やっぱりバカだったんだ。

小さなノートを肌身離さず持ち歩き、何かしら書き留めていた。べらぼうに若かった頃の話である。備忘録でもあったが8割方忘れても差し支えない創作のような、はっきり言えば妄想であった。

たとえば奇妙キテレツな夢を見て起きた朝にその内容を記録。夢日記である。「至近距離から銃撃されるも常軌を逸した身体能力で銃弾をかわす」「白昼の商店街で銃撃戦。アクセルべったり踏み込んで八百屋に車で突っ込む」などである。なんて殺伐としているんだとかどういう世界観で生きているのかとかはまあさておき、一体何があったのか、何が原因で狙撃されたり平和なはずの商店街でド派手にドンパチやらなければならなかったのかを考える。八百屋のオヤジは無事なのだろうか。何かにつけてスイカを切ったのとかりんごとかみかんとか「食べな」と言ってくれたあのオヤジを、捨てていくようでは漢(おとこ)がすたる。銃声が鳴り止む気配はないが車から飛び出して、オヤジの安否を確認しなければならない。たとえ助手席から相棒に引き止められたとしても。大丈夫。主人公だから死なないーーと非常にイイ顔で思うのだった。

……みたいなことことをつらつらと書いてはほくそ笑んでいた。バカとしか言いようがない。バカとしか言いようがないが、バカであればあるほど楽しいに決まっている。わたしは誰かに見られたらイロイロな意味で確実に自分が死ぬであろうデスノートを、それはそれは熱心に量産した。そうせずにはいられない何かがあったのだろう、きっと。

そんなデスノート作りを、ある日突然わたしはやめた。これはどう見てもまともではない。酷く幼稚な行為に思えて、唐突に劇的に恥ずかしくなったのだ。ノートはすべて処分した。小さな文字でびっしりみっちりぎっちりぎっちぎちに書いていたため、1ページ1ページより細かくちぎらなければならなかった。ちぎりながら、おかしなことを考えるのはもうやめようと誓った。脳細胞的におかしなことを考えるようにできているとしても、極力控える方向で行こう。うん。そうしよう。

わたしはそれなりに努力したはずだった。長いことココロを砕いてきたつもりだった。うっかりないことないこと考えはじめても、おーっといけないここまでだ!と序盤でストップできていると思っていた。まさか先日職場で「なみさんていつもそんなおかしなこと考えてるんすか」とか言われるとは思わなかった。心外が過ぎる。信じられない。まだおかしいことを考えているのかわたしは。いやそれは百歩譲って仕方ないにしても「いつも」ってなんだ。「たまに変なこと言いますよね」ではない。いつも常時絶え間なくである。いや待てよ。100人に聞いて100人とも彼と同意見であるとは限らないじゃないか。そう、あくまで彼個人の感想でしかない。にもかかわらずわたしは激しく動揺した。ああこんなことになるのなら。

わたしはあのバカノートの数々を捨てたことを猛烈に後悔している。1冊だけでも手元に残しておくべきだった。浅はかだった。あれがなければ現在のバカさ加減との比較ができない。

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