noteの「キレイさ」について

この星野茂樹 氏のエントリにあるように、noteはときに漂白されているようにみえる。そこでnoteのコンテストや募集中のお題をみると、……たしかに無難なものが多いのである。たとえば:

「ヨーグルトのある食卓」「私のハンドメイドストーリー」:プチ市民的なお題である。

「旅とわたし」:旅をする余裕のある人や読者向けのお題である。

「ニュースで語る」:時事的な問題ということだが、政治論争や議論をやってほしい……というわけではなさそうだなあ。戦争について考える、とか選挙について考える、年金問題、みたいな具体的な個別タグは皆無。

などなど、などなど お題をみるかぎり、暗い話題、深刻な話題を真正面から議論しようという雰囲気は薄い。やれないことはないが、初期値としては誘導されていないかんじ。

すなわち憶測するなら、noteの想定しターゲットとする読者層と執筆者層は、あるていど生活や仕事が確立された社会層であり、ビジネスマン向けの自己啓発コンテンツや、元気の出るような記事が想定されている……ということなのかもしれない。緩和コンテンツ。「善人のための」よみもの?

しかし中間層がほぼ解体され尽くされている現在、そういった読者層が、はかなく雲散霧消してしまう危険性、けっこうさし迫っているような気もする。

衣食住足りてなんとやら、「意識高い系」は食わねど高楊枝ができるだろうか。できなくなったら、そのときnoteはどうなるんだろう。

そんなことはちょっと気になるけど、自分としてはシビアな状況があっても読むにたえる文章やコンテンツを作ってゆきたいものです。それは使命感なんてものではなく、自分のこだわりでしかありませんが……

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