方舟を見送る

旧約聖書のノアは、大洪水に襲われ方舟に逃げ込んだ際、自らの貧しい生き方を儚むことはしなかったのでしょうか。血の結束に囚われ種の存続ばかりを憂うだけで、心を許せる友人を得られなかった己を恥じたりしたのでしょうか。
洪水のあとに共に生きたいと思える友人と出会えなかった、己の哀れさを。

「僕は君のことがとても好きだ」
電話の向こう側は静まり返っていて、それが一層あなたの今いる空間を雄弁に物語っているように感じました。
新興国に仕事の研修で滞在中のあなたは、夕食を終え寝るまでの時間を、思う存分に私との電話に費やすのです。
「街中がなんだか臭いんだ」
そう言うあなたが、きっと電話の向こう側で形の良い鼻梁に皺を寄せているのが容易に推察されます。
受話器の向こうは、そんな臭い世界から断絶されているかのように、くろぐろとした奥行きが広がっています。

「ねぇ。大好きだよ」

お互いに言いたかったけれど、言わないように努めていた言葉は、あなたの方から発せられました。

「私もあなたのことがとても好きよ」
私がそう答えると、あなたは溜息を付きます。
「でも僕は、交際中の彼女のことも大好きなんだ。君に抱くのとは違う感情で」
「あら、それでいいじゃない。私の抱く感情とあなたの好きが同じなら。だって、私達は友達でしょう。私はあなたとずっと仲良くしたいと思っているのだもの」 私は、あなたとの世界がどんどん世俗に近づいているのを感じて、慌てて捲し立てました。
「問題はそこなんだよ。男友達だったら一生仲良しでいられるだろう。けど、君は女性なんだ。お互いに結婚したり社会的立場ができた時、相も変わらず二人でいれば、世間に咎められる」

なんてつまらないことを言い出すのでしょう、この人は。
きっと、研修期間の半ばに差し掛かり自らの双肩にかかる期待を自覚し始めたのだと思います。
受話器に触れる耳朶から伝播する鈍い痛みは、押し寄せ引く波のようにじわじわと私を侵食していきます。
「あら!私は結婚した後も、会いたい人と会うし、それを後ろめたく思ったりなんてしない!今度恋人に、あなたのこと紹介するね」
努めて明るくそう言いながら、私はそんな未来がやってくることはないだろうと予感しています。
恋人は、表向きは異性の友人を容認しながらも、心の中ではきっと受け入れない。
私は一瞬、私とあなたより、あなたと恋人のほうがよほど互いを理解し合う生物のように錯覚しました。

「その男友達も、君のように車好きなのか?」
翌日、運転席でハンドルを握りながらそう私に問いかけたのは、私の大学時代の同級生でした。
助手席に座る先輩は、興味津々な顔を後部座席に向けてきます。
私達は、地方での仕事のためにひたすらに東北道を北上している最中です。サスペンションの甘い軽自動車は、風が吹くたび横にすべろうとします。
視界の隅に吹き流しがはためくのが見えました。
最近の私の周囲をとりまく人間模様は、運転者の眠気覚ましに最適だったようです。
「いいえ。私の影響で車に興味は湧いてきたみたいだけど、全くもってトンチンカン。Audiに乗りたいとか言い出したから、BMWが大好きな私とは、そもそも趣味が合わない」
そう答えながら、私はかつて彼と交わした会話を思い出しました。
彼は、私を事あるごとに「車オタク」と言うのです。

「違うの。私はあなたの思うようなオタクじゃない」
「そう?」
「だって、恋人が車に向き合う姿を見ていると、私が車好きを標榜することなんて、おこがましいって思うのよ。恋人がサーキットを走るのについて行くと、タイムを確認してセッティングを変えながら試行錯誤しているのを眺めることになる。周りには、車にしか興味を持たずに生きてきたであろうおじさんばっか。そういう世界を垣間見ると、私みたいな娘っ子が車種を幾ら知っていても、高速道路をいかに迷子にならずに走ろうとも、そんなことは瑣末なこと、なんでもないんだって思う」
「なんだか、君の恋人は住む世界が違うんだな。。。」

思い出して溜息をついた私の心境を知ってか知らずか、同級生はこう問いかけました。
「君って、いろんな男性の車に乗っているし、しょっちゅう色んな車が君を迎えに大学の正門に止まっていたけど、自分の車に男を乗せたいって思ったことはないの?」

ミラー越しに、前を見据える同級生の顔が見えます。彼の楽器はコントラバス。舞台上手後方で、舞台を俯瞰する存在。地面から離れたところでふわふわと漂う風船をつなぎとめるのは、重心が低い楽器を操る彼らです。その技量は、車内の会話の中でも遺憾なく発揮されていて、私は揺蕩いながら迷っていた自分の心をきゅっと抱き抱えられたような気がしました。

「その発想、私の中にはなかったわ。でも考えるに値すると思う。ありがとう」私は頭をヘッドレストにもたせて、その問いを考え始めました。

もし世界が大洪水に襲われたとして、方舟に乗らなくてはいけないときが来たら、私はどうするのでしょうか。
そこに載せる命を、私が選ばないといけないとしたら。

「私そんなことになったら、きっと私だけ降りると思うんだ」
数日後に、月明かりの照らす窓辺でそうつぶやいた私に、あなたは
「しょうがないなぁ。僕も一緒にそこへ残るよ」と言いました。

方舟は、互いの恋人を載せ、ぐんぐん地表から遠ざかっていきます。
涙を見せまいと私達は大きく手をふるのです。張り裂けそうな心を必死に隠しながら、彼らの未来が明るく輝かしいものとなるよう、全身全霊の祈りを込めて。

やがて、全てを飲み込む大きな津波が私達を捉えます。
ようやく私達はふたりきりになれました。誰も咎める人などいません。この世界は私達の心の中にだけ、永遠に在り続けるのです。

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