英語教育の崩壊〜苦手意識の加速〜

 英語教育のことをあれこれ書いているけれど、学校教育の中では生徒の「苦手意識」が加速しているという話をあちらこちらで耳にする様になった。2011年、英語を意識した「外国語活動の本格的な導入」に胸を躍らせ小学校現場に入った私。あの時専門家の方々が言われていた「きっと格差を産むだろう」という言葉を心に留めてはいたけれど、10年後にここまでになるとは…一旦ブランクを開けて再度小学校に入った今年。何も変わらない現場と、なぜか格差だけは広がっている子どもたちを見ながら愕然とした。

英語はメンタル・マインド

 最初に結論を書いてしまうと、英語教育は「ツールとしての英語」という技術的な面よりも学ぶ人の「メンタル・マインド」が肝だと思う。
メンタル、すなわち「自分には無理だ」「難しい」という気持ちにさせないこと。安心感を与え、気持ちを上げていって「自分にもできるかも」と思えない限りは口から英語は出てこない。突然発表させられてモゴモゴ言ってみんなの前で責められ、恥ずかしい思いをして「もう二度と英語は話さない」では意味がないどころか、マイナス1000くらいのダメージを与えてしまうのだ。これを放置すると、この子は二度と英語には戻ってこない。これから中学高校、大学、大人になって職場で...とずっと英語から心が離れたままで苦労することもあるかも知れない。途中の教育機関やふとした出会いで、強烈に英語への興味が湧いた、というレアケース以外はほとんどの人がそうなってしまう。この話を私世代以上の人に話すと首をブンブンと縦に振って共感してもらえるが、おそらくこれは今の中学生も変わっていないと思う。
怖いのは、今では小学校で英語が始まってしまったばかりに、その苦手意識が小学生にも及んでしまっているということだ。

 そしてマインド。仮に口に出した英語が間違っていたとしても、これは成功への第一歩!なんて自発的に思う子どもは珍しい。その空気を作るのは指導者、周りの大人の力量だ。私は「間違ってしまった」と失敗体験をした子どもに対しては、その授業内に小さな成功体験をセットで感じてもらえる様な工夫をする。小さな成功体験を積んでいけば、先生なんていなくても自分でどんどん学んでいける。インターネットでの学びも容易になって今では、指導者の仕事は安心感と前向きな気持ちを共有するだけだといっても過言ではない。「教えよう」とし過ぎて自分主体になってしまい、「さっきの聞いてなかったのか」「何度も言っている」と生徒をけなすだけになっているとしたら、その先生には確実にAIにとって変わられる未来が待っている。

 AIにとって変わられる仕事として、教師が上がっている。また、AIにはできない仕事としても教師が上がっている。つまり、今後残っていく先生たちは生徒に人としての温もり、安心感を与えられる人。人としてのモデルになることができる人。頭ごなしに自分のペースで授業をして、生徒を叱り飛ばすだけの先生は、その内に丁寧な指導のAIに置き換わっていくだろう。
 学びに必要なのは、学習者自身の学びへの興味、前向きな気持ち。それさえあれば子どもたちは教えずとも伸びていく。それをひどい言葉でけなして邪魔するなんて言語道断。それを理解して英語教育に向かっている指導者がどのくらいいるだろうか。また、文科省にはそれがベースになった考え方があるのだろうか。

 気合と根性では英語教育は進まないどころか、生徒の根っこを大いに傷つけてしまう。それは生涯通してその人のチャンスを奪うことに繋がる。

先生のせいじゃない 〜英語教育の歴史〜

 こんなことを書くと、すぐに目の前の先生に立ち向かって行こうとする人がいるが、私が上記を伝えたのはシステムの不具合を伝えるため。
システムの中にいる人たちは、基本そのシステムに乗って動く。だから、私は疑問や違和感を持ったら、いつもその大元を見るようにしている。
 私自身は自分で英語教室を経営している身だから、こうして自由にさまざまな視点から英語教育について語ることが必要だ。理念がない経営者は信頼できない。それに私は自分の英語教室で、楽しみながら英語を身につける子どもたちをずっと見てきたから余計に、公教育のシステムのこの大迷走を不思議な気持ちで眺めている。

 大学入試を変えること、教科書の内容を充実させること、ALTを増やすこと…それ以上に必要なことは前述の通りだが、いつも学習者である子どもたちの気持ちが置いてけぼりになっているシステムには、疑問がいっぱいだ。

