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”現実”とは一体なんなのか 『モレルの発明』

アルゼンチンの作家ビオイ・カサーレスの『モレルの発明』は、町山智浩さんが『去年マリエンバードで』の映画解説で紹介していて知った小説です。

『去年マリエンバードで』は我が人生でその美しさに最も感銘を受けた作品であり、しかも世界で1番難解な映画のひとつとも謳われています。そんな作品に影響を与えた小説が『モレルの発明』なのだとか。これは読まないわけには行きません。

一読目では、どうしてこの小説が『去年マリエンバードで』に繋がるのかが分かりませんでした。どちらかというと映画『インセプション』や村上春樹著『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に繋がる主題が想起されました。

しかし本書の後にある翻訳者の解説が大変興味深く、こちらを二度読んで噛み締めると『モレルの発明』『去年マリエンバードで』の関係性がはっきりと浮かび上がってきます。
鏡とイメージについて、一人称で語られる物語の非・客観性についてなどとても知的な解説です。小説を手に取られた方はぜひ、映画と合わせてご一読ください。

ただし!
町山さんによる『去年マリエンバードで』の解説では、『モレルの発明』が完全にネタバレされてしまっていたので、筋を知りながら読むことになってしまったのが非常に残念でした。映画の解説は先に聞かないことをおすすめします。


大きなカラクリのある物語なので、できれば何も知らずに読む方が、主人公とともに状況を把握していく一人称小説ならではのワクワク感が味わえて、より楽しむことができるでしょう。

しかしカラクリだけに頼る物語ではありません。
秘密を知ったのちの主人公の決断は、現代に生きる我々にこそ多くの示唆を与えるものだと思います。1940年に出版された作品ですが、インターネットの世界が”現実”にとって変わる現代社会にこそ、無視できない主題を扱った作品と言えるでしょう。


『モレルの発明』  アドルフォ・ビオイ・カサーレス

主人公はとある事情によって警察から追われる身となり、打ち捨てられた無人島へと逃げ隠れる。しかし住むもののいないはずの島に建つ”博物館”にある日レコードが鳴り響き、知らぬ間に現れた避暑客たちが、夜な夜なダンスパーティーを繰り広げる。
逃亡中の身のため人前に姿を現すことができず、遠くからパーティー客の様子を伺う主人公だったが、毎日夕日を眺める避暑客の女性に、どうしようもなく惹かれて行く。
しかし、この避暑客たちはどこから現れたのだろうか。


以下、ネタバレです。


避暑客たちがどこから現れたのか、どういう存在なのか、勘の良い読者であれば割りに早い段階でトリックには気がついてしまうかもしれません。行き場を失った”亡霊”たちが地上に降りてきたのか?という予想もあながち間違いではないでしょう。

残念ながら元々ネタバレ状態で読み始めてしまったため、トリックについては驚きを持って読み進めることができませんでした。

しかし最後の主人公の決断については予備知識がなく予想外で、非常に胸を打たれるものがありました。

もう存在しない想い人と一緒になるために、自らも虚像となることを選ぶ。

彼女の心と自分の心が触れ合うことは一生ないけれど、せめて彼女の虚像に自らの虚像を重ねることで、まるで愛し合っている二人であるかのように見える”映像”を残すこと、そして自らがその”映像”自体になってしまうことに、愛と命を賭ける。

ちょっと偏執的で一方通行過ぎる強迫的な愛情で、こういう人に好かれたくないなあと思うのですが、しかし普段私たちが”現実”と呼ぶ、肉体で感じるこの世界を捨て、映像として生きる世界を身を賭して選ぶという決断にある、彼の意思の強さには胸を打たれました。

決して彼の決断が崇高な愛の表現だとか、愛情の純度の高さを表しているとは思いません。そう思ってしまうことはむしろ危険だとさえ思います。ただ、別の世界で生きる選択をする彼の独善的な意思の強さがすごいと思うのです。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読み終えた時にも同じような感動がありました。

よくある物語の設定だと、”現実”からより魅力的な別の世界へ(ある時は夢の中、またある時は映画の中、もしくはファンタジーやインターネットの世界、過去への時間旅行、現実逃避など)、今ここにあるリアルから逸脱したバーチャルな世界へと足を踏み入れた主人公は、冒険を経て、最後はリアルの世界へ戻ってくることが良識とされていると思います。
バーチャルの世界に留まることは逃げであったり、現実を捨ててしまうことは良きこととして描かれません。

しかし本当にそうなのでしょうか?

むしろ違う世界に留まる選択の方が、勇気のいることのように感じることがあります。


リアルに生きるか、バーチャルに生きるか。
ひとが何かを選ぶ時、その選択肢ではなく、選ぶ時の振り切った意思の強さに惹かれます。

『モレルの発明』の主人公の決断にもそのような振り切った強さを感じ、感動しました。

虚像となってフォスティーヌと生きる喜びは、その映像を観察するものがいて初めて存在することができます。観るものがなければフォスティーヌとともに虚像となった彼は存在すらしません。虚像になった彼自身が何を感じるのかも、わかりません。
それに例え虚像となって過去を書き換えたとしても、フォスティーヌと会合することは未来永劫、不可能なのです。
しかし、もうそれ以外には生きる意味も希望もないくらいに思い詰めた彼の独りよがり。その独りよがりの孤独な崇高さに、私はとんでもなく感動しました。天晴れだと思うのです。

近い将来、身体的接触は感染の恐れがある禁忌となり、全ての日常ごとがインターネットの世界で行われ、リアルとバーチャルの価値が反転するかもしれません。肉体は不要となりアバターで生活するようになるかもしれません。全ての行動が記録されるお陰で、過去は思い通りに改ざんできるようになるかもしれません。AIに魂を転写して、肉体から自由になった永遠の命を得ることができるようになるかもしれません。

そんな未来を思うとき、『モレルの発明』は我々に示唆に富んだ問いを投げかけてくれることでしょう。この小説が1940年に書かれたものだということに、改めて驚きます。

”現実”とは一体なんなのでしょうか。
果たして身体的空間に生きる私と、インターネット上に存在するバーチャルな私、どちらの生により価値があるのでしょう。



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