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「怪物」

せっかくの週末。いつものように引きこもっているのも嫌だなと思い、映画館に行った。
知人がTwitterでレビューしていた、「怪物」。

予告編の映像をかなり前にYouTubeで見かけて気になっていたというのも僕の背中を押した一因でもある。

僕のnoteはいつもオチを考えずフラフラして不時着するというのが定番なので、
今回はちゃんとオチを前もって決めておこうと思う。

この映画を見たほやほやの感想としては、
”怪物”というラベリングはとても便利なものだなぁ
というもの。

うん、なんかごめんな。
これを読んでいるあなたが何を言いたいのかわかる、とまではいかないけどめんどくさって思っているんだろうなと推察しちゃった。

もう公開から1週間くらい経っているから、あらゆる媒体でこの映画の感想文がそれなりにあると思うから、この記事ではいちからストーリーについて整理しながら要所要所考察していくなんていう手法は取らない。(シンプルにめんどくさいから。そういうコンテンツすでにあるし。)
だから、ネトフリやアマプラなどで2倍速でコンテンツを消費する人や、いち早く流行に乗らねばと意気込んでいる人は今すぐこんな記事から離脱して、ググってみればいい。

感想を書きやすくするためにちょこっとそれっぽく書くけど、
この映画の見どころは構成が分かれているところ。
同じ時系列を大きく3つの視点で描かれている。(湊の母・保利先生・湊

要は、それぞれの視点で同じ現象を捉えようとするとこんなにも食い違いが起こって、それらが及ぼす影響ってこう見えるよね。というのを直感的にわかるようになっている構成になっていたんだ。

これに関しては、朝井リョウさんの「桐島部活やめるってよ」みたいだなぁって思った。
ちなみに僕が小学校3年生くらいに初めてお父さんと二人きりで見に行った映画だった。(その後コンビニ寄ってもらって、小説買ってもらった。小説版がめちゃくちゃ面白かったのを小学三年生のマセガキが覚えていた。)

3つの視点がどうなっているのかというところは、ぜひ映画館に足を運んでみてほしい。
というか、ここでそれらに触れてもよくわからないと思うし。
あ、でもストーリー展開だけ知っておけばお酒の席で語れてインテリぶれると思っている輩もいるんだった。そいつはググれ。
映画の鑑賞っていうのはもうちょっと奥深いものだと個人的には感じてるのと、映画にお金を落とせという気合がある人なもので、
ぜひ映画館行ってほしい。


前置きだいぶ長くなってしまったのだけども、
ここから、
「”怪物”というラベリングはとても便利なものだなぁ」
に繋がるように少し整理していきたいと思う。
夜露死苦!!!

なぜ「怪物」というタイトル?

タイトルを期待して、大野智さんが友情出演するんじゃないか?
という淡い期待を密かに抱きながら映画館に行くまでの電車の中を過ごしていた自分がいた。

んなことはないんだけど、このタイトルってなんなのか。
ちょこっと考えちゃったんですよね。
何が”怪物”なのか。

てか、そもそも私たちは普段の生活の中で、”怪物”という認識をする瞬間ってあるのだろうか。
あるとしたら、その対象はなんなのか。
ここら辺から考えたいですよね。
あなたは、どうです?

個人的には、元サッカー少年なものですから、元祖ロナウドや森本貴幸選手とかを形容するときに使ったりしますけど、それもメディアのバイアス表現なので、
日常の中で使うっていうのはないんですよね。

だからタイトルの“怪物”って一体何を示したいんだろうって思いません?

加えて、HPだったり予告編見ればわかるんですが、
「怪物だーれだ」っていうキャッチフレーズなんだよねこの映画。
え、人的なものなんかい!?ってなるよね。
まさかのホラー映画なんかい!?というツッコミもありうる。

この映画を見て、「”怪物”ってこういうことなのでは?」という話は次の項で考えていくとして(ここでちゃんと読者を引っ張るというテクニックを出していく。。。)、

作品内では、
湊と星川くんが一緒に遊んでいるシーンの中に
「怪物誰だゲーム」というのがあった。
このゲーム固有名詞はわからないけど、なんか僕も小さいころ同じようなのやってた気がする。
カードを引いてそのカードを自分のおでこの上に持っていく。自分は見えないけど相手はおでこの上のカードが見える。それは逆も然り。自分は相手のおでこのカードは見える。
それでお互い相手のカードのイラストの特徴を言っていく。それを当てれるかというゲーム。
なんかやったことない?こういうの。

