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超恐妻家!? 優秀な実業家!? 伊能忠敬の意外の過去に迫る!【4/19は地図の日】

本日4月19日は、地図の日です。またの呼び名を「最初の一歩の日」とも言います。
その理由は、1800(寛政12)年の今日、伊能忠敬(いのう・ただたか)が蝦夷地(現在の北海道)の測量に出発した日だからです。

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歴史の授業で必ず習うこの伊能忠敬という人物、どういう人だったのか、簡単におさらいしてみましょう。

日本地図の基礎を築く

伊能忠敬は、近代的日本地図作成の基礎を築いた人物として有名です。
上総国(現在の千葉県南部)出身の商人で、そこで造り酒屋を営んでいましたが、50歳で家督を長男に譲ったあと、江戸へ出て深川に住みながら測量・天文観測などを学びました。そこで「緯度一」の測定や地球の大きさの確定に取り組みました。
折しも当時はロシアの進出によって防衛問題が切迫しており、忠敬は蝦夷の地図作りを行いたいと、師の高橋至時を通じて幕府に進言します。そして忠敬の才能が認められ、蝦夷の測量を皮切りに、その後17年間にもわたって各地を測量をして歩くのです。
55歳で出発した忠敬が測量を終えたのは72歳でした。これほど高齢になっても事業を継続するとは、並大抵の執念ではありませんね。(深川・富岡八幡宮にある忠敬像 高齢になった姿ですね▼)

800px-伊能忠敬像

忠敬の測量によって作成された地図は、その名を『大日本沿海輿地全図』といいます。忠敬がその制作の中心となったことから「伊能図」とも言われます。
日本全土の実測地図であるこの地図は、現代の日本地図と照らし合わせてもほとんど違いはなく、当時はその精度に世界中が驚きました。題名に書かれている「輿地(よち)」とは大地や地球、全世界のことです。

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実際に地図が完成したのは忠敬が没したあとの1821(文政4)年です。
縮尺432000分の1の小図、216000分の1の中図、36000分の1の大図があり、小図は3枚、中図は8枚、大図は214枚となっています。ほかにも特別小図、特別大図、特別地域図などもありました。

神童と称された幼少期

忠敬の活躍は、50歳以降が有名ですが、じつはその前にも、才能を如何なく発揮していました。

 忠敬は1745(延享2)年に上総小関村の漁師の子として生まれました。幼名は三治郎といいました。
幼い頃から数学が大好きで、その計算能力は頭抜けており、神童との評判が高かったと伝わります。13歳のときには、常陸国の某寺の僧に数学を学ぶと、約半年で師である僧を凌いでしまい、教えることがなくなった僧は、もっと数学に長けている師を紹介したという逸話も残っているほどです。

 三治郎の神童ぶりは評判になり、彼は18歳で下総国佐原村(現在の千葉県香取市佐原)の伊能家に婿養子として迎えられました。
伊能家は大地主であり、酒造・米穀取引などを扱う商家でもありました。計算が日常の家であるため、その数学的才能が見込まれたのです。貧しい漁師の家の子が、一躍地元の老舗の若旦那に抜擢されたのですから、三治郎にとってはまさに大出世。忠敬という新しい名ももらい、しあわせな暮らしを夢見て伊能家に入ります。(▼伊能家旧宅@佐原)

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しかし、この伊能家での結婚生活は、決してしあわせとは言えませんでした。

結婚したのは怖~い妻

当時の婿養子とは、家督を継ぎますが妻の実家で暮らしているため、肩身が狭いものでした。ただ、忠敬はその才能で抜擢されたようなものなので、とくに問題はなかったでしょう。しかし、妻のほうに問題がありました。

忠敬と結婚とした妻は、じつはものすごい性格をした女性で、忠敬を尻に敷くばかりか、まるで自分の下僕かのように扱ったというのです。
忠敬は、下女たちと一緒に厨で食事をとらされました。また、勉強好きの忠敬が仕事の後で本を読もうとすると、妻に行燈の灯を消され、「本を読むことが好きな婿など、当家にはいらない! 祖父も前の夫も書が好きだったから伊能家は傾いたのだ。以後、書を開くような真似をしたら容赦しないっ!」と叱られたとも伝わります。

嫁姑ならこんな逸話をたまに耳にしましたが、実の妻からこれほどまでに陰険ないびりをされるとは珍しいですね。

実業で才能を発揮

妻にいびられる日々を送るはめになった忠武ですが、それでも文句ひとつ言わずにひたすら働きました。そして実業家としての才能を次々に発揮し、大きな成果を出すことになります。

忠敬は、本業の酒造りに精を出す一方、江戸に薪炭問屋を開き、金融業を始めました。米の収穫をきちんと管理して、余った年貢米は農家に貸し、質として土地を受け取ることもしました。

さらに凶作のときに備えて、上方から米を購入していました。そして実際に関東一円が凶作となれば、上方から買いつけた米を江戸市場に回して利益を得ました。関東が凶作でも、上方では違います。数字に強いというだけでなく、気象などの自然にも精通していたのですね。

また1783(天明3)年に浅間山が噴火したときや、利根川が氾濫したときなど、田畑がだめになって困窮している農民の救済に奔走しました。そして同年、旗本の津田氏から苗字帯刀を許されました。実業家としての利益だけでなく、地位と名誉も獲得したのです。(▼佐原公園の忠敬像 帯刀しています)

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こうした忠敬の才覚によって、傾きかけていた伊能家は立て直され、その後大いに発展していきました。妻にいびられながらも、ここまで伊能家のために頑張るとは、有能すぎる人材です。


忠敬の功績は測量ばかりが知られていますが、その数学的才能と実務能力は、測量をはじめる前の実業家時代にも、如何なく発揮されていたのでした。ほかにも祭礼騒動河岸一件、さらに村の名主になって地方自治を担うなど多彩な活躍をしていますので、気になった方は図書館などで調べてくださいね。

もっと頑張らなければ、という気持ちにさせてくれますね。


参考資料:

『伊能忠敬 日本地図に賭けた人生』川村優(東京書店)
『図説 伊能忠敬の地図をよむ』渡辺一郎(河出書房新社)
『世界に誇れる仰天の日本史』後藤寿一(コスミック出版)

Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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