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抜粋要約 『予想どおりに不合理』 ダン・アリエリー(1)

前置き

・本 note は当該図書に関する抜粋要約です。全ての内容を要約したものではなく、特に有用だと思った内容について抜粋して要約しています。
・本 note は (1) と (2) により構成されます。

概要

 経済学者も、政策立案者も、シェークスピアも、人間の心を高く評価している。人間は完璧な理性を持っていると信じており、特に経済分野では人間は常に合理的な行動を取ると仮定している。

 しかし、人間がどれほど完璧とは程遠いのかということを私は述べたい。私の考えでは、私たちは不合理なだけではなく、「予想通りに不合理」だ。つまりそれはいつも同じように起こり、対策のしようがあるということだ。

 私たちは高い理性を持つかもしれないが、何かの価値をそれ単体で決定することはできず、相対的に判断してしまう。その時、比較対象の価格が間違っていても、それには気づかない。
 私たちは無料という概念に対して合理的に判断ができない。$ 1 で $100 相当のギフト券がもらえると言われても、無料で $50 のギフト券をしばしば選んでしまう。
 私たちは自分の所有物の価値がわからない。20 年前に $10,000 で買った愛車と過ごした思い出に思いを馳せると、客観的に見た残存価値とは大きく乖離した価値をそこに見出してしまう。

 私たちが下す決断は、経済理論が仮定するほど合理的ではない。どころかはるかに不合理だ。
 しかし無分別というわけではない。そこには規則性があり、予想できる。

 私たちは自身が乗っている人間という容れ物について無知である。それについてもっとよく知らなければいけない。不合理がどのように起こるか既知のものとできたならば、この弱点は十分に克服できる

相対性の真理

# 真理と対策
 人間は物事を絶対的な基準で決めることはまずない。他のものとの相対的な優劣に着目して、そこから価値を判断する。それだけではない。私たちは比べやすいものと比べると同時に、比べにくいものは無視する傾向がある

 無意識でいる限り、我々は価値を相対的に判断してしまう。ならば我々はどうすればよいだろうか。唯一の解決策は意識的に相対性の連鎖を断つことだ。人は持てば持つほど一層欲しくなるのだから。

# 実験
私は 100 人に対して新聞購読に関する実験を二つ行った。購読オプションの1つ目は以下の通りだ。

(1) ウェブ版のみ: $59
(2) 印刷版のみ: $125
(3) 印刷版とウェブ版のセット: $125

この時の購読者数は、(1) が 16 人、(2) が 0 人、(3) が 84 人であった。

次にオプションを以下のように変更した。

(1) ウェブ版のみ: $59
(2) 印刷版とウェブ版のセット: $125

すると購読者数は、(1) が 68 人に増え、(2) が 32 人に減った。

 何が起こったのだろうか。
 前者の実験では、(2) と (3) が比較判断できる。同じ値段でコンテンツが同じであるならば、(3) の方が優れているというのは合理的な判断である。しかしこの時我々は、(3) に対して「相対的に優秀」というラベルを貼ってします。では (1) と (3) はどちらか優れているだろうか。これは比較しづらい。しかし (3) はある点において相対的に優れていることが分かっている。従って、相対的に価値を判断しづらい (1) を無視して (3) を選ぶ人が増えたと言える。
 後者の実験では、相対的に判断する材料がなくなった。こうなるとセット購読の側が優れていると判断できないため、おそらく値段の観点からセット購読を選ぶ人が減ったのだと予想できる。

需要と供給の誤謬

# 真理と対策
 私たちは「恣意の一貫性」という概念を提唱する。これは、ある対象に最初に付けられた価格が恣意的であっても、一旦それが私たちの意識に定着すると、現在はおろか未来の価格まで決定づけられるというものだ。そしてさらに重要なのは、一つの品物について価格が決まると (アンカー) 、同じカテゴリーの別の品物についての価格判断にもその価格が参考として使われるということだ。

 伝統的な経済学の枠組みでは、需要と供給が互いに独立して存在していると仮定し、それらが市場価格を決定すると考える。しかしここには疑問がある。
 第一に、消費者 (需要) は価格に対して絶対的な価値観を持っているわけではなく、上述のアンカーなどによって簡単に意識が操作されてしまうということ。
 第二に、需要と供給が独立していないということ。実際に供給側が最初の価格を決定するとき、それは素材価格や広告費などの供給側の文脈における変数が強く存在するのであり、そうして算出された価格がアンカーとして消費者 (需要) に受け入れられる。つまり、供給と需要は独立しておらず、需要が供給に依存していると言える。

