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過去と現在と未来を同時に経験するヘプタポッド

人生の選択をするとき、未来に重きを置きすぎるのは危険な甘い罠なのではないか、ということを考えていたときに、一冊の本のことを思い出しました。


折に触れて思い出す一冊というのがあります。それは決してお気に入りの本ではないけれど、なぜかあるワンシーンが頭のどこかに引っかかったまま何年も色褪せなかったり、読みながら疑問に思ったことの答えが出ずに頭の片隅に置かれているものだったりします。


テッド・チャン著『あなたの人生の物語』もそんな本のうちの一冊です。本書を読んでいない方でも、映画版『メッセージ』はご覧になったことがあるかも知れません。

この作品の中に、過去も現在も未来も、全てを同時に経験する宇宙人が登場するのですが、この宇宙人ヘプタポッドの世界の認知方法が大変興味深く、記憶の本棚から取り出してみては眺めるということが度々ありました。

この本の中に、未来についての考えるときのヒントがあるように思い出し、久しぶりに手に取ってみました。



ここからはネタバレになってしまうので、予備知識なしに読みたい方・観たい方はお気をつけてください。



映画版よりは原作の方が面白いのですが、それでも文学的な魅力を感じる本ではありません。文章もまどろっこしくて読みにくい。でも宇宙人と闘うのではなく、言語学者を呼んできて宇宙人の言語を解読させるというのは初めて出会った設定で、印象に残っていました。


久しぶりに読み返してみると、初めて読んだときに受けた衝撃が甦ります。
宇宙人と言語学者、言語と思考・認知の関係、そして過去と現在と未来を同時に経験するという宇宙人の認知方法に改めて興味を惹かれました。
文学というよりは、理論を楽しむ本ですが、間違いなく一読の価値はあるでしょう。


主人公の言語学者ルイーズは政府からの要請で、突如地球にやってきた宇宙人の言語を解明する任務に就きます。

まずは「人類」「椅子」など簡単な単語を身振り手振りを使って教え合い、ヘプタポッドの言葉を学んでいきます。同時に、同じ研究チームに属する物理学者のゲーリーはヘプタポッドたちから最先端の科学技術を学ぼうと取り組みます。


わたしたちが外国語を学ぶとき、大抵の場合は日本語を、珍しい言語なら英語などを補助線として用い新しい言語に取り組むのではないでしょうか。しかし宇宙人の言葉は全くの未知の言語。ルイーズが言語学の手法を用いて、ヘプタポッドの言語体系を読み解いていく様子はスリリングでとても興味深い作業です。

初めは会話から話し言葉を学び、続いて書き言葉からヘプタポッドの言語を解明していきます。話し言葉に輪をかけて、線と線が入り組んだ書き言葉はまるで曼荼羅のように複雑怪奇です。文字というよりは図のようです。一瞥するだけでは規則正しい語順など見てとることもできません。一体これはどういう言葉なのか?(この辺りの文字のイメージは本を読むよりも映画で見る方がわかりやすいです)


ここでブレイクスルーとなるのが、ゲーリーがルイーズに説明するフェルマーの原理です。

本書で端的に説明されている定理をさらにサッパリとまとめると、光は常に最短時間をとるルートを進む(もしくは最大の時間をとるルートを進む)、というのがフェルマーの原理です。他の物理学の定理には似つかないと訝しがるルイーズに、ゲーリーは水面で屈折する光の図を用いて説明してみせます。

これはなかなか面白い法則です。

というのも、光が動き始める前にどこにたどり着くかを知っていなければ、それにゴールまでになにがあるのかを、例えば水面を通るのかなどの必要な全ての情報を、あらかじめ知っていなければ、常に最短時間をとるルートを進むことなんて、できないではありませんか。


わたしたち人間の時間は一本の矢印のように常に前に向かって進んでいて不可逆です。未来に何が起こるかを知ることはできません。そのため、わたしたちは”原因があって→結果がある”というように物事を理解します。

一方でヘプタポッドは過去も現在も未来も、全てを同時に経験しています。そこには過去、現在、未来に区別はなく等価値で、時間軸ではなく”目的”によって事象を認知します。

たとえば先ほどのフェルマーの原理の光の例で比べると、「空気と水の屈折率の違いによって、水面に達した光は屈折する」と原因と結果で認知するのが人間。
「光は目的地に至るまでの時間を最短にするように進む」と目的によって認知するのがヘプタポッド。
同じ事象を観察しても因果関係で解釈するか、目的論的に解釈するか、という認知の違いがあるわけです。


わたしの拙い説明ではこんがらがってしまうだけかも知れませんが、本書がとびきり面白いのはこのヘプタポッドと人間の認識の違いを、物理学を例に用いて、言語的に解読していく過程なのです。


主人公のルイーズはヘプタポッドの言語を理解していくうちに、ヘプタポッドがどのように世界を認知しているのかを理解していきます。そしてヘプタポッドの言語を習得していくにつれ、ルイーズ自身の認識様式も変わっていくことに気がつきます。

外国語を習得していくうちに、日本語で考えるときとは異なる思考方法を身につけていく。こういう感覚、外国語を習った方は経験したことがあると思います。

ヘプタポッドの言語を操るようになるにつれ、次第にルイーズも自身の人生に起きる全ての出来事を同時に経験するようになっていくのです。

現在も未来も同時に理解するルイーズは、果たしてどのように生きて、そして生きることにどんな目的を見いだすのでしょうか。




わたしたちは何かを選択するとき、現在と将来のことを天秤にかけながら逡巡します。未来のことはわからない、だからどちらが良い選択なのかは、選ぶまでわかりません。未来のことはわからない、だからこそ未来には重要性があります。

もしも未来に何が起きるのか全てわかっていたら、現在や過去に対して未来が内包している相対的な重要性はなくなるでしょう。

前進する前にすでに辿るべきルートも至るべきゴールも知っている光のように、もしも生まれる前から死ぬまでに辿るべきルートが全て見えていて、そして人生の全ての瞬間を同時に生きるとしたら?それは一体どんな感覚なのでしょうか。


未来が見えてしまったら、自由意志がなくなり、退屈になるのではと思います。

しかし最速のルートをとるという目的を光自身が知っているように、ヘプタポッドが事象の目的を認知するように、自分の人生の目的というものを認知することができるのなら、そこには自由な意思で選択するのとはまた異なった人生のやりがいや面白みが生まれるのかも知れません。たとえ結果がわかっていても、その行為を行うことでしか得られないものもあるでしょう。


過去から未来へ一直線に生きるわたしたちには、未来は見えず、人生の目的も見えませんが、将来というものの重要性に偏重するのではなく、過去にも現在にも未来にも等しい重要性を感じて生きることができれば、毎日の選択が少し変わるかも知れません。それは良い方向への変化である気がします。


過去と現在と未来を同時に経験するというヘプタポッドは人生をどのように眺めているのでしょう。ヘプタポッドにとっての人生の目的とは、一体なんなのでしょう。そんなことを考えていると、いつまでも退屈しないのでした。


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