作品内で”怪物”という表現があったのはこのシーンと、星川くんのお父さんのセリフのみ。星川くんっていうキャラクターがものすごくいいのでこれは少し後で書いていく。

タイトルは、この「怪物誰だゲーム」から来ているのか?
僕はそう思う。
んで、ここからが考察になっていくんだけど、このゲームから取ったタイトルだとすると、この映画のメッセージが鮮明になってくる。
もう少しばかりお付き合い願いたい。


もう一度「怪物誰だゲーム」を説明する。
これは、相手が引いたカードの特徴を相手に伝えて相手がそれを当てれるか否かというゲーム。
加えて自分がちゃんと自分の引いたカードを当てれるか否か。
この構造がすごく映画の構造に似ているの。
というか、我々の日常がこうなっているの。

よく日本の巷でいうよね。
「ひとは鏡」。
自分の行いを是正しなさいという意味が暗示されている言葉。
自分の振る舞いの影響を測るためには、他者の視点を持ちなさい的なニュアンスかな。

あと、
自分の振る舞いや言動って自分でコントロールしている気になっているけど、近くの友人や職場の人、家族、それぞれ自分が属しているコミュニティの人からしたら、自分の特徴って一致していないことが多いよね。
友人から見えている”自分”、
職場の人から見えている”自分”、
家族から見えている”自分”、
意見を聞いてみたら、違ってみえるらしいっていうのに気づくと思う。

そんでさ、
知人or友人から、「就活のための”自己診断”のためにさ、私ってどういう人か教えてくんない?」みたいな連絡来たことない?
そん時にその場で言わないけど、ボロカスな意見とか、ポジティブな意見とか色々思い浮かぶよね。
自分ってどんな人なんだ?って考えてみてもなあんにも出てこないのに、他者について考えるととんでもなく頭が冴えるみたいな。

この映画も、3つの視点それぞれ情報がバラバラなんだよね。
湊の母が得た情報、
保利先生が得た情報と得たかったのに得れなかったが故の思い込み、
湊と星川くんだけの情報、

これらがバラバラなのに、時系列は繋がっている。
だからこそ、様々な問題が生じていく。

そういう映画なんだけど、
これって日常じゃんか。
僕らは常に自分の一人称視点で目まぐるしい情報を処理しながら生活しているよね。
大好きなアイドルをうらやましがる人がいる一方、対象となるアイドル自身は大変な苦労を抱えている。(「推しの子」参照)
片想いだってそうだよね。

僕らは「語れるもの」で色々考えたり、コミュニケーション取ったり、仕事したりしているけど、
それって同時に「語れないもの」がすぐ近くにあるということなんだよ。

もう一度「怪物誰だゲーム」に戻ってみよう。
他者のことは語れるけど、自分のことは語れない。
だって”見えない”から。
じゃあ、どうすればいいのか?
目の前の人に語ってもらえばいいんだ。それが対話であり、コミュニケーションである。

僕はこの映画のメッセージは、
見えないものは語れるもので埋め合わせて考えるしかなくて、それが故に同じ時系列で見たらちぐはぐだらけになってしまう。
だけど、それを1つ突破する手段が、目の前の人に自分の見えないものを語ってもらう。
そういうコミュニケーションが大事なのではないか。

かなり誇大解釈だとは思うが、まぁ考察なんで。好きなようにさせていただきやす。

タイトルとキャッチフレーズを見ると、
「怪物探し」をしちゃうんだけど、その先にこのようなメッセージがあるんじゃないかと思ったんだよね。
そりゃタイトル「怪物」になるわ。

ちゃんちゃん。。

私は”人間”?それとも”怪物”?

ちゃんちゃん。。
と丁寧に書いたものの、星川くんのついて後で書くねとか書いていたり、
「”怪物”ってこういうことなのでは?」という話をしてないことに気づいてしまった。
あぁ。多分ここまで長く読んでくれている人はいないと思うけど、備忘録的な目的に線路変更ということでつらつらと書いていく。


作品内で印象に残ったセリフがある。
湊の母が抜け殻と化した校長先生に放ったセリフである。
「あなたは”人間”ですか?」

湊の母は続けて、
「人間だったら人の気持ちが理解できるでしょ!」というようなセリフを言っていた。
それを受けて鑑賞中の僕は、
「おぉ!Theory of Mindだぁ。でもこの人たちはそれがあるから恐らく抜け殻を演じているんだと思うよ!」ということを考えていたのだが、これが映画館ではなく自宅だったらものすごい勢いで呟いてしまっていたと思う。

うん、このような人間観っていうのは割と一般的なのではないだろうか。(僕はこういうことを色んなオトナの方々に言われてきたので。そう思っている。)
確かにさ、”人間”って何なのかっていう問いに対してそういう説明をするのは一定の合理性があるとは思うんだけど、
じゃ、そういう振る舞いが出来ない人は人間じゃないのだろうか。とかとか、あるのでかなり多面的な定義が必要っていうのを理解するのは簡単だと思うんだ。

