第3話『自画自嘲』

 まるで空から降ってきたかのように、仄白い輪郭が揺れる。それは一種、花みたいに綺麗で、光風になびくカーテンが雛鳥を庇う。


 始終、その姿に見入っていた。こちらを向かない横顔は、寝起きだろうか。鉛筆で薄く書いたような細い目尻を滲ませて、ぴたっと目蓋が瞬く。
 その動作のひとつひとつが、まるで夢を見ているように遅く、時間を感じさせない。


 細い指先が私の頬に触れていたことにさえ気づかずに、またたきを忘れて息を呑む。
 瞳に入り込んだような透き通ったそれは、くもっていた眼球に光を入れる。
 あまりにも現実身がなさすぎて、私は最初その指が男出のものだということに気が付かなかった。

「「奇麗な目……」」

 漏れ声が、他の誰かのと重なった。遅れて違和感を覚える。
 途端、意識が前のめりに映った。気づけば咄嗟、後ろのめりに仰け反る。いつのまに至近距離まで近づいていたことにどきまぎしながら、そのヒトをみる。

「あっ」

 彼女は切なそうな声を上げた。柔らかな髪がふわりと揺れ動く。骨張った手が離れて、左右に吊られる。瞬間、自分の認識のズレに気づいた。
 少し苦みの効いた男性期の声。エスプレッソみたいなソレは、ガラスじみた容姿とは打って変わり、低い。まだ高み帯びているけれど、それは明らかに異性のものだった。
 加えて、制服のつくりが明らかに違った。
 女性用のブレザーとはちがう、カッチリと折れた襟のワイシャツ。真っ白のくるぶしをのぞかせる黒のズボンはまるで―――。

「……男……?」

 呟いた煩悶は、けれど雑音にかき消された。

 ○  ○  ○


 
 授業の終わりを告げるチャイムで、意識を現実へと引き戻す。朧気だった今日に帰還して、ぱちりと目を瞬いた。

「ミドリ~? なに黄昏れてんの?」

 呼ばれて視線を上げると、アイと千佳が近づいてくる。

「うぇ? あ、うん。なんでもないよ」

「にしては、終始考え中だったぞ? さては昨日の告白―――キュン死したか~っ!?」

「ハハハ、まさか」

「さらりとひどいっ!?」

 つぎ体育だぞ-。すでに着替えを済ませている千佳にうげーと苦い顔を返して肩を諫める。

「………ふうん、じゃあ断ったんだ」

「うん、別にタイプじゃなかったし」

「そっかー」

「まぁ、でも――――」

 あの子は可愛かったかな。
 昨日、告白を断った私に訪れた天罰。3階の美術室からした音。忘れ物がいまだ胸に残留している。
 旧校舎でみた白い影。陽に飾る景色を反射した天色の天使。
 まるで雪結晶を宿したような、淡い眼光。まだ眠りから覚めたばかりの陽に癒着した白い肌。ひどく、庇護欲を与える――少年。
 でも、と被りを振る。内股に座る細く伸びた美脚。ひとつ外れたボタンからうすく覗く、首筋は人形のように精緻だ。
 きょとんっと傾けた首に伝う薄色の髪の毛は肩まで降りて、華奢な肩に乗り上げている。
 明らかに身体のつくりが女性のそれに類似していた。

「……」

 体格だけみればどう見ても女の子。けれどその容貌は明らかに男の子それである。

「あーあ。ミドリからそういう話が聞けるとおもったのになぁ」

「残念でしたー」

 落胆する千佳ににひひと笑い返して、自分も着替えを始める。


 
 ○  ○  ○

 二限目の体育はマラソン。気が乗らなかった私は記録だけ取り終えると、早々にサボって芝生に腰掛けた。

「ふぅー、つかれるつかれる」

「そんなこといってると、ホントに疲れてくるよ」

 同じくサボりの雪音に諫められつつ、グラウンドを眺める。ゴールポストを囲んだトラックに砂埃をまかない程度の凪が過ぎる。
 他のみんなが瑞々しい汗を流しているなか、上から眺めているのは新鮮だ。ゆっくり息を吐くと、空の白さに脱力する。

「めずらしいね」

 サボり魔の雪音が珍しげに首を傾けた。

「なんかめんどうで」

「朝の考えごと?」

「――うん、まあそんな感じ」

「……付き合うの?」

 ユキが仕掛ける。やはり気になる話題なのか。でも、言葉とは裏腹にあまり関心しているようには見えない。

「そんなじゃないよ。ただ……・」

「ただ?」

 口がわずかに空気をついばむ。忘れもしない。最低な言葉とその結果。
 思い出す度にどうしようもなくやるせなくなる。

「ただ――、その子に酷いこと言っちゃった……」

「ひどいことって?」

「好きでもないひとに向けられる好意なんて気持ち悪い――って」

「うっ、それは確かにキツい……」

 告白してきた子を垣間見たようなユキは、キツい顔立ちで乾笑からわらう。
 私も苦笑してみせるが、虚しい作り笑いは空回り。
 自分で言っといて、自分で傷つくなんて。ばかばかしいと視線を落とす。