 これらをもとに考えると、価格の変化に対して私たちが示す感応度は、真の選考や需要の度合いの反映などではなく、過去に支払った金額の記憶と、過去の決断との一貫性を維持したいという願望によるところが多いのかもしれない。言い換えると、個々の品物に設定された値段は、必ずもその品物から得られる満足度を反映したものではないということである。

 ではどうすればよいのか。需要と供給という概念以外にも市場に影響する考えがある以上、市場価格調整の役割を需要と供給に任せず、価格を調整する第三者の介入を是とするのは一つの手だろう。

# 実験 ( アンカーに関する )
 大学教授である私はいくつかの学生グループに対して質問をした。質問は私が小・中・大程度の長さの詩を朗読するとき、それに対してどうアクションするかというものだ。オプションは以下の通りだ。

(1) それぞれの詩を聴くのに $10 払えるか。あるいはいくら払うか。
(2) こちらが $10 払えばそれぞれの詩を聴いてくれるか。あるいはいくらなら聴くか。

 これに対する結果の平均は以下の通りだ。
(1 - 短い詩を聴くのに払ってよいコスト ) $1
(1 - 中くらいの詩を聴くのに払ってよいコスト ) $2
(1 - 長いの詩を聴くのに払ってよいコスト ) $3
(2 - 短い詩を聴くのに必要だと思うコスト ) $1.3
(2 - 中くらいの詩を聴くのに必要だと思うコスト ) $2.7
(2 - 長い詩を聴くのに必要だと思うコスト ) $4.8

 この実験では、「お金を払うのか」「お金を貰えるのか」という前提がそもそもアンカーになっている。詩を聴くということの価値は学生に判断できなかったが、一度アンカーが形成されてからは、その善悪は分からずともアンカーに従うことが分かる

ゼロコストのコスト

# 真理と対策
 実は値段ゼロは単なる価格ではない。ゼロは感情のホットボタンであり、不合理な興奮の源なのだ

 私の考える答えはこうだ。大抵の取引には良い面と悪い面があるが、何かが無料になる時、私たちは悪い面を忘れ去り、提供されているものが実際よりずっと価値あるものと思ってしまう
 なぜだろうか。それは、人間が失うことを本質的に恐れているからではないかと考えている。無料のものを選ぶとき、私たちは何かを失うことはない。しかし無料でないものを選ぶ時、金額を支払う以上、満足感が価格に見合わない場合金銭を失ってしまう。この後者への恐れが、人を無料へと誘導するのではないだろうか。

 結論として、値段ゼロは単なる値引きではない。2 セントと 1 セントの違いは小さいが、1 セントと 0 セントの違いは莫大だ
 もしあなたが商売をしているのであれば、何かを無料にしよう。無料は手持ちのエースであり、絶大な力を持っている。

# 実験 ( 交換における無料の魅力に関する )
 あるハロウィンの日、私の元に来たそれぞれ子供に対して小さなチョコの粒 ( 5g ) を 3 つあげた。私の手元には別に、小さなチョコバー ( 60g ) と大きなチョコバー ( 300g ) がある。それぞれの子供に対して交渉を行なった。

(1) 今あげたチョコを 1 つと小さなチョコバーを交換してもいい。2 つくれるなら大きなチョコバーと交換しよう。
(2) 今あげたチョコを 1 つと大きなチョコバーを交換してもいい。 あるいは、無料で小さなチョコバーを 1 つプレゼントしてもいい。

 何人かの子供に対して実験を行なって、最も多く行われたのはそれぞれ以下の行動だった。

(1) 2 つのチョコの粒 ( 5 g x 2 )と大きなチョコバー ( 60g )を交換した。
(2) 無料で小さなチョコバー ( 30g ) をもらった。

 (1) については算数ができれば当然そうなるだろうという結果なので問題ではない。問題は (2) である。
こちらでは大きなチョコバー ( 60g ) とチョコ粒 ( 5g ) の交換レートは 1:1 であるので、投資対効果は抜群である。それはもう一方の選択肢 ( 無料で小さなチョコバー( 30g ) ) と比較しても、前者が優位である。しかし子供たちのほとんどは後者を選んだ。
 ここから、無料という条件が持つ誘引力が強力であることが見て取れるだろう。

