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村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』と満洲・モンゴル・シベリア②【高校日本史を学び直しながら文学を読む13】

 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』第3部では,赤坂ナツメグと赤坂シナモンを名のる親子が,重要な登場人物となります。第3部10章では,ナツメグによって満洲の新京動物園の記憶が再現されていきます。それは1945年8月の記憶であり,「満洲国」の崩壊は目前に迫っていました。本文を少し引用します。

  誰もがそのことを承知していた。関東軍の参
  謀たち自身がいちばんよく承知していた。だ
  から彼らは主力部隊を後方に撤退させ,国境
  付近にいた守備部隊や開拓農民たちを事実上
  見殺しにした。非武装農民たちの多くは先を
  急ぐ―つまり捕虜を抱えている余裕のない―
  ソ連軍の手で惨殺された。女性たちの大半は
  暴行されるよりは集団自決の道を選んだり,
  あるいは選ばされることになった。国境近く
  の守備隊は彼らが「永久要塞」と名付けたコ
  ンクリートの城にこもって激しく抗戦したが
  後方からの支援はなく,圧倒的な火力を受け
  てほとんどの部隊がそこで全滅した。

 このような状況下で,ソ連の部隊が来る直前に,新京動物園で人間を襲う可能性のある動物たちを日本の兵隊たちが射殺していったという記憶が語られていきます。その動物園で主任獣医をしていたのが赤坂ナツメグの父親でした。動物たちは本来であれば毒薬を用いて「処分」されるはずでしたが,動物園が所持している毒薬が少量であったため,射殺が選択され,主任獣医が銃殺隊に付き添うことになりました。

  彼らは豹を殺し,狼たちを殺し,熊を殺し
  た。その巨大な二匹の熊を射殺するのに一
  番手間がかかった。熊たちは数十発の小銃
  弾を撃ち込まれながら,それでもなお檻に
  激しく体当たりし,兵隊たちに向かって歯
  をむき出し,唾を散らして咆哮した。熊た
  ちは,どちらかといえばあきらめのいい
  (少なくともはた目にはそう見える)猫科
  の動物たちとは違って,自分たちが今こう
  して殺されつつあるという事実が,どうし
  てもうまく納得できないようだった。おそ
  らくそのせいで,彼らが生命という名で呼
  ばれている暫定的な状況に最終的に別れを
  告げるまでに,必要以上に長い時間がかか
  った。ようやく熊の息の根をとめてしまう
  と,兵隊たちはその場にへたりこみたくな
  るくらいぐったりと疲れてしまった。

 さらに,日本兵たちは中国人の脱走兵を銃剣で刺殺し,獣医はここでも付き添いをさせられます。日本兵の指揮をしている若い中尉は,「これ以上死体の数を増やしたところで意味はありません。しかし命令は命令です。私は軍人として,そんな命令にも従わなくてはならない。虎や豹を殺したように,今日はこの連中を殺さなくてはならない」と語ります。そこには,人間らしい個性が消失し,思考が停止したような軍人の姿が描かれています。