というのは、本筋からズレそうだから置いておいて、
じゃ、”人間”じゃなかったら何なのだろうか。
”怪物”って何をもってそう言えるのだろうか。

もっと細かくすると、
私が”怪物”じゃないっていうのをどう証明すればいいのだろうか。

この問いを真剣に考えると色んな知見を参照しながらになるし、そんなことやってたらせっかくここまで読んでくれているレアキャラのあなたを失望させてしまう可能性が高いと推察して、割愛する。

少し前の項の話を引用して考えてみるね。
「怪物誰だゲーム」の構造っていうのは、自己って相対的にしか認識出来ないよねっていうことを教えてくれているんじゃなかろうかというような話をしてた。(ちょっとまとめすぎたかな。ごめんよ。)

つまりだ。
仮に”怪物”という定義が自分のなかではっきりしていたとて、それを理由に自分は”怪物”じゃないと主張していたとて、
あなたを見る他者が”怪物”だと認識したら、あなたはその人からしたら”怪物”なの。
目の前の人にコミュニケーションを取って、その人からの”怪物”という認識が変わったとて、
さらに別の人が”怪物”だと認識したら、あなたはその人からしたら”怪物”なの。

ここからが議論としては楽しいんだけれど、一旦止めとく。
もし興味ある人はコメントでも、アンサー記事でもなんでもいいから絡んできてもいいっす。👍

この映画を見た人のなかで、
「こいつが怪物だろ。」と思うキャラクターを挙げれると思う。
いいんだけども、この映画のメッセージは誰が怪物なのかを当ててくださいというものじゃない。
誰が”怪物”じゃないのか証明することの複雑さを示していると思うんだ。
だから、私は”人間”なのか、”怪物”なのか。
その問いは、「怪物誰だゲーム」というプロセスの先にあるのかもしれない。



おわりに

大変長くなりました。
ちゃんと読んでくださったあなた。
とりあえずここまで来ちゃったあなた。
全然いいよ👍
ありがと。

よし、感想の結論である、
”怪物”というラベリングはとても便利なものだなぁ
に繋げて終わってやる!!!

「怪物誰だゲーム」の構造がすごく僕らの日常を表しているという話。
自分が何なのかっていうのは相対的だよねという話。
この2つをこんなだだっ広く書いてきたんだよね。
ねー、ほんとさいあくだよねー。ねー。
めんどくさい男だよねこいつねー。

という意見も受け流して生きてきましたが、
この2つの話からの結論。
”怪物”っていう形容は、「恐れ」の念があるんじゃないかと思っている。
それは”見えない”から、故に”知らない”からというのが関係していると思う。
だから、”怪物”というラベルを付けて遠ざけちゃう。
そうすれば自分の語れるもの、自分の見たいように見える世界であり続けられるから。
そりゃ最高だよね。ラクだよね。

でもそんな世界って単純じゃないらしいんだよね。
この映画みたく、たった3つの視点を切り取っただけでも、こんなにもちぐはぐになっちゃうんだもん。
僕らの世界って一体どうなっているんだろうね。

僕が普段思索しているテーマがある。
色々細かくテーマあるんだけど、出発点としては「Meta Cognitive」。
これについていろいろ勉強したり、考えたり、人間観察したりしている日々を送っている。
だから僕は凄くこの映画が好きなの。
普段からいろんなチャンネルを意識しながら目の前の現象だったり、自分の思いや考え、バイアスと向き合おうという気合で生きているから。
凄く良い映画だなと思っちゃったの。

だから、見てほしい。
一緒に考えていきたいなって思ってる。
映画の細かいシーンの話とかしたいよ。けど、僕がコアに考えているテーマにストレートだったから、その話を中心に書いてみた。

カオスってほんと大変なんだけど、
そこが出発点であるが故の楽しさというか、ワクワク感があるんだよね。
ラベリングすれば便利だけどさ、もっとその奥の複雑性を考慮できるように一緒に頑張ろ。
事細かくじゃなくていい、自分の範疇でいい。
目の前の世界はもっと複雑で、もっと素敵なはずだから。



星川くんは虐待を受けている。
セリフや立ち振る舞いからして、多分巷で話題の発達障害系の子だろうと思う。
僕はそういう人たちと接する機会が多かったりするから、なんかニヤニヤしちゃった。
別に変な意味とかなくて、純粋にそういう演出や脚本を作ってくれてありがたいなと思ったが故のニヤニヤ。
リアルなキャラクターを描いてくれてありがとう。

あと、役の人の演技が素晴らしすぎた。
ほんとすごいから、ぜひ映画見てみて。



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