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【短編小説】秋陽

「本当に、就職なんだな」
放課後の進路指導室。生徒達の廊下を歩く騒がしい音、グラウンドから響く野球部員の掛け声、それらが、何故か今日はほとんど聞こえない。
「そうだって言ってんだろ」
 担任である秋山の言葉に椎木が声を荒げた。
「理由を教えてくれないか」秋山が宥めるように問いかけるが「お前に関係ない」と、椎木の態度は変わらない。
「…経済的な問題か」
 秋山は躊躇ったが切り出す。
「…うるせえな」
 椎木が一瞬怯む。
「今まで、凄く頑張ってきたじゃないか。最近、また成績も上がって」
「…黙れ」
「この調子でいけば、椎木君の目指してた、あの大学にもいけるはず」
「黙れ」
「先生できる限り、色々調べてみるから」
「黙れって言ってんだろ!」
 椎木の荒げた声が、秋山の胸を突いた。
「無責任なこと言うな!親父の会社が倒産した!大学に行かせる金はねえから、働いて稼げって言われた!母さんも身体を壊した!こんなの、典型的な、よくある話だろ! だから放っといてくれ!」
 椎木が勢い良く立ち上がり、身を翻してドアの方へと向かった。秋山が慌てて追いかけ、椎木を制する。
「ちょっと待て」
「早く、どけ!」
 椎木の鋭く冷たい目つきに、秋山は思わず道を開けた。

椎木の背中を見送った後、秋山は力を抜くように、椅子に座った。まだ僅かに聴こえてくる椎木の荒い足音を意識しながら、窓の方に目線をぼんやり移すと、赤黄に染まった空がどこまでも広がっていた。陽光は机上を照り付け、そこから伸びる影が夜の気配をちらつかせている。
 秋山は「無力だなあ」と呟き、溜息を吐いた。

「秋山先生、この後、一杯どうかい」
 さほど急ぎでもない仕事の為に秋山が残業していると、秋山の隣のクラスの担任である沢村から、声をかけられた。
「…いいですね」
「なんと、珍しい」沢村が砕けたように笑った。
「今日は良いことでもあったの?」
 沢村がそう思うのも無理はなかった。
 こういう誘いを受けたとき、いつもの秋山は、適当な理由をつけ、早急に帰ることが多かった。
「いや…」
「その反応は、逆だな」
 残業を終えると、二人はタクシーに乗り、適当な居酒屋に寄って、ビールを頼んだ。乾杯をする時、沢村の持つジョッキの位置を意識したり、沢村がビールに口をつけるのを待ってから飲んだり、久しぶりのそういう振舞いに、既に秋山は疲れた。
「やっぱり、秋山先生。何だか、浮かない顔をしているね」
「…すみません。自分のクラスの生徒のことで色々ありまして」
 沢村が「そうなんだ」と微笑む。
「椎木智也のことなのですが…」
 沢村はビールを飲み、タバコを吸い、秋山の話を最後まで聞いた。
「それで、秋山先生が悩むことはよくわかるけど、僕は、こればかりは仕方がないと思う」
 沢村は、秋山から少し視線を逸らしこう呟いた。
「確かに、彼は気の毒だけど、秋山先生がそこまで思い悩む事じゃ無いと思うよ」
 沢村の視線は、店の隅に押しやられ、照明の当たっていない観葉植物にあった。
「僕はどうしても納得できないというか、割り切れないんです。それに教師が相談に乗れば、なんとかなることもあるかもしれない」
 秋山は話しながら、自分の言っている事が極めて曖昧であることを感じた。
 沢村も戸惑うように笑う。
「何も、僕だって、椎木君が行きたい大学に入れるなら、それが一番だと思ってる。彼は僕の授業を一生懸命受けてくれたし、報われて欲しいさ。だけど、現実はそうはいかない。どんなに努力をしても、人には逆らえない運命っていうものが存在すると僕は思う」
「だけど」
「だけど? 秋山先生、僕は綺麗事があまり好きではありません」
 秋山の声を沢村が遮る。普段は滅多に叱らない沢村が、生徒達に叱るとき、決まって敬語になることを秋山は思い出した。
「秋山先生、よく聞いてください。これは、僕が薄情だから、言っているわけではないです。椎木君が貴方に対して、進学を諦めた理由を最初から言わなかったのは、夢を引きずらない様に心の奥に感情をしまい込み、意識に登らせないようにしたかったからです。そんな彼に対して、親でもない、代わりに金を払うわけでもない貴方が、『諦めるな』と語ることが本当に正しいと僕は思えない。そもそも理由をしつこく迫った事自体、僕は無神経だ思います」
 沢村は一息にそう言った。途中から声はどんどん早くなり、話し終えると興奮を冷ますようにタバコに火をつけた。
「それに…。秋山先生だって本当は、わかっているでしょう。貴方は、良い先生なだけに、生徒との向き合い方が中途半端になることがある」
 秋山は何も言えなかった。
「ちょっと言いすぎたよ。悪かった。だけど、ときには、生徒のためにあえて鈍感なふりをすることも必要だと思うんだ」
 沢村は、ビールを一気に飲み干し、唇をおしぼりで拭った後、またいつもの感情の起伏を感じさせない、穏やかな顔つきに戻った。

