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潮騒の恋人

男は海が七つあることを知らなかった。それなのにこれ程に海に愛されている。

「君の故郷のトーキョーには、海はあるのかい」と彼は尋ねた。
目の前には、彼の生まれ育った小さな街をずっと見守り続けてきた海が、日の名残りを受けて僅かに朱く染まっている。大航海時代、貿易港として栄えた街だ。旧市街の赤みのかかった煉瓦で作られた古い建物は、海に面して所狭しとひしめき合っている。
「あるわよ」と答えながら、東京の塩辛い海と、そこに張り出すように乱立したビル群を思い出す。彼は満足そうに笑った。

私は、彼の思い描いているであろう東京の海を、敢えて正さずにしておいた。
残照はもう残っていない。今夜私たちは二人だけの地球を創り出す。証人は空に輝く星座と神々だ。

抱きしめた彼の匂いは、潮風と混じって食欲をそそった。日に焼け、海水で洗われた彼の肌は、歴史が幾層にも重なるこの街で、私を導く北極星のように確固たる輪郭を持ち続ける。その肌に舌を這わせれば、たちまち食欲が湧くことだろう。
胸の中で私が笑っているのに気がついた彼は
「何故笑っているの」と訊いてきた。
私は
「あなたって美味しそうな匂いがする」
と答えながら、目を閉じて彼の胸に頬擦りをする。
ごわごわした布の下で彼の鼓動は潮騒のように規則正しく響く。
私の耳はそれを拾って心を震わせる。
「なんて美しい夜なんだろう」
彼はそう言って腕を広げた。
まるで、私ごと海と夜空を抱きしめるように。そんな彼を、私はそのまま芝生に押し倒した。「ここには全てがある」
そう言って目を細めた彼の瞳の中に、私はひとつ海を見つけた。

夜が明ける前に、私たちは互いの名前を教えあった。顔の脇の草には朝露が宿っていて、私の吐いた息を受けて僅かに震えた。
「君の名前の響きはとても美しい」
「七つの海という意味よ」
彼の言葉に対する私の返答を彼はいぶかしがった。
「海って七つあるのかい」
頷く私を覗き込み、彼はそう訪ねた。
「大西洋と、ここの海と、あと他にどこが必要なんだ」
彼の脳内の地球儀には一体どのような模様が描かれているのだろうか。
私は少し彼をからかってみたくなり、
「私の故郷は太平洋よ」
とだけ答え、身を起こした。冷たい朝の空気が、身体を拭う。彼の体温はとても高かったのだと、離れてから気がついた。
髪をくしけずり振り向くと、彼は困ったようにこちらを見ている。

「そんな区分に何か意味があるのか」
「さあね。でも私は自分の名前が好き」
その答えを聞くと、彼は立ち上がり、私の傍へやってきた。
「君のご両親は、君に世界中の海を与えたんだね」
彼はそう言って私を再び抱きしめた。彼の体温は相変わらず高くて、その熱が私を染めていくのがわかった。背中に、登り始めた太陽の柔らかな光を感じる。

なんて幸運な男だろう。かつて数多くの男が世界の海を旅し、その全てを手に入れようとした。
それをこの男は一夜にして自分の腕の中に引き入れたのだから。でも、私は彼の手の中に収まって支配された訳ではない。彼の瞳を覆う美しい海を手に入れたのだ。

私がやがてこの地を去る。
彼はやがて私以外の現地の女と出会い結婚をするのだろう。夜の波は一夜の出来事をその身に取り込み、暫くするとまた太古からの慣わしのように星空を映すだろう。

けれど、私が東京へ行っても、海は繋がっているのだ。今夜私たちが足を浸した海水は世界中に広がってゆく。
様々な海流によってほうぼうに運ばれた私たちの痕跡は、地球の片隅でまた巡り会うこともあるのだろう。そうして私達の海はどんどんと広がりつづける。
私は彼の鼓動が恋しい時は貝殻を耳に当てよう。私達は海を通して繋がっているのだ。


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