見出し画像

就学相談と決めつけ厄介

発達障害は外からは見えづらい障害だというそれは、そういう子をこれまで育ててきた親にとってはとても鮮明に見えたりする。幼いときほど特性が表に出ると言われるけれど、努めて理解しようとしなければ「周りを困らせる子」という嬉しくないレッテルを貼られてしまうことがある。それは就学相談の場面でも起こる。青い空が澄み渡る、初秋9月のあの日のこと。

小学校に入学する前の年、わたしは息子を連れて就学相談を受けていた。相談員の女性が二人いて、わたしと息子はそれぞれ別室に通された。一人は息子の付添人となり、もう一人はわたしを相談室へと案内した。中村と名乗ったその人は、我が家の就学相談の担当者で、生育歴や普段の子供の様子やら家庭の考えなどをわたしの記入したアンケートを元に聞き取る形で進んでいった。直前に記入したこの生育歴は、これまでに何度となく同じことを書いてきたものだ。相談員の女性の問いに答えながら、この質問も何度目だろうと頭の隅でぼんやり思っていた。そうやって一通り聞き取りが終わったところで尋ねてみた。

「息子には支援級が妥当だと思うのですが、中村さんはどう思われますか」

わたしの問いに、向かいに座る中村さんはこう答えた。

「今日の息子さんのご様子も考慮させて頂きながら、持ち帰ってこちらでも話し合います」

この場では結論は言わないと決めているようだった。

そこへ息子に付添っていたもう一人の女性が部屋に入ってきて、中村さんのとなりに座った。

「可愛いお子さんですね、部屋に入ったら動き回っていましたよ。ADHDですよね、よく走っていました」

その人はその後も可愛い可愛いを連発した。

今度はこちらから聞いてみた。

「部屋に入ってから、壁を触りながら走っていませんでしたか」

その人は、息子は多動だから仕方ないという旨の話をしてきた。隣で聞いていた中村さんは広角を上げて黙っている。何も言わない。二人を交互に見比べてから、今後何かあってもこの人達に相談することはないだろうとわたしは曖昧に笑ってその話を終わらせた。その後鍵のかかったプレイルームに向かい息子と合流し、相談員の二人と別れた。二人と離れた途端に沈鬱な表情を隠せなくなった。4月に入級するだろう支援学級の先生が、この程度だったらどうしよう。9月なのにヒヤリとする木枯らしが吹き荒れた。外は気持ちの晴れるような眩しい光が差していて、柔らかな風がわたしの横を踊るように通りすぎていった。


息子が療育機関に繋がったのは2歳のときで、それからは病院に療育にセミナーにと時間の許す限りに動いてきた。6歳になっても息子は相変わらずの癇癪大魔王ではあったけれど、自分を抑えたり大人の指示を聞けることも増えていて、発達の伸びを感じる部分も多くあった。しかし実年齢6歳かと言われると、当時は発達年齢でいうところの3歳から4歳だったので、通常学級で勉強することは難しかった。そんな息子の成長が不安すぎるあまりに、入学前の相談場所を手広く確保していたら、療育機関を含めると5、6ヶ所と繫がっていた。セカンドオピニオン的とでもいうか、多数の第三者からの意見が聞きたかったからというか。不安な思いを可能な限りゼロに近づけておきたいという、そんな張りつめた心が行動に現れていたように思う。自分でも疲れる生き方だなと呆れるのにうまく力を抜けない、適当にできない。これだけやったんだから後悔はないと、いつも120%でいたかった。そうした考えから、この年はとくに相談者、支援者を捕まえては尋ねていた。息子の進路をどうしたらいいのでしょうかと。

相談相手となっていただいた、 その誰もが口を揃えて言うのだった。

「本人が楽しく通える場所を選んでくださいね」

これ以上でもこれ以下でもない。子供が通うのですからねという、とてもシンプルなものだった。就学先をどうしようと悩んだあの時期には何度となく立ち返った。これは誰の為の就学なのかと、常に自戒することとなった。


何を悩むことがあるだろう、誰がどう見ても支援学級が妥当だという子。けれども、そういう子でも親は悩む。わたしもその一人だった。息子は通常学級ではやっていけない。それもわかっていた。それでも悩んだ。結局は「普通」から外れることが怖かったのだと思う。

ある機関の支援者Aさんから言われた。

親の希望で普通級に行った子が、周りについていけずに支援級にいくことがある。けれどそのときには既に子供本人の自己評価はマイナスで、そこから自己評価を上げていくことは大人が考えるよりもずっと大変なことなんですよ、と。