 秋山は理由をつけて、沢村の二軒目の誘いを断った。闇の密度が濃く圧迫感で押しつぶされそうな夜道を歩き、自宅に辿り着く頃には、ぐったりと疲れ切っていた。玄関を開け、そのまま倒れ込む様にソファに座り、いつもの様に何となくテレビを付けてから溜息を吐いた。
「中途半端…か」
 ぼんやりと天井を見つめ、呟く。
 椎木の為に、自分が出来ることなど限られている事はわかっていた。だが、担任として、頭の片隅に少しだけ残っている「もしかしたら」の可能性を捨てたくなかった。
 しかし、自分のそういう半端な姿勢が、却って生徒達を苦しめるのであれば、沢村の言うとおり…。
 秋山は舌打ちをした。沢村に核心を突かれて、自分が随分と軽い人間の様に思えてならなかった。だが、その一方で、いくら職場の先輩とはいえ、沢村があそこまで自分に対して説教を垂れる事が不思議でもあった。

テレビに目線を移すと、干ばつの被害を受けているエチオピア北部のニュースが流れていた。
 極度の空腹と涸渇に苦しみ、お腹だけがぽっこりと膨らんでいる幼い女の子がじっとカメラを見つめている昔から有名な写真が、今も変わらず、情報として取り上げられている。  
 秋山は幼い頃の記憶がよぎる。
 秋山がこの写真を初めて見たのは、九歳の頃だった。太陽が煌々と照る休日の朝、柔らかな黄色の日差しを浴びながら、母親と二人でテレビを眺めていた時のこと。たまたま秋山がチャンネルを替えた時、それは映った。
 秋山は母親に尋ねた。
「どうして、ガリガリなの」
「どうして、お腹だけぽっこり出ているの」
「どうして、あんなに怖い顔をしているの」 
 そんな秋山の問いに対して、母親は何も応えなかった。母親は秋山からリモコンを奪い、
「ほら見てごらん、今日の天気予報は晴れだって」
 と言い、微笑んだのだった。その表情は、どことなく沢村にも似ている気がした。
 秋山はそういう母親の一面が見えた時、息苦しかった。秋山の母親は子どもに対して、過剰なほどに、暗くて重くて深い世界から遠ざけようとする人だった。現実を直視せず、外面の綺麗な言葉だけを並べ、世界を眩しく美しく清潔なものだと信じ込む事で、母親は自分をなんとか保っている様に思えた。
 そんな秋山が彼女と同じ教職の道を目指し、しかも社会科を専攻したのは「誰かが不条理な目に遭っている時、簡単にチャンネルを替える母親の様な人が、教師を務めるべきではない」といった一種の正義感からだったことを、秋山は思い返した。
 テレビの中の女の子の写真は、あっけなく冷凍食品のCMに切り替わった。「幸福を三分で食卓に運ぶ」といったキャッチフレーズが流れている。
 一教師である自分が出来ることなど限られている。だけど、教師である以上、自分は椎木君と、やっぱり最後まで向き合いたい。
 秋山はそう思い、ある事を決めた。