 満洲への移民は,広田弘毅内閣のときに,20年間で100万戸の移民計画がたてられました。計画通りにはいきませんでしたが,日中戦争開始後には組織的に開拓団が結成されます。入植地の多くは,中国農民の抵抗を排して強制的に買い上げた土地でした。移民の数は,特別な訓練を受けていた満蒙開拓青少年義勇軍をあわせると30万人をこえています。満蒙開拓青少年義勇軍とは,16歳から19歳の少年を全国から集め,国内の訓練所で数カ月,満洲の訓練所で約3年間の訓練を実施した後で,現地に永住する開拓農業者となることをめざしていました。義勇軍の募集は,各道府県の教育会が小学校や在郷軍人会の協力を得ながら,熱心な募集活動を展開していきます。長野県は,全県的教育職能団体「信濃教育会」が皇国思想にもとづく海外発展を精力的に推進していたこともあって移民数が全国最多であり,村民の約半数が移住した長野県大日向村の移民は,満洲大日向村を建設しています。
 満洲開拓移民の募集には「王道楽土」や「五族協和」などをスローガンに喧伝したキャンペーンが大々的に行われており,まちがいなく国策として満洲移民が実施されていました。「五族」とは,日本人・蒙古(モンゴル)人・満洲人・朝鮮人・漢人をさしていましたが,「協和」ではなく,実際には日本人が優位に立ち,政策も関東軍司令官をはじめとする日本人が決定していました。
 国策で移民を推進したにもかかわらず,関東軍は開拓民たちを置き去りにしました。後に関東軍参謀らは,作戦上やむをえないことであったと弁明しますが,民間人を大切に考えていれば開戦前に避難させることは不可能ではなかったはずです。これまで大本営,政府,天皇への連絡をせずに行動することがあった関東軍が,ここで大本営に責任転嫁するというのは,潔く責任をとる姿勢の対極にあるような浅ましさを感じます。しかし,僕はここで関東軍のみを責めることには反対です。そもそも日本政府が推進した満洲移民がどのようなものであったのか,そして満洲を棄ててもよいと関東軍に解釈されるような命令を出した大本営にも大きな責任があるはずです。
 絶対に忘れてはならないのは,ソ連軍の行為です。非戦闘員を保護するどころか無差別に殺し,略奪・強姦などの非人道的行為が多発しました。「日本軍も満洲で加害行為をしているじゃないか」と言う人もいるかもしれませんが,相対化によってソ連軍の加害が免責されるわけではありません。南京事件での日本軍の行為が,相対化によって免責されないことと同様に,ここではまずしっかりソ連軍の加害の歴史があったことを認識すべきだと思います。もちろん,ソ連の非人道的行為を責めることで,関東軍や大本営の行為が免責されるわけではありません。

 関東軍に置き去りにされた満蒙開拓団などの在留邦人の逃避行は困難を極めました。肉親と離ればなれになった子どもや,死別して身寄りがなくなった子ども(中国残留孤児)が中国人の養子となることがありました。また,帰国できなかった女性(中国残留婦人)が,中国人と結婚し,戦後も中国で暮らすこともありました。
 
 ソ連に逮捕された日本人は,ソ連とモンゴルの各地で収容所(ラーゲリ)や監獄に収容されました。「シベリア抑留」という言葉で知られていますが,移送先は,極東,シベリア,中央アジアを中心に2000カ所以上といわれる収容所に散らばっていたので,用語をシベリアに限定するのはよくないかもしれません。収容された日本人の大部分は軍人でしたが,「満洲国」官吏,国策会社の幹部や役職員も含まれ,その数は日本政府の調べでは60万人弱にのぼりました。
 ソ連は,独ソ戦を経験しています。ドイツが遂行しようとした対ソ戦争は,講和で終結するような戦争を想定しておらず,敵の生命を徹底的に奪う絶滅戦争でした。そのため,ジェノサイド,収奪,捕虜虐殺が繰り広げられています。1939年段階でのソ連の人口は1億8879万3000人とされていますが,第二次世界大戦で戦闘員・民間人を含め2700万人近い国民を失ったと言われています。国土が荒廃し,国民経済を復興させたくても,そのために必要な労働力が不足していました。そこで捕虜が労働力に転用されたのです。ヨーロッパ戦争終了後はドイツ軍兵士が,その後はソ連に逮捕された日本軍兵士が各地の収容所へ送られました。
 ソ連側と日本側の資料から,70万人以上の日本人が抑留され,およそ10万人が死亡したと推定されています。鉄道建設や炭坑・鉱山などでの強制労働を強いられていましたが,ここまで死亡率が高いのは労働の内容以外にも原因があります。シベリアでは,重労働,飢餓,酷寒の「三重苦」があったと言われています。戦争によりソ連が荒廃していたため,ソ連国民には飢えに苦しむ人が大勢いました。そのため,抑留者にはわずかな食糧しか与えられません。しかし,労働力不足が原因で抑留しているので,とにかく働かせようとします。ノルマ制が導入されていたこともあり,重労働に耐えられない病弱な者は食べ物を減らされ,どんどん衰弱していきました。また,抑留当初の1945年から46年にかけての冬は厳しく,日本人がすぐに適応できる温度ではなく,抑留中の死亡者のおよそ8割がこの時期に集中しています。
 衛生環境も劣悪で,ノミやシラミに悩まされ,赤痢やコレラなどの伝染病によって,多くの犠牲者が出ました。
 抑留者には思想教育も行われました。日本兵向けに「日本新聞」がつくられ,共産主義の宣伝や天皇制批判などが掲載され,ソ連の共産党の考え方を植えつけようとしました。
 日本人同士によるリンチ殺人もありました。ロシア人と親しくしてうまくやろうとするような日本人がいれば,人々は疑いあったり,恐怖を抱いたり,憎しみあったりしました。リンチ殺人は「暁に祈る」という言葉で知られています。つるし上げられた人が,朝まで酷寒の中で縛り付けられ,凍死します。凍死している人が,太陽に首を垂れて拝むような姿にみえたことから,「暁に祈る」という言葉で呼ばれたようです。
 日本兵は戦時捕虜なので,生き延びればいつかは祖国に戻ることができるという唯一の希望がありました。そこにつけこんで,ことあるごとに「ダモイ(帰国)」という言葉をロシア人が使い,過酷な労働に耐えさせようとしましたが,実際にはなかなか祖国に戻ることができず,日本人のソ連に対する不信感が増していきました。1950年までに多くの人々が引揚げ,ソ連との国交が回復する1956年までにほとんどが帰国しましたが,行方不明者も少なくありませんでした。


