photo-1509021436665-8f07dbf5bf1d_文化研究

象牙の塔の文学研究 ― 3. 物語と文化

 大学を一年間休学して、イギリスの小中学校で日本文化を教える真似ごとをしていたことがある。小さいころには、グアテマラとペルーに住んでいた。中南米にいたときには、一時帰国した日本の空気、イギリスに行った時には、イギリスの空気、そういう、自分が住んでいる場所とは違う、異国の空気にふれるのが好きだった。昔から、社会ごとに違う、その中で育まれた空気、雰囲気、つまり「文化」に惹かれていたみたい。

 今回は、テクスト論を経て、文学研究の意味が問い直された時に見出された、新しい文学研究の意味について。「文化研究」について書いた、文学研究の歴史を追う旧記事の3本目です。

―――――――――――――――

 1980年前後から90年頃まで、文学研究は「テクスト論」の時代だった。小説を書いた作家の意図に縛られず、読者がどう読めるか、が重要になる。小説は、無数の糸で編まれた「織物」=「テクスト」であって、どの糸が重要と考えるかによって、小説=「織物」の意味も変わってくる。そういうもの。どの糸を重要と考えるかは読者に委ねられて、読者は自由に小説を読む。あるおもしろい読み方ができる理由を、その小説に書いてある内容から論理的に説明できて、その読み方がおもしろくて、他の人を納得させることができればいい。それが、テクスト論だということを、前回書いた。

 でも、90年頃から、それでは「文学」がなくなってしまう、ということになってきた。

3.
 どういうことか。

 前回も書いたとおり、テクスト論は、「おもしろい読み方」を示すけれど、「おもしろいね。だけど、だから何?その研究にどんな意味があるの?」と言われてしまうと、どうしようもない。アカデミズムの中で、この小説こんな風に読めるんだよ!と言い合っていて満足している。まさに、象牙の塔。内側に対して意味を示して、内側で認められる。それは、とても自閉的な、外から見たら意味のないことだから。

 80年代までは何故それが許されたかというと、「文学」には価値がある!と多くの人が思っていたから。それが「文学」であるだけで、アカデミズムの中だけではなく、その外部の多くの人も、「文学」って、読むとためになるものなんでしょ、と思っていた。「教養」は重要、みたいな考え方が、あった。その、教養主義が、90年代に入って、消滅する。

 もう一つ、「文学」が「文学」であるだけでは価値が認められなくなった理由として、漫画のようなサブカルチャーが台頭してきたことがある。萩尾望都の漫画みたいな、「文学」と変わらない価値を持つ、と考えられるような漫画が出てきたことで、「文学」が特権化されなくなった。

 「文学」の価値が自明ではなくなって、どんな価値があるのか、改めて考えようとしたら、そのとき文学研究は「この文学、こんなおもしろい読み方ができるよ!」と言うだけで、その価値を改めて説明してくれない。そうすると、自閉した文学研究に、意味はあるのか?と思われてしまうのは、当然。これが、90年頃。

 そのことに気づいた文学研究者はどうしたか。改めて自ら文学の価値を問いなおして、そこにどんな価値を見出したのか。

 価値が自明のものではなくなった「文学」、そして自閉していた文学研究に、価値を見出すために、文学研究は、象牙の塔の外と接触することを試みた。文化、社会全体から見た時、文学にどんな価値があるのか?その価値を明らかにするのが、文学研究だ!と言おうとしたんです。

(そのときに、応用した考え方が、「カルチュラル・スタディーズ」というイギリスの研究手法。カルチュラル・スタディーズは、簡単に言うと、こんな感じ。「文化」というのは、社会の中の上流階級の人たちによって創られる、とずっと考えられてきた。オペラとか絵画とか、生活に余裕がある人が嗜むもの、みたいな。悪くいえば、金持ちの道楽。じゃあ、労働階級に「文化」はないのか?と問うたときに、ビートルズみたいな、労働者階級から出てきた素晴らしいものがあるじゃないか、となる。あれは「文化」じゃないの?じゃあ、「文化」ってなんだ?と考えると、「文化」という考え方に、上流階級、つまり権力が関わっているんじゃないか、ということになる。権力者が、「文化」を擁護する。逆に言うと、権力者に認められないものは、「文化」じゃない。じゃあ、オペラや絵画みたいな「文化」、また、ビートルズみたいな疎外された文化を研究すれば、当時の権力構造をあぶりだすことになるんじゃないか?という考え方。その後、日本の文学研究にこの考え方が移入された時、「権力」という考え方が、すっぽり抜け落ちます。)

 文学研究者は、文学の価値は、そこに、その文学が書かれた時代の文化がはっきりと表れていることだ!と言おうとしました。例えば、夏目漱石「こころ」には、大正初期の人の心だったり、生活の様子が、表れている。その文学に表れた当時の文化を明らかにする。文学を研究することで、当時の文化はこんなだった!と言うことが、文学研究の目的だ!と言おうとした。

 これだと、外界と接続していますよね。文学を、文化という外界と接続する。これが、90年代に出された答えだった。

 もう一つ、問題が残っています。じゃあ、その場合の「文学」ってなんだ?と考えると、イコール「物語」なんです。全ての物語には、その物語ができた時代の文化が表れている。だから、90年代から、文学研究の対象は、小説だけでなく、漫画、アニメ、映画……と、どんどん広がっていきました。

 この文学研究の手法は、「文化研究」と呼ばれています。現在の文学研究の主流。文学に表れた「文化を研究」することです。文学研究には、「その文学が書かれた時代の文化を解明する」という価値がある。これが現在の到達点で、文学研究の価値です。

 ぼくは、この研究には、価値があると思う。象牙の塔の外部の人からも、認められる価値が。文化を表すもの、文学。物語。

 そして、この価値を認めるなら、つまり物語全般に価値がある、ということにはならないでしょうか?この考え方を、80年代の文学研究「テクスト論」に当てはめると、こんな読み方ができる物語がこの時代に生まれた。それって、こんな時代なんじゃない?と言えるのでは。

 だから、ぼくは、漫画も、アニメも、好きなのですよ!!!!

 壮大な自己正当化をしたところで、とりあえず文学研究の歴史、文学研究史に関する記事は、終わりです。

読んでいただいてありがとうございます。書いた文章を、好きだと言ってもらえる、価値があると言ってもらえると、とてもうれしい。 スキもサポートも、日々を楽しむ活力にします!