 数日後の朝、秋山は自宅の玄関の前で、あるものを待っていた。
 それが自分の手元に届き、学校に向かう頃には、始業の二十分前を切っていた。
 いつもの通勤コースを全力で走り、何とか始業の五分前に学校に辿り着く。乱れた呼吸を僅かに整え、職員室のドアを開ける。「おはようございます」と呟き、自分の机の隣に荷物を置いて、腰掛ける。呼吸はまだ苦しかったが、一息を吐く暇はなかった。机の上にある散らかったプリント類を引き出しの奥に乱雑にしまい込んだ。リュックの中を探り、さっき届いたばかりの一冊の写真集を手に取った。
 秋山は急いでページを捲った。
 茶色い水の入った重たいバケツを頭の上に乗せて砂漠を歩く少女。
 子ども食堂の長い行列。
 路上の隅で蹲る男の子と男の子を見ない様に歩く大人達。
 一つ一つの写真から、子どもたちを苦しめる貧困の現実が、痛いほど伝わってくる。
 だが、ページを捲る秋山の手は速かった。秋山はそれを、後でしっかり見つめる事を心に誓った。
 秋山の目は、あの一枚の写真を探していた。
「あった…」
 最後のページに、それは載っていた。
お腹が膨らみ、世界の不条理を一人で請け負ったかの様に鋭い目付きをした、女の子の姿。
 秋山は、その一枚の写真から、椎木の姿がよぎった。椎木が秋山に送った、あの突き刺さる様に冷たい視線。
「秋山先生、遅いよ」
 突然、後ろから声をかけられた。
「いつもは、僕より早く居るのに」
 秋山は振り返る。写真を覗き込みながら、沢村が微笑んでいた。
「…まあ、ちょっと色々あって」
 曖昧に秋山は応える。あの一件から、秋山はいまだに沢村と顔を合わせるのが気まずかった。
「あのさ。それ、授業で取り扱うのか…な?」
 沢村が、語尾を上げ尋ねた。
「…ええ」
 秋山は遠慮がちに応える。
「前に、深夜のニュースで取り上げられてて、それで…」
「また何か企んでいるんでしょう」
「え?」
 秋山は思わず顔を見上げた。沢村の顔は、笑っていた。だが、その口調は低く投げやりで、明らかに軽蔑の様なものが含まれているように思えた。
「あんまり、突拍子もない事をするんじゃないよ。もうすぐ本格的に受験も始まってくるんだし。早く授業、進めてあげないと」
 沢村はこう言い残し、職員室を出て行った。秋山は沢村の後ろ姿を眺める。
 秋山の意思は、変わらなかった。
 始業のチャイムが鳴り、秋山は二年二組の教室に入った。教卓から四十人の生徒を見渡し、欠席者が居ないことを確認した。椎木の姿も、ちゃんとあった。
「朝の連絡事項はないので…このまま、社会を始めます。早めに終わると思うので、その後は自習して下さい」
 秋山はこう告げたが、生徒達の私語は止まない。座る姿勢も悪い。全員が揃って、秋山の方を見てくれる様子はなく、特に、椎木は意図的という程、大声で笑っている。
 だが、秋山は生徒のそういう態度の事で、滅多に注意をするようなタイプではなかった。今日も、そのまま話を続けた。
「今日は…いつもの授業とは違います。教科書もノートもいりません。テストにも、出しません」
 教室が少し静かになる。いつもと違う事を語る秋山に、生徒達は興味を持ち始めている様だった。だが、まだボソボソと話し声が聞こえる。椎木も笑い声を押し殺している。
 秋山はあの写真を掲げながら語り始めた。
「これを、見てください…。先生、この間、ニュースでこの写真を見たんです。びっくりしました。これ、先生が九歳の時に発表されたものだったから。もうそれから二十年くらい経つけれど、いまだに取り上げられるほど、世界の貧困の現状は変わっていないんだって思いました」
 秋山は深呼吸をした後、更に続けた。
「…これを撮ったカメラマン、当時凄く批判されたんですって。『何故写真だけ撮って助けなかった』とか『不幸な子を自分の利益の為に商品として消耗させるな』とか。先生も…それはちょっと思います。だけど、先生は先生の立場になってから、思うこともありました。自分が信念を持って行動したことって、時に誰かを傷つけちゃうなって。先生、そんな事ばかりです。みんなの力になりたいのに、いつもなれない。寧ろ、足手纏いだと思います。
 だけど…、これだけは伝えたいです。そうやって、情けない姿を晒して、時に誰かを傷つけちゃって、間違えながら迷い続けている大人の方が、みんなの味方である事には変わりないです。独りだと感じた時、少しでもそれを思い出してくれたら、嬉しいです」
 秋山がこう話している間も、教室は微かに話し声が聞こえていた。秋山はチラリと椎木の方を見る。
 椎木が、秋山を見つめていた。
 秋晴れの陽射しが、ゆっくりと教室に入り込んでいった。

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