「――でもよかった」

「……?」

 そんな私をどう感じたのか、雪音はおもむろに呟いた。視線を前に向けたまま、微笑んだ横顔は妙に儚い。
 その顔が唐突に私に向き直った。

「だって、ミドリはちゃんと好きって気持ちがわかるんだね」

 普段みせることのない、澄んだ笑顔が正面から突きつけられる。それは安堵のようで、なんとなく彼女の心が一瞬見え隠れした。

「え、それって――」

「さ、私も走りますか~。お~いチカ~っ!」

 それだけいってユキは走り去っていった。膝まであるズボンと胸の余裕からできる服の靡きが日光で淡く遠ざかっていく。

「……」

 それを見送って、おもむろに胸に手をあてた。
『好き』を知ってる。雪音の一言はすとんっと胸に落ちた。少しだけ、胸の棘が取れた気がする。
 
  ○  ○  ○

 あの後、サボりがバレてしまい、ペナルティとして体育倉庫で用具の後片付けを課せられた。埃くさい体育倉庫は全国共通で扉が重いらしく、開けるのに苦労する。

「よりによって男子のとは……」

 マラソンだったことが災いした。用具もなにも使わないランニングのため、わざわざ片付けをさせるためだけに男子たちの方を任されたのだ。運が悪い。

「もう、ミドリがサボってるからでしょー」

 背後でせっせと用具を片付けるアイの声が不満げに届く。見かねたアイは親切にも手伝いに来てくれた。ちなみに千佳とユキはいない、ヒトデナシめ。

「にしても男子はこんな時期からハードルかぁ。おのれ羽島……」

 涼しげな顔でさきに帰っていった体育教員の名を恨みがしに呼びつつ、黙々と手を動かす。さっさとしなければ、三時限目に間に合わない。

「―――昨日の子、可愛かったね」

 だがそこで、唐突にアイが口を漏らした。咄嗟に、えっ? と口を噤む。はじめそれが誰のことなのか戸惑った。煩悶をほどくようにアイが捕捉する。

「ほら、昨日屋上にいた子」

「え……なんで」

 思考が停止した。途端に、表情が強ばる。

「あ、いや、別に他意はないよ? でも、ミドリもついに女の子に告白されるようになったかって思うと、なんだかなぁ~って」

 冗談っぽくうんうんと首を縦に振るアイの声が、突如薄れていく。頭の情報が一気に流れ出て、空っぽになった。
 見られた。
 寒い。指先が冷たくなっていた。体がすっと冷え切るように、体温を感じられない。 
 素早く表情を繕える。厚い能面を被って本心を零さないように、神経が加速する。

「さすがに女の子はね~。悪いけど恋愛対象としてはみれないかなぁ……」
 嘘だ。ちくりちくりと冷たい針が胸に刺さっていく。胸を焦がすそれは、流血のように針を伝って背中から熱を出す。電気を走らせるかのように痛い。

「まあそうだよね。でも新鮮だったんじゃない? 同性から告白されるっていうのも」

「もうっ、からかわないでよ。アイはどうなの? 好きな人できた?」

「ふっふん! 私にだっているよ、好きな人くらい」

 心の歯車が油を差したように高速で回る。背筋を伝う悪寒。冷や汗に頬が凍った。恐怖とか驚愕とか、そんな感情をぐちゃ混ぜにし胃が沸騰する。

 だって、気持ち悪いじゃん。

 あの言葉をアイは聞いていただろうか。
 もし聞かれていたとしたら、私は――。
 途端に肩が震えだした。すうっと血の気が退いたようになる。その後は何も頭に入らなくなった。三時限目が過ぎた後も変わらず、あまつさえご飯も喉を通らなくなった。

「ミドリ、大丈夫?」

「具合悪いなら保健室いこ?」

 千佳や雪音が心配そうな声音で覗き込んでくる。でもいまの私にそれは毒だった。

「ミドリ?」

 アイが尋常ではない私の挙動を不安げに仰ぐ。その目が怖い。黒水晶のどこまで深い闇に溺れそうな濃い黒。反射した自分が滑稽に見えて、心のなかで嘲笑う。
 アイが何か言い出すたびにびくついて、気が気でならなかった。 
 あせってあせって。あせって。どうにもならなくなって。頭の中に浮かんでいたのはただ誤魔化し。


 私は普通でありたいの、そのためならなんでもする。
 異常は悪だ。異分子に居場所なんてない。
 拒悪。その言葉が頭を満たす。
 限界を感じて、逃げ出すように教室を離れた。行く当てなんてない。でも、逃げなきゃ。止まる気にもなれずにがむしゃらに腕を動かす。


 校舎を抜け、木々をくぐり、茂みを幾重にもかき分ける。無駄な広さを誇ることが幸いして、出来るか限り遠くを目指す。
 そうして結局、見慣れた古い造に辿り着く。旧校舎。もう何度目となく脚を運んだそこを土足で駆け抜ける。
 階段を早足で駆け上がり、文字の薄れた扉の前に立つ。

「美術室の幽霊……」

 荒い息で肩を上下させて、振り乱した髪をそのままに開けひらく。
 がららんっとスムーズに開いた扉の奥から、見覚えのあるシルエットが羽ばたく。昨日の男子生徒。
 なにかしらの作業をしていたのか、キャンバスを睨むその瞳がこちらに向く。

「なんだまた来たの。あんまり頻繁にこられるとこっちも迷惑―――」

 男子生徒が文句を言い放つを余所に、ずんずんとその影に忍び寄って。胸ぐらを掴んだ。女子の私でもひょいと持ち上がる華奢な顔立ちに、息を吸い込む。
 そして堂々と言い放つ。

「私と付き合って」

 名前も知らぬ君に送る、最初のラブコール。突然のことに前後の意味を噛み込めないでいる少年は、きょとんと首をかたむける。

「――はい?」


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