 学校の先生方ともかなり多く関わってきたが、愛情深く素晴らしい方が非常に多い。公式に「先生の仕事」とされている以上の配慮や仕事をしておられて、頭が上がらない。そんな中、全く専門外だった英語にも工夫をしながら取り組んでおられる。私はそこに「教育者としての専門性」を見る。先生は生徒を励まし、英語がそんなに得意でない自分自身を生徒のモデルにして「一緒に発音してみよう」とALTなどの発音を真似して見せたりする。
文科省が英語をどう導きたいのかまだ掴めていないけれど、私はこれは先生方だから出来ることだと思っている。
 私が見る限り、2011年外国語活動が始まった頃子どもたちは担任の先生と楽しく活動していた。笑顔がたくさん見られた。担任の先生方の中にも「英語」と背負い込まず「子どもたちと楽しむ時間」という認識が見えた。
私はそれが一番だと思っていた。

 ただ数年のブランクの間に大学入試制度改革が報じられ、私の英語教室にも「子どもが『英語はもういい、自分には無理』と言って教室の体験にも来ない」という小学校高学年の保護者からの相談が相次ぐようになった。同時に塾教材の販売店からは「今や学校では単語を600語覚える様になっている。学校に遅れないためにはこの教材」と脅す様に教材を勧められるようになった。英語教育が大人のビジネスにまみれていくのが目に見えてきた。
 英語教室を経営する私が言うのもなんだけど。大人が英語教育に踊らされて焦らされ、子どもたちが英語から離れていく様子を見るのは辛かった。

 小学校英語のセミナーに見える方の中に保護者や熱心な英語講師なども増え、質問も「英語が出来る子を分けて更に伸ばす様な取り組みはされていますか」などと、英語で子どもたちを分ける様な内容も感じるようになった。
 英語がコミュニケーションツールから人を分けるツールになっていることに、不安を覚えた。

英語教育の成果は目に見えないもの

 私は英語教室の宣伝で結果を表す言葉を使わない。何点取らせます、英検合格させます、高校受験に通りました…私の教室の理念は「英語を嫌いにさせないこと」だから、英語で人を分けたり優劣をつけるつもりは毛頭ない、という意思表示だ。結果を出すかどうか、結果を求めるかどうかは個人的な話で、それは私の元で学ぶ子どもたちの輪の中には必要ない。輪の中に持ち込むものは、ありのままの個。一緒に活動の中で笑ったり揉めたり、解決したりしながらお互いの存在をありのまま受け止める。それだけ。

 小学校英語でよく聞こえるのは「先生!ぼく、英語習ってるからそれわかります」「私、英検持ってるから知ってます」大人から見たら多少鼻につく言葉かも知れないが、それを言いたい子どもたちの気持ちもよくわかるからそれはそれでOK。でもそれを聞いた他の子がその裏メッセージ「ぼくは英語習ってないから、わからないんだ」を受け止めない様に工夫をする。
授業の中で何度も「英語は誰にでも開かれている。好きでさえいれば仲良くなれる」と言い続ける。そして自信なさげな子でも笑顔になれるような活動を散りばめる。嫌いにさえならなければ、それはいつか必ず希望に繋がる。

 一時期中学での英語の授業を英語で行う、という文科省の方針に多く反対の声が上がり、全て英語だという意味ではないという説明がされていたが。
ここにも「気合」が見え隠れ。「やればできる」ではない。すべて英語で子どもたちの興味を引きながら、子どもたちに伝わる様に授業をすることはかなり高度なテクニックだし限界もある。段階もある。
 私は小学校英語では必ず日本語を入れて指導するが、数年続けているとほとんど英語で話してもみんなが笑って聞いてくれる様になる。入口のハードルは低いに越したことはない。実際今英語教室に寄せられる不安の声の多くは「小学校でALTの先生が話していることがわからないから、自分は英語は向かない」ということ。そして怖いのは専門性の高くない日本人の先生方がずっと英語を話し続け、子どもたちがポカンとしている場所だ。聞き流し英語が身につかないことは今や常識。それをするのであれば、段階を追ったプロの指導が必要なのだ。「英語を英語で学べば」という発想はかなり練って熟練して実現出来ること。簡単に手を出すと「英語嫌い」が増えてしまう。

安心感

 最後に、私が小学校英語で一番多くもらう言葉をお伝えする。
「先生の授業ではずっと笑っていました。先生と一緒だったら、自分にも出来るかも、って思えました」
学年問わず、この内容が一番多い。苦手だった英語が好きになりました、という言葉が3、4年生から出ることも多く、一体生まれて10年くらいの間ののどこで英語が苦手になってしまったのだろう、と不思議な気持ちになった。

 学びは安心感と小さな成功体験の積み重ね。安心感を得るために一緒に笑える内容を入れたり、日本語を使ったり。その先に英語で何かしてみよう、という姿があれば、英語教育は大成功。大人の力で目の前の子どもたちを思い通りに動かしたり、目に見えた結果を出させることは目的ではない。


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