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拝啓、


ひさしぶり、元気ですか。寒くて暑いところに引っ越してきて、もう一年が経ちます。斜め前には和菓子屋があって、朝と夕方には「ひかり号」という幼稚園バスがマンションの前に止まる。ベランダに出ると、朝8時半には幼稚園へ出かける子どもが、わたしに手をふる。行ってらっしゃい、行ってきます。無言の伝言が飛び交う暮らしは、あまりにも日常的で、でも昔見た映画のよう。
ずっと続くのは退屈、でも悪くない、とも思う。

遠く離れた土地できみの活躍を(勝手に)見守ることはさみしくて、すこし羨ましくて。でも、とてつもなくわくわくする。

先日久しぶりに、友人に手紙を書きました。手紙の内容は当人たちだけのもの……なんだけれど、少し内容を変えて、フィクションとノンフィクションをグラデーションにしてみました。手紙をしたためることで、いろいろな言葉が濾過されていく気がします。

そう……わたしたちは、いつもなにかをつくるよね。それはたとえば料理だったり、音楽だったり、絵だったり、写真だったりするわけだ。そしてそれらは、クオリティを問わなければ比較的簡単に作れてしまう。その作品たちの意味ってなに?ってたまに考えてしまうよね。否定したいわけじゃないけど、意味が欲しい瞬間はある。

作品には、力がある。物理的に音を伴わなくても、静かな革命が起こせてしまう。作品が存在している現在の時間、過去の時間、想像の時間、あったかもしれない未来への時間と、そのとき流れていた音たちの交錯によって。

でもつくってしまった瞬間に、誰かの未来も融合されてしまうという可能性を秘めていて、だから儚いのだとも思う。きみの作品を眺めながら、わたしはわたしの時を刻んで、きみの作品をいつまでもわたしの中で新鮮なものにしておきたい、と思ってしまったよ。


わたしたちはなぜ学ぶの?
どうして?なんで?ばかりが会話に並ぶ。
どうしてか。学ぶことは、感じる情報を増やすことに等しいから。

情報は刺激、手に取るまでは形が見えないルーレット。つかめばつかむほどアタリの数は増えるけど、刃のような刺激も多い。情報感度をあげること、感情の感度をあげることはリスキーだってことも、ちゃんと知ってる。

それでも……わたしたちはきっと、これからも貪欲になにかをつくりつづけるよね。その先の刃にやられてしまっても、作品はわたしの中で新鮮なままだから、いつでもあたらしいかたちで、きみに返したい。


だから大丈夫だと、わたしは今日もこうして、言葉で故事付けをしているよ。大丈夫、きみは美しい。

読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。