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歴史小説「Two of Us」第4章J‐15

割引あり

~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~
第4章 Foward to〈HINOKUNI〉Country


J‐15

 細川家臣が記したとされる「茶人四祖伝書」の中で、茶人細川三斎宗立について記された文言。
『細川忠興は天下一気が短い人で、反対に気が長い茶人は蒲生氏郷である』

 前述のとおり気が短いのは、持病の【癪】(しゃく)のせいだと云われる。短気で怒りっぽい人物を『癇癪持ち』と呼ぶ程、心因性の強い内臓疾患であり、胃や腸に差し込みの痙攣痛(けいれんつう)が頻繁に起こり、女性ならば子宮痙攣も起きることがある、持病に成り易い症状である。

 未病の医学に造詣が深くて偏食を嫌う忠興も、最大級の「胃痙攣」を起こした折には、さすがの闘将も床に倒れ込む事態となったのだ。
 だが、それは伏見城へ上洛の際に起きたので、逆に大御所徳川家康とじっくり政情を語らう良い機会としてしまった事は、現代の【仕事人間】と呼ぶWorkerHoricと変わりない。

 家康との面会前にしばらくの伏見滞在を余儀なくされ、床に臥す。
 その間に、同じく漢方薬に詳しい家康から、側近の本多正純(本多正信の嫡男)を使いに何でも効く漢方薬【萬病円】を届けられ、忠興は無事に快復すると、直接礼を述べるために面会の機会を再び取り付けた。

 慶長16年(1611年)3月25日、政務で伏見城に入城していた徳川家康に参見する。その際、家康は家督を継いだ二代将軍秀忠の胸部を移動する皮膚病の筋腫について、相談する。
 細川忠興は、このような旨を応えた。
「万能薬で回復するならば、命に別状はない。皮膚病ではなく寸白(サナダ虫、寄生虫)が原因なので、鶏卵や生食の魚介を食されないように。また、疱瘡には鮑が大敵である」
 

 一方忠興は、イチ大名に落ち着く気がない豊臣方に、次男興秋が附いて毛利勝永(元小倉藩主)と共に大坂城にて敵陣の準備に入っている事への相談をしたかったのだ。

 江戸幕府平定直後のこの10年は『有事』と言っても、各大名の家督相続問題と、各々の生き延びた武将たちの健康状態のみである。
 平和と云えば平和ではあるが、水面下では勃発しかねない不穏な事態が動き始めていた。

 その一つが、方広寺の再建についての共同体制である。
 奈良の大仏殿に代わる京都の大仏殿として豊臣秀吉が建立始めたが、戦国の世の間に壊れ中止となっていた案件を、徳川幕府が豊臣家出資で再建しようとしているものだ。
 梵鐘の銘文については相談を持ち掛けて来ていたが、後々有識者を募って検討させる程、問題が大きな銘文だったことで「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」を引き起こすキッカケを造ってしまったのである。
 

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