過去の私が言うにはね


私は
私の選んだ道を私と歩くんだよ。


違う道を選んだ。
無謀にも選んだ。

結果が現在だ。

苦しいことも
悲しいことも
あったよ。


でも 選んだから。

選べなかったのかもしれない。それしか。

なら それが運命だ。


否定するのは簡単だ。
目を背けるだけだから。

でも それは 私は嫌なんだ。

だって それで なくなるわけじゃないから。

せっかく 私の前に現れた運命の道だもの。
否定したら傷つくよ。
私の物語が傷つくよ。
私に関わる物語すべてに小さな傷をつくるよ。

私が受け止めてあげる。
必要なら優しく弾いてあげる。

ぜんぶじゃなくていいんだ。


私は選んだよ。

私は私にしか創れない
私の物語を選んだよ。

覚悟がないと
潰れちゃう。

自分に嘘は
つけなくなるよ。

外がどんなに騒がしくても
いつだって 私 を 保っている。


私が 呼吸して 感じて 考えて 動いて 受け止めて 受け入れて

いっぱいの過程を

きちんとこなしてきたから

それが いま あるんだよ。



みんな そうだよ。

どんな人も そう。



選んだんだよ。

そして 決めたんだ。

その道を 進むって。


自分に負けない人は
他の誰にも負けないよ。

誰にも真似できない
輝きに満ちている。


おなじ ようで
ちがう から

焦らないで
いつでも
私の隣にいる私。

見失わなければ
迷わず進めるよ。

たとえ それが 茨の道でもね。

題名『例えそれが茨の道でも』


上の文書を書いた時(2012年)、人とは違う道を選んだ自覚と、選んだという葛藤と、戦い続けて、少し落ち着いた頃だった。

無謀でも、愚かでも、その道に入り込んだ。
それが私が選んだ道だった。
褒められるようなものではなく、だからといって落ちきってもいない。
何時だって宙ぶらりんな私がいた。

ただ、どんなに世間に絶望しても、自分の有様が悲しくなっても
一度だって『私が私じゃなかったら良かったのに』と思った事はない。

不思議なほどに昔から『私は私』だって解っていた。
どんなに生きにくくても、どんなに足りなくても、どんなに苦しくても。
例え世界中が敵であっても。

他の誰にもなれない事、他の誰かになりたいなんて本気で思えない事はわかりきっていた。

知っていた癖に、見ないふりをした数年を取り戻すのに人生を浪費したなと思う。


『あのね。
自分と手を繋ぐってことは、覚悟を決めて立ち続けるって事だよ。

世間から見て逃げてるとか、卑怯だとか、嘘だとか、そういうのにぶつかっても
砕けない自分がそこにある。

それごと受け入れるってことだよ。
回避する術を学ぶこともやるし、傷つかないようにすることも大切だけど、覚悟を決めて自分と生きるってそういう事だよ。』
って過去の私はきっと言う。堂々と、きっと言う。

私はそれを続けて、今も私。

今の私が書けない私が、過去の言葉にいる。
恐ろしい程に素直に真っ直ぐに、私が言葉を紡いでいたりする。 

『ここまでおいで』という気持ちと
『はやくいきな』って背を押される感じと
手を伸ばすのと、地層に触れるのと、全然違う感覚が同時に存在する場所、私。


面白い。
不思議。
きっと他の人もそう。


だから私は人と関わるんだと思う。
だから私は私でいたいんだと思う。


うまく言えないけれど
どんなに重ねて地形がかわっても、どんなに巡って忘れていても、それごとそれだねって言っていたいんだ。









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