だと思っている横暴で幼稚な人間、それが私の父。

26になった今でも、10代の頃の恨みは正直まだ消えてない。消す気もない。大切にとっておこうと思っている。

でも、私はいい年の大人。いつまでも親のことをあーだこーだ言っていると、周りから非難の目や言葉も飛んできたりする。

だから、あんまり人には親のことは言わないようにしているし、「大人のくせに」と言われてもあんまり気にしないようにしている。

「そうだ私が悪いんだ」と思ってしまうことは、苦しんできた自分に対してあんまり酷だと思う。

毒親である父をずっと恨み軽蔑し、あんな奴にはなるまいと心に誓い続けてきたけど、最近ふと、考えたことがある。

どうして父は、毒親になってしまったのか?

小さい頃から、なぜか「親カンペキ説」を信じていた。親は完璧で、子供はそれを見習って生きていくのだと思っていた。

でも、私の父はカンペキじゃない。カンペキどころか結構ひどい人間性をお持ちだ。今となっては当たり前に受け止められるが、子供だった私に耳打ちしたら、飛んで驚くかもしれない。

父の毒親ポイントを整理すると、
●自分の間違いを決して認めない
●機嫌の悪さを周りにケアしてもらえると思っている

…という感じだ。

私は父に、あまりいい教育はしてもらっていない。そして、「もしかしたら父もそうなのではないか?」と思った。

母に、それとなく聞いてみると、私は父に同情した。父が祖母から受けた教育は、酷いものだった。

●勉強中、父が答えを間違えると足をつねる
●学校の作文やスピーチは付きっきりでほぼ祖母のアイデア。
●音読で読み間違えても足をつねる

父が間違いを認められないのは、間違えることを悪だと刷り込まれたからだ。間違いを認めることは、罰を受けることなのだ。

間違えたが最後、非難され、自分の価値を根こそぎ無にされるような、そんな感覚なんだろうと思う。

実際の世の中は、間違いを認めない人より、間違いを認められる人に優しい。

「私は間違っていない!」と意地を張っている間は、その場に留まっているだけ。自分の間違いを認めて次にサッと移れる方が、よっぽど楽しいし効率的なはずだ。

それにいまだに気づけないのが、私の父。でも、それを責め立てるのもなんだか気の毒だ。間違いを指摘されるのは、彼にとって一番苦しいものだろうから。

毒親持ちで苦しい人は、もし余力があれば、その毒の始まりを見つけてみてもいいかもしれない。

毒親で苦しむ自分と、毒親になってしまったかつての毒親被害者。

自分の親も苦しんできた可能性を視野に入れることで、自分自身のアダルトチルドレンから抜け出す突破口に、また一つ近づける気がする。

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