社会規範のコスト

# 真理と対策
 私たちは、社会規範が優勢な世界と市場規範が規則を作る世界の二つの異なる世界を生きている。社会規範の世界では、隣人の手伝いをしたり他人のためにドアを開けるなどの行為が社会性に基づいて行われる。対価は発生しない。対して市場規範の世界では、賃金や利息などシビアな支払いの概念が発生する。

 これらが交わらず独立して存在している場合、問題は起きない。しかし社会規範と市場規範が衝突すると、たちまち問題が起きる。叔母が作ってくれるパーティ料理にお金を払い出したり、ガールフレンドにセックス料金を払い出した時のことを考えれば想像は容易だろう。

 行動経済学の観点で重要なのは次の二つの事実である。すなわち、人はお金のためより信条のための方が熱心に働く、つまり市場規範より社会規範に基づく行動の方が熱意が高いということ。もう一つは、市場規範と社会規範が衝突した時、かなら社会規範に関する意識の方が先に消えるということである。

 トップ企業を見てみても、社会規範 ( 一緒に何かを作り上げる興奮など ) が市場規範 ( 給料など ) より強い企業の方が人々から多くの働きを引き出しているように思う。
 結局のところ、人をやる気にさせる方法としては、お金が最も高くつく。社会規範を強化するアプローチは、安上がりなだけではなく、より効果的な場合が多い。

# 実験
 私は学生を集めて、作業を依頼した時の作業効率と報酬との関係を実験した。全ての実験グループには同じ作業課題を課した上で、報酬について以下のように条件を分岐させた。

(1) 作業開始前に、$1 未満を渡した。
(2) 作業開始前に、$5 を渡した。
(3) 報酬は渡さず、頼み事として作業を依頼した。 
(4) 作業開始前に、$1 未満相当のチョコをプレゼントした。
(5) 作業開始前に、$5 相当のチョコをプレゼントした。
(6) 作業開始前に、$1 未満相当のチョコをプレゼントし、その金額を明かした。
(7) 作業開始前に、$5 相当のチョコをプレゼントし、その金額を明かした。

 以下はその時の作業効率の平均である。( 数値は実験上の指標であり、大小にのみ注目してほしい )

(1) 101
(2) 159
(3) 168
(4) 162
(5) 169
(6) (1) と同等
(7) (2) と同等

 まず (1) と (2) では金銭の支払いが発生したため、学生は市場規範に囚われた。市場規範においての価値は当然金額の多寡であるため、報酬の多い (2) の方が (1) よりも効率が高かったのは納得である。
 (3) では報酬を支払わなかった。この時学生は市場規範ではなく、社会規範のもと作業を行なったと考えられる。報酬が介在していないのにこの時の効率は金銭を支払った時とそう変わるものではなかった (むしろ少し多い) というのは、金銭的な世界線で作業を行わなかったことを証明している。
 (4) と (5) では金銭の代わりにプレゼントを送った。作業効率から考えるに、プレゼントは市場規範を呼び起こさず、社会規範を呼び起こしたことが推察される
 (6) と (7) では金額を明かした上でプレゼントを送った場合の実験であったが、結果は金銭を直接渡すのと同様であった。このことから、少しでも金銭的要素が見えた時、人は市場規範に囚われることが推察できる

Memo

・「20 世紀のジャーナリストであり社会評論家である H・L・メンケンは言った。給料に対する男の満足度は、妻の姉妹の夫よりも稼いでいるかどうかで決まると。」
( 人は絶対的に給料の満足度を測れず、身近な人の給料と比較し、相対的な価値で優劣を決めるという文脈で )

・「トムは人間の行動の偉大なる法則を発見した。人に何かを欲しがらせるには、それが簡単には手に入らないようにすればいい。」

・「レストランの行列を見ると、素晴らしいレストランに違いないと思い自分も列に並ぶことがあるだろう。このような行動をハーディングと呼ぶ。他人が前にとった行動をもとに良し悪しを判断し、それに倣って行動することである。そしてこのハーディングには、自己ハーディングという種類のものもある。過去に自分がその行動をとったのだから、今日もそれを行おうと考えることである。」

・「確かにデートの相手は、あなたがこの食事のためにいくら費やしたか知らないかもしれない。$100 のご飯を $10 と勘違いしてしまうかもしれない。しかしこれは、人間関係を特別の領域に維持して、市場規範から遠ざけておくために支払われなければいけない金額なのだ」

・「アダム・スミスは、あらゆる男は交際によって生きるのであり、つまり、誰もがある意味で商人となる。そして社会そのものが正当な商業社会へと成長する、と書いている。」

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