 『ねじまき鳥クロニクル』第1部でノモンハン戦争直前の出来事について語った間宮中尉は,第3部でシベリア抑留について語ります。
 間宮中尉はソ連軍の戦車のキャタピラで左腕を失いますが,意識不明になっているときにロシア語でうわごとを言ったことから,捕虜として従事させる日本兵とソ連側の通訳となることを期待され,手厚い治療を受けて一命をとりとめました。炭坑で毎日のように人々が死んでいく様子をみながら,地獄のような環境で過ごしていた間宮中尉は,あるとき,かつてハルハ河の対岸でモンゴル人に山本の皮を剥がせたロシア人将校に出会います。そのロシア人は「皮剥ぎボリス」と呼ばれていました。ボリスはスターリン体制を支えるベリヤの懐刀として活躍していたものの,共産党幹部の甥を拷問の末に殺してしまい,その人物が無実であったことが判明したことから解任され,シベリアの収容所に送られて強制労働に就くことになっていました。しかし,ベリヤは1年のうちにボリスをもとの地位に戻すと言ったと噂されているため,誰もがボリスに対して腫れ物にさわるようになり,お客様扱いとなっていました。ボリスは綿密な計算のもと,徐々に収容所で支配体制を築いていきました。そのボリスが間宮中尉を秘書として用いるようになります。ボリスが自らの権力観・処世術のようなものを間宮中尉に語る部分を以下に引用します。

  我等がレーニンはマルクスの理屈の中から自
  分に理解できる部分だけを都合よく持ち出
  し,我等がスターリンはレーニンの理屈の中
  から自分に理解できる部分だけを―それはひ
  どく少ない量だったが―都合よく持ち出し
  た。そしてこの国ではな,理解できる範囲が
  狭い奴ほど大きな権力が握れるようになって
  いるんだ。それは狭ければ狭いほどいいん
  だ。いいかマミヤ中尉,この国で生き残る手
  段はひとつしかない。それは何かを想像しな
  いことだ。想像するロシア人は必ず破滅す
  る。私はもちろん想像なんかしないね。私の
  仕事はほかの人々に想像させることだ。それ
  が私の飯のたねだ。そのことは君もよく覚え
  ておくといい。

 間宮中尉はボリスに心から服従したのではなく,ボリスに近づき,殺害する機会をうかがっていました。しかし,ボリスはそのことを察知していました。ボリスは間宮中尉に弾丸2個を放り投げ,撃つ機会を与えますが,間宮中尉はボリスに弾丸を命中させることはできませんでした。「気の毒だが君は私の呪いを抱えて故郷に戻ることになる」とボリスから言われ,間宮中尉はその翌週には収容所を出て,日本に向かうことになりました。

