見出し画像

要約 『幸福論』 ラッセル(2) 幸福の方法について

それでも幸福は可能か

 ここまで多くの不幸を俯瞰してきたが、だからと言って幸福になることはできないという結論を出すつもりは私にはない。

 現代社会の中では、科学者の生活の中にこそ幸福のあらゆる条件が実現されていると言えるだろう。彼らは、己の能力を最大限に使う仕事に従事している。そして彼らは、全ての人から尊敬される
 また、主義主張を信じる人や趣味に没頭する人もまた、幸福であることが多い。何かの信条を勧めるわけではないが、私が観察した限りでは、強く信じるものがある人は総じて幸せそうであったし、趣味に関しても同じことが言える

 幸福の要素は多くあるが、秘訣を述べるとしたらそれは、あなたの興味をできる限り広くせよ、と言うことだと言える。あなたの興味を引く人や反応を敵意あるものではなく、できる限り友好的なものにすることだ。

熱意

 熱意とは、幸福な人たちの最も一般的で、他と区別される特徴である。
 その人の食事への態度は、熱意の特徴を知るのに役立つ。食事に退屈する人は、悲観に囚われた不幸の犠牲者に相当する。食事に義務感を覚える人は、禁欲主義者に、大食漢は官能主義者に、美食家は気難し屋に相当する。そして、健康な食欲をもって食事を楽しむ人、これが幸福な人に相当し、この健康な食欲こそが熱意に近いものである

 フットボールを見て楽しむ人は、その分だけ、楽しまない人よりも優れている。読書を楽しむ人もまた然りである。それらを知らない人が感じていない快楽を知っている、その点で、知っている人の人生の方が楽しいし、よりよく世界に適応していると言える。人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなる

 ただし、良い生活においては、異なる活動の間に適切なバランスなければいけない。熱意に基づく活動といえど、その他の活動を妨げるほどにそればかりが行われてはいけない。夜のチェスを楽しみに仕事をするのは良いが、仕事を投げ出してチェスを行うような人はバランスが損なわれている。つまり、中庸が失われている。熱意と中庸とは並在しなければいけない

愛情

 熱意の欠如の主な原因の一つは、自分は愛されていないという感情である。反対に、自分は愛されていると確信している人は、他の人よりも熱意に満ち溢れている
 愛情に不足のある人は、往々にして不安感に囚われる。不安に苛まれる人は、外の世界への恐怖から、生活を完全な習慣の支配に任せ、変化を恐れ、常に同じ行動をすることで外の世界との衝突を避けようとする。こうした状態にあって、健全な熱意、すなわち外界への健康な興味、欲求を持つことは難しい。

 安心感を抱いて人生に立ち向かう人は、不安感を抱いて立ち向かう人よりも格段に幸福である。
 こうした安心感を生み出すのは、人から受ける愛情であって、人に与える愛情ではない。それが相互的な愛情であるならば、なおさら良い。
 二人の人間がお互いに対して真の相互的関心を抱いていると言う類の愛情、とりわけお互いを一つの幸福を共有する結合体だと感じる愛情は、真の幸福の最も重要な要素である。

仕事

 仕事を幸福の要因と捉えるか、不幸の要因と捉えるかは難しい問題かもしれない。しかし概ねの場合において、仕事は無為ほどには苦痛ではないはずだ。

 仕事には、単なる退屈しのぎから最も深い喜びまで、仕事の性質と働き手の能力に応じてあらゆる度合いが認められる。
 少なくとも仕事は、自分の意思決定を必要とせずに多くの時間を消費してくれる。現代社会において、余暇を知的に潰すことのできる人はそう多くいない。その意味でも、仕事は大きな役割は果たしてくれている。
 仕事は成功のチャンスを提供してくれると言うのも大きな利点である。悲しいことであるが、資本主義社会においては、その人の価値が収入によって計測されてしまう。しかし逆にいえば、仕事で成功すれば自らの価値を証明することができるとも言える。

 仕事は、それ自体が面白い場合には、単なる退屈しのぎよりもはるかに高度な満足が得られる。
 仕事を面白くする要素は主に二つある。一つは技術を行使すること。一つは建設である。

