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強くて弱い人、弱くて強い人

 ずっとその人のことが気になっていた。子どもの担任の先生。
新任で入られて、研修にクラス運営にと慌ただしく頑張っておられたけど、顔色が悪い。表情がない。子どもの親、というよりは一人の人間として気になった。何度かお会いした後、何かの折に伺った。

 「先生、しんどくないですか。」

 その先生は笑顔とも言えない笑顔を作って「はい、全然大丈夫です」と言ったが、その笑顔がかなりの真顔で怖かった。あぁ、もっとこの人と信頼関係を深められたらもっと話が出来るのにな、と思った。
 そんなことが度々あった。英語支援のために学校勤務を始めた後も、職員室や教室で明らかに消え入りそうな先生を何人も見かけた。その時は私は職員室にいたので同僚として話を聞くことも出来た。でもほとんどの方々は弱音を吐いたら崩れそうなのか、必死で呪文の様に「大丈夫です」と真顔で言われる。
弱音を吐いたら「甘えるな」「他の人はもっと頑張っている」「やれば出来る」と言われ続けてきた私たち。簡単に弱音は吐けないよな。空気を吐く様にフーッと弱音が吐けたら、少しは楽になれるかも知れないけど。

弱音=覚悟

 そういえば、私が弱音を吐くことを覚えたのは、日本ではない。
私は海外を一人旅しながら、また海外生活を送りながらいろいろな国の人たちと話をした。その中で驚いたのは、話した人たちが自然に自分のことを語ってくれたこと。その内容は日本で語ると「甘えるな」とか「そんなんじゃ社会で通用しない」と言われそうな内容だったけれど、スーッと心に馴染んだ。

「そう。私もなんだ。先のことがまだわからない。」

 そんな話をしながらお互いアドバイスし合う訳でもなく、ただ「うんうん」とお互いのことをわかりあって終わった。そこで得たちょっとのエネルギーでまた自分で歩むことが出来る。そうやって私は出会った人たちとの会話の中で自分が歩むためのエネルギーをチャージしていた様な気がする。
 私が話をした人たちは、自分の弱さを知っていた。そしてそれを怖がらず人に伝えていた。その弱さもまた自分自身である、という覚悟が見えた。

見せかけの強さ

 「いいえ、私は大丈夫」
日本でそう言って弱さを見せずにいた頃の自分を振り返ってみる。
見た目は強そうに見えたかも知れない。でも自分の弱さを人のせいにして生きていた気がする。ふと考えると、そういう人のいかに多いことか。
「大丈夫」の次は「私は悪くない」の言葉が聞こえてきそう。自分を守ろうと必死で生きているのがよくわかる。
 私が悲しいのは、もう小さな子どもの内にそういう人たちが一定数いるということだ。そして確実に増えている。そういう教育が継承されていることの現れ。更に悪いことは、それを継承する人たちが「良かれと思って」そうしていることだ。
 なぜそうしているのか、それは社会が求めているから。そこに自分の意志は入らない。甘えたら社会から置いていかれる。みんな出来ることは我が子も出来ないと。そんな思いが、子どもへの圧力を正当化する。
 そして子どもたちは弱音を吐いたり甘えたりすることを押さえて歩み出す。

 人から「甘えるな」と言われたくないから、そんな自分は恥ずかしいから見せかけだけでも「強く」。それが自分の生き方のクセになる。そして随分長い間歩き続けた後、ヘトヘトになって心が壊れる。そんな大人が今急増しているのは、教育と空気のせいだと断言出来る。なぜなら私はその教育を受けてきたから。違和感と苦しさに耐えられなくなった一人だからだ。皮肉にも海外に一歩出て、私は今まで自分の世界だった小さな島国を外から見た時
に、そのちっぽけさに驚いた。その気付きは私を一気に解放した。楽になった。今まで「こうあるべき」と見つめる周りの目が怖かったあの世界はこんなに小さかったんだ、と笑いが出る様な感覚だった。あの怖いくらいのマジョリティ(大多数)は世界から眺めると実はマイノリティ(少数)だった。
 そう思うと、何も怖くなくなる。私は私で良かったんだ。

弱みを知る人の安定感

 弱い人程安定感がない様に感じるが、実は自分の弱みを知っている人の安定感はすごい。なぜなら自分のことをよく知っているから、その操縦法を身に着けることに専念出来るからだ。障害を持つお子さんをお持ちのおうちの方々がよく言われる言葉で「この子には、自分の困りごとをちゃんと人に伝えて助けてもらえる様に、頼み方を身につけさせたい」をずっと心に留めている。
「障害者」とは、社会が作ったものだと思っている(社会が勝手に作ったものだから、社会のもたらす害を意識して私は敢えて漢字で書く)が、そんな風に分けても分けなくても、私たちにはそれぞれ大なり小なり人に助けてもらわなければ立ち行かないことがたくさんある。だから、本来はどの親も「自分の困りごとを人に伝えて助けてもらえる様に」まずはその子の困りごとにその子が向き合うこと、そして人に伝える時の伝え方を意識することは子どもにしてあげられる大きな役割だと思っている。
 自分の弱さをごまかしながら、見せかけだけの強さばかり身につけるから、人にも厳しくなる。マウントを取ること、取られずにいることに必死な人がどれだけ多くいることか。
 本当に強い人は自分の弱さをさらけ出しているから、マウント取り取られの次元にはいない。「いや、私は自分一人では何も出来ませんから。」と本心で言える企業のトップや学校の長の周りの人が安心感を持って信頼関係の中で仕事が出来るのは、その人にどっしりとした安定を感じるからだ。

本当の教育改革

 教育改革というと、相変わらずサービス過剰の詰め込み教育にまっしぐら。おまけにテストや教材で出版社などが儲かる仕組みが止まらないが。
もし私が今教育改革をするグループに入っていたとしたら、私は内容というよりその方法や理念を再確認することから始めるだろう。

 今全国の教育者のほとんどが「学び」の本質を見失って目の前の結果に一喜一憂、右往左往しているが。本来人が「学ぶ」ことの目的や効果に立ち返ることができれば、私たちはもっと子どもたちが自分で自分に必要なものを得ようと動く、そのサポートに回ることが出来るだろう。

 そのためにも過去の教育の中で傷めつけられ続けて痛みすら感じなくなってしまった大人たちの心を癒すために、大規模な「カウンセリングシステム」を作りたい。子どもたちに接する大人たちが、ふっと自分の弱音を吐いてみる練習から始めたい。

 日本の教育改革は、心の改革から始めなければ小手先の技術を山の様に与えたところで、それを使う人が疲れ切ってしまっていては意味がない。

 一人で歩くための勇気や力は、温かさの中でしか育てることが出来ない。厳しさや理不尽さに慣れさせることでそれが得られるという勘違いは未だに多くの人の口から聞かれる言葉だが、そんな「見せかけの強さ」では立ち行かない程、人生は長くて険しい。自分の弱さを受け止め、人と助け合いながら歩まなければ、途中で倒れてしまうだろう。

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