 村上春樹は,『ねじまき鳥クロニクル』執筆後に雑誌「マルコポーロ」の企画でノモンハン戦争の地を訪れ,その文章は後に『辺境・近境』(新潮社)に収められることになります。「ずっと昔,小学生の頃に歴史の本の中で,ノモンハン戦争の写真を目にしたことがあった。」という文から始まり,中国とモンゴルでの旅の様子が記されています。チョイバルサンの町のホテルで真夜中に自分自身の震えによって目を覚まし,夜明けまで眠れなかったという恐怖体験を記した後で,最後に村上春樹は以下のように記します。

  時間の経過とともに,僕は何となくこう考え
  るようになった。それは―その振動や闇や恐
  怖や気配は―外部から突然やってきたもので
  はなく,むしろ僕という人間の内側にもとも
  と存在したものだったのではなかったかと。
  何かがきっかけのようなものをつかんで僕の
  中にあるそれを激しくこじ開けただけだった
  のではないかと。ちょうど小学校時代に本で
  見たノモンハン戦争の古ぼけた写真が,とく
  に明確な理由もないままに僕を魅了し,その
  三十何年か後にはるばる僕を運んでいったわ
  けだ。でも僕にはうまく表現できないのだけ
  れど,どんなに遠くまで行っても,いや遠く
  に行けば行くほど,僕らがそこで発見するも
  のはただの僕ら自身でしかないんじゃないか
  という気がする。

 村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』で理不尽な暴力の歴史と向き合いました。日本の社会はその歴史から目を背け続け,現在ではその理不尽な暴力を受け入れつつあるのではないかと僕は思います。物語の中では,綿谷ノボルという人物が悪役のように描かれていますが,一方で作者は綿谷ノボルという人物に責任をすべて押しつけるような描き方はしていません。綿谷ノボル的なものを可能にしている様々な要素にはどのようなものがあるのか。ボリスが語っていた「この国ではな,理解できる範囲が狭い奴ほど大きな権力が握れるようになっているんだ」という言葉が,当時のソ連だけに当てはまるものであればよいのですが,残念ながら現在のどこかの国に当てはまってしまうような気がしてしまいます。
 この状況に抗するためにも,歴史と向き合い,それを自分自身のこととしてとらえ,自ら想像しながら考察し,行動していきたい。僕は村上春樹の作品を読みながら,そんなことを考えていました。


主要参考文献
・村上春樹『ねじまき鳥クロニクル(全三冊)』(新潮社)
・村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』(文藝春秋)
・村上春樹『辺境・近境』(新潮社)
・高校教科書『日本史探究』(実教出版)

・臼井勝美『満州事変』(中公新書)
・緒方貞子『満州事変』(岩波現代文庫)
・加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(シリーズ日本近現代史⑤ 岩波新書)
・及川啄英『関東軍』(中公新書)
・島田俊彦『関東軍』(講談社学術文庫)
・筒井清忠編『昭和史講義』(ちくま新書)
・筒井清忠編『昭和史講義2』(ちくま新書)
・筒井清忠編『昭和史講義【戦後篇】(上)』(ちくま新書)
・鈴木貞美『満洲国』(平凡社新書)
・河島真『戦争とファシズムの時代へ』(日本近代の歴史5 吉川弘文館)
・源川真希『総力戦のなかの日本政治』(日本近代の歴史6 吉川弘文館)
・伊勢弘志『明日のための現代史 上巻』(芙蓉書房出版)
・麻田雅文『日露近代史』(講談社現代新書)
・石原莞爾『世界最終戦諭』(中公文庫)
・田中克彦『ノモンハン戦争』(岩波新書)
・田中雄一『ノモンハン 責任なき戦い』(講談社現代新書)
・北川四郎『ノモンハン』(中公文庫)
・大木毅『独ソ戦』(岩波新書)
・麻田雅文『日ソ戦争』(中公新書)
・富田武『シベリア抑留』(中公新書)
・栗原俊雄『シベリア抑留』(岩波新書)
・長勢了治『シベリア抑留』(新潮選書)
・横手慎二『スターリン』(中公新書)
・岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(東洋経済新報社)
・イアン・ブルマ『イアン・ブルマの日本探訪』(TBSブリタニカ)
・小山鉄郎『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書)
・加藤典洋『村上春樹は,むずかしい』(岩波新書)

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