重い言葉だと感じた。けれど今となっては支援級しかなかった息子を育てる身でありながら、通常学級を選ぶ親の気持ちも痛いほど理解できた。Aさんの話はこう続いた、

「支援級は支援級で、いろいろとあるんだけどね」

悩ましい。


4月になり息子は支援学級に入級し、サポートのある環境に身を置くことになった。始めの二年間は先生に恵まれたことが功を奏し、目を見張るほどに右肩上がりの成長を遂げた。学校にヨイショしているわけでも何でもなく、あれは環境のお陰だった。抜群に優れた知識と対応力を持つ先生の前では、子供は必ず伸びていく。そのことに親のわたしも魅了された。そして、充分な知識も対応力もない先生の前では、目に見えてそれまでの状態は崩れていく。尊敬していた先生が学校を去ってから、クラスは崩壊していった。崩れるときはあっという間だ。親の気持ちは四方八方へと散っていった。


息子が不登校に片足を突っ込んでいた時期に、その原因が先生だとハッキリしていたので改善して欲しいと願い出たことがあった。その先生は謝ってはいたが、そういうときはバーテーションの裏に行ったり、空き教室でクールダウンすればいいと話してきたので、いよいよ頭がおかしくなったのかと思うようになった。この先生は突飛だが、何かあったときには気持ちを沈める場所を用意しているから大丈夫という人がいる。勿論、クールダウンできる場所は必要だから、つらくなったときに避難できるスペースがあるのは子供にとっても安心だろう。けれど最初からスペースがあるから大丈夫、は支援ではない。パニックや癇癪があることを前提にしてはいけない。そうならないようにするために事前に環境設定をして、穏やかに過ごせるよう工夫する必要がある。パーテーションはそのためにある。決して事後処理用の間仕切り壁ではない。


ADHDの子供は走り回る子、発達障害のある子は癇癪パニックを起こす子、だからそうなったらこうしておけばいいよ。そんな考えを見聞きすることがある。「すごいね、すごいね」そうやって褒める人もいる。これをアスペルガータイプの子にやってしまう人もいるけれど、そうすると、この人は自分を陥れようとしていると受け取ってしまう子もいる。その子の視点から言えば、できて当たり前なのに、特別突出している訳でもないのに、何故この人は褒めるのだろう、何かあるんだろうか自分を罠に嵌めようとしているのか、怪しい、不安だ。そう思う子もいる。その、褒めれば喜ぶだろうという考えでは上手くいかないこともあるということ。一般的に言われるのが、「あなたは前回よりもこれだけ伸びているから、わたしは凄いと思うよ」とか「わたしは90点だったけど、あなたは95点だから凄いと思う」この、わたしはこう思うという『具体的に褒める』がその子を褒めるために必要になるのだけど、特性の知識を知らないと咄嗟にはできなかったりする。大勢の前で褒められれば子供は誰でも嬉しがると思い込んでいる場合にも、注目されることを嫌がる子にとっては罰を与えられているのと同じだったりもする。その子のことを理解していないと、関係性は容易に崩れてしまうことがある。どちらにとっても悲しいことだ。

ADHDはたしかに多動傾向があるけれど、息子が壁を触って走っていたのは体の重心がうまくとれないために空間認知の歪みが生じていたからだ。自分の目では正確な空間の大きさを測れないため、壁を触ることで自分のいる部屋の大きさを手を使って確認していた。それを知らない人から見れば、息子はただの落ち着きのない子として扱われる。子供と向き合う、障害のある子を支援するということは、支援者は知っておかねばならない知識が必ずある。

僕はニュースが流れていても、画面をじっと見てはいません。同じように人の話も相手の目を見たり、うなずいたりしながら聞くことができません。聞くことを意識すると、見ているものが何かわからなくなり、見ることを意識すると、何を聞いているのかわからなくなるからです。

東田直樹『自閉症のうた』より引用


自閉症、発達障害の特性を知らない人では、その子供とうまく向き合うことができなかったり、互いに交わらない心に疲弊してしまうことがある。

発達障害の子は、相手の目を見て話せないと言われることがある。月齢が低い場合は成長段階の兼ね合いもあるけど、子供側には相手の目を怖いと感じる理由があったりする。言葉は穏やかでも相手の目が笑っていなかったり、大人は言葉以上に強いメッセージを目から訴えるため、子供はその正体不明な何かに不安になるからだと教えられたこともある。では、発達障害の子はみんな目を見ないのかと言うとそうではないし、興味のあることには自分から見つめて話してきたりもする。発達と共に視線を合わせて話ができることだってある。東田直樹さんの『自閉症のうた』引用部分のように、相手の目を見ながらだと聞くことが難しくなるという人もいる。わたしの息子も今では視線が合うようになったが、考えてから返事をするようなときは話の途中でも視線を外す。明後日の方向を見るときもあるけど、それがこの子にとっての聞くことであり話すことになっている。知らない人から見たらそれは、ちゃんと人の目を見て話せと言われることかもしれないけれど。


その人を知らなければその人のことを理解できない。結局はここに辿り着く。そこにはどうしたって知識は必要だよねと思うのです、わたしは。
  


スキしてもらえると嬉しくてスキップする人です。サポートしてもいいかなと思ってくれたら有頂天になります。励みになります。ありがとうございます!