海を照らす光

正午を過ぎた都内の公園、まるでだだっ広い夢の中に浮いているような気分になりながら大学まで歩いていると、見知った顔に何人も出会うのです。

大学を卒業してから久しく会っていなかった先生や、留学していたはずの先輩、そういった彼らとすれ違い、驚いたり笑ったりしながら手を振り合い振り向くと、そこにはかつての同級生がおりました。

「今就職活動をしているんだ」
そういって彼は重たそうな鞄を持ち直しました。
去年の春に院を卒業したあと、科目履修生として大学に在籍している彼は、今年まで新卒として就職活動が可能、しかしめぼしいところの審査はことごとく落とされ、これからまた試験を受けに御茶ノ水へいくところ。
そう肩をすくめる姿は学生時代と少しも変わっておりませんが、スーツを着ると余計に所在無げに見えました。

近況をぽつぽつと呟く彼に
「君なら大丈夫だよ!
ただ、自分のやりたいことと真摯に向き合う君は、営業みたいに周りと一緒に利益を生み出す仕事は向いていないと思うし、資本主義の世の中ではあなたの繊細な心遣いなんて簡単になかったものにされてしまうと思う」
なんて無責任に声をかけたのは、それが私が辛い時に一番言って欲しい類の言葉だからです。
「ずいぶんな言われようだ」
と彼は笑いました。

「君には君の良さがあって、それを活かせる道を選んで欲しいって思っているだけだよ」
職人とかどう?大学に残って研究者は?
そう提案する私に彼はひとつひとつ丁寧に反論しました。
そういうところが全然変わっていないなあと愉快な気分になり、
きっと彼も私のことを「無責任に適当なことを言うところ変わってないなあ」と思ったことでしょう、またねーと言いながら別れました。

自分の学んできたものを、自分の生きてきた道を、かつて一緒に歩いた人がいることを彼は思い出してくれたでしょうか。
学生時代は周りに構う余裕なんてなかったし、大して仲良かったとは言えないけれど、少なくとも私たちは同級生であり友人なのですから。
先程すれ違った先生が、他所で私のことを「勉強熱心でとても才能のあるいい生徒でした」と言っていたと噂で聞いて、泣きそうなくらい嬉しかったことを思い出しました。
思い出は、人の進む道を照らす力があります。
忙しい時に心の中にあるそれに気がつくことは困難ですが、一度気がつけば、それは暗い海を切り裂く灯台の光ように、確固たるものを示します。
卒業後に行方不明になるとささやかれる芸大生、SNSで繋がってなくても信頼関係は繋がっていけると信じています。

学生の頃、先生は自身のお部屋の中でこんなことをおっしゃいました。
「君たちの中で、芸事になれる人は一握りだ。芸事の道は本当に険しいから。けれど、君たちがいつか自分の子供に芸術を教えることができたのなら、それは君たちのやってきたことが次に繋がるのです。
あなたたちが身につけたものは決して無駄にはなりません」
当時私はまだ、自分が将来結婚したり子供を産むことなど到底考えられませんでした。
それよりも目の前に迫るコンペや試験で良い成績を取ることにばかり気を取られていたので、その言葉は雑談として心の隅にしまい込まれたままでした。
先生の真意に思い至ったのは、つい先ほど同級生と別れた後に先生の言葉を反芻しているときです。
きっと私は自分の目の前の道を進むことに必死で、周りが見えていなかったのでしょうね。その性質を褒められることはありましたが、その時だけは私は自分の鈍感さに心底呆れました。

先生ご夫妻には子供がいないのです。

人はどうして絵を描き音を奏でるのでしょう。
私は今、研究室の助手として何百年も昔の美術品を扱っていますが、それらに対峙する時、作り手の心を想像すると切なくなるのです。
人が、何かを伝えようと命を賭して為したものは何故これほどまでに美しく輝くのでしょうか。
その想いと受け取り手の心が繋がったと実感する瞬間、世界の扉は開かれ、加速しはじめるのです。
きっとそれは人間にとって、芸術や子育てに限らず尊い行為なのでしょう。
人は人を信じることが出来る、という希望なのですから。

研究室に行けば、そこには私を待つ作品がいます。彼らと世界の橋渡し役を行えることは、学生時代に思い描いていたキャリアではないけれど、とても幸せな仕事だなとしみじみ感じました。

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