 熟練を要する仕事は、全て楽しいものにすることができる。ただし、そこで必要とされる技術が変化に富むか、無限に向上させ得るものでなくてはいけない。この条件が満たされている時、これらの仕事に従事する人は、仕事から深い喜びを得ることができる。
 そして技術の行使よりも深い喜びをもたらすのは、建設性の要素である。建設は、混沌の状態から目的を具体化することができる。その仕事が完遂したことで何かモニュメントが残ると言うのは、往々にして喜びに結びつく。また建設されるものについて言えば、完全に完成すると言うことは多くの場合においてあり得ない。つまり、さらに次の完成を目指して洗練を目指す楽しみが、常にあるのである

 首尾一貫した目的だけでは人生は幸福にならないが、しかしそれは幸福な人生のほぼ必須の条件である。そしてそれは、主に仕事において具現化されるのである

努力と諦め

 中庸は面白くない教義かもしれないが、多くの点において、真実の教義である。中庸を守ることが必要である一つの点は、努力と諦めのバランスにおいてである

 自然な欲望が萎縮していない人にとって、ある種の権力を求めることは正常かつ正当な目標である。これは資本主義社会において、全くやましいことではない。ある人の目標は権力であるかもしれないし、またある人は知的な優越性であるかもしれない。
 これらの結果は、努力無しで得られるものではない。神からの贈り物ではなく、自らの内的あるいは外的な努力によってしか到達できない。従って努力するのであり、これ自体は問題ではなく、むしろ良いことである。

 しかし努力と同じ程度に重要なのは、諦めることである。努力の過程で何か障害が発生したとして、大抵の人はそれに腹を立てて抗うだろう。その回避に多くのエネルギーを消費すると分かっていても、それにエネルギーを割いてしまう。避けられたとしても、今後また何か問題が起きるのではないかと考え、心の平穏が乱される。

 ある程度の問題は常に起こる。問題は、その発生を甘受し、しかし不屈の精神でもって、諦めの後に努力を続けられるかだ。解決できない問題に対して努力を費やすのは賢人のすることではない。そうした努力を捨て去り、時には諦めを交える。努力と諦めとの調和を図ることこそ、永続的な幸福の条件である

幸福な人

 大抵の人の幸福には、異なるいくつかのものが不可欠であるが、それらは単純なものだ。すなわち衣食住、健康、仕事の上の成功、そして仲間から尊敬されることである。

 対して、自己中心的な考えに陥ってしまうことは、幸福からは程遠い、最悪の牢獄に囚われることである。エゴを作る情念とは、恐怖や妬み、罪悪感などである。これらは全て、自己の欲望が自分自身に集中してしまっている。

 幸福な人は自己に囚われず、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持つ人である外界への興味と関心を絶やさない人は、自我と社会の結合に成功する。そのような人は自らを世界の一部だと自認できるであろうし、そうできたならば、世界の全ては、あなたにとって楽しいものとなるだろう



要約外の名文

・達成の喜びを味わい得るためには、最後には通例それが達成されるとしても、あらかじめ、成功は覚束ないと思われるような困難が存在していなければいけない。

・幸福に寄与する愛情は、人々を観察することを好み、その個々の特徴に喜びを見出す類の愛情である。それは、義務感によって呼び起こされた自己犠牲の観念から生じたものであってはならない。義務感は仕事においては有用であるが、人間関係ではおぞましいものである。

・世界のうちの何かに興味を覚えた人は、興味を覚えない人よりも、よりよく世界に適応しているのである。

・世界を分かりやすい体系とかパターンとかにまとめたいという欲求は、突き詰めてみれば、恐怖の所産であり、広場恐怖症の一種に他ならない。

・従来、男性が臆病な女性を好んできた理由の一つは、男性は女性を守ることによって、女性を所有するに至ったからだ。

・( 女性が、子供が欲しいという欲望を持ったのち、 ) この欲望に打ち勝てない場合は、結婚せざるを得ないし、そうなれば、まず確実に仕事を失うことになる。彼女は、これまで慣れてきたよりもはるかに低いレベルの安楽さに甘んじなければならない。

・親は、もはや子供に対する権利を確信していない。子供たちは、もはや親を尊敬する義務があるとは感じていない。服従の美徳は、以前は少しも疑われることなく強要されていたが、今は時代遅れになってしまった。...親であることは、昔は権力を行使することであったが、今は小心で、不安な、良心的な疑念に満ちたものになってしまった。

・最も文明化した人間は最も不妊であり、最も文明化していない人間は最も多産である。

・賢明に幸福を追求する人は、自分の人生の根底を成している中心的な興味の他に、いくつかの副次的な興味を持つように心がけるだろう。

ここから先は

0字

¥ 100

思考の剝片を綴っています。 応援していただけると、剥がれ落ちるスピードが上がること請負いです。