見出し画像

愛の器を大きくすること。

対話する活動していて、自分が経験したこともないような大きな悲しみを抱えている人と出会うことがある。

そういう場合、僕は簡単に「わかります。大変でしたね」などは言わない。目を閉じて静かにうなずている。

男性のM様はご自身のnoteで書かれているように、去年、大切な息子さまを亡くされた。

M様はまだ悲しみの中にいる。

話し始めて、すぐにM様はとても「女性性」の強い方だと分かった。「女性性」が強いと言うのはもちろん仕草や振る舞い、話し方が女性っぽいと言うわけではない。

その人の醸し出す雰囲気が柔らかいと言うことだ。言い換えると「母性がある」と表現できるかもしれない。

M様は確かにまだ悲しみの中にいるけれど、その「悲しみに最近甘みを感じるようになったんです」とおっしゃっていた。

その言葉を聞いたとき、自分のハートが共鳴するのを感じた。

M様が僕と対話をしたかった大きな理由が、どんな悲しみも受け入れることができるような大きな器を内側に持ちたいということだった。

そして、愛をいつも感じられるようになりたい、とおっしゃっていた。

一度話せばわかると思うけれど、M様は愛のある人間だ。母性がある方だ。だから、器が小さいわけがない。

愛の器が大きくなると言うのはどういうことだろうと、僕は自分自身に問いかけてみた。するとすぐに答えがやってきた。それは「愛の器には横の幅だけではなくて、縦の幅(深さ)も必要なんだよ」ということだった。

内側の奥深くに入れば入るほど静けさがある。それは共感や優しさと言うのとはまた別の側面なのだと思う。

人生で一番苦しかった時、僕は住んでいた場所の裏山に毎日のように通っていた。

その山には、神社があって、職員の方々が出勤してくる前の早朝、誰も参拝客がいない社務所のベンチに1人で座っていたことがある。

山から朝靄が降りてくる時間だ。

そこにひとりぼっちでいる時、平安に包まれていた。別に誰も僕に話しかけてくれるわけではない。誰も共感してくれるわけではない。

でも杉の木々に囲まれて一人で過ごしていた時、僕は深い平穏の中で安らいでいたのを思い出す。

静寂は人を癒す力があると思う。

それは共感と言うのとは、また別の側面だ。

愛には二つの側面がある。

一つ目はもちろん共感や優しさ、あたたかさのことだ。

そして二つ目は森林的な静寂だ。

M様は愛を知っている。「悲しみの甘さ」と言うものを感じられているからだ。そして、もしそれに加えて静寂を感じることができるのであれば、その器に深さが出てくる。

****

実は最近、瞑想状態が深くなり、苦しいことがあっても、嬉しいことがあっても、それが長続きしなくなってしまった。

人と対話する活動していて、これで良いのだろうかと思っていた時期もあるけれど、僕は森林のような奥深い器にならなければいけないのだと思う。

共感や優しさだけでは、相手の奥深いところと共鳴できない。

あらゆるものを受け入れることができるような深い静寂も合わせ持たないといけないのだ。

静寂から来る森林的な受容が必要だ。

僕は森林のような静かな空間そのものになりたい、と思う。

そのために僕はなるべくひとりぼっちの時間をつくる必要がある。

****

ひとの話を聞いていて、今の自分では到底共感することができないような苦しみを抱えている人と出会う。

自分が経験したことのないような苦しみを味わっている人に「分かります。大変ですね」と言うのは何か違う。

それはある意味で表面的だ。

実際、僕はM様を慰めるようなことはしなかった。

苦しんでいるひとは慰められることは期待していない。

ひとは森のなかでじっとひとりで佇む時間を通過しなくてはいけないのだ。

そして、大きな喪失を引き受ける役目を持つ人がいる。

その痛みや悲しみを他人が安易に取り除いてはいけないのだ。ほんとうのヒーラーと言うのは、その痛みと一緒にいる方法を教えることができる人間だ。そしてその孤独を完全に抱きしめることができてはじめて、愛がどういうことなのか分かる。

愛を体感として知る時、その人の家族、祖先、子孫、自分とつながっているあらゆる人々の魂を癒すことになるのだと思う。

なぜなら、あなたのいのちを何千年と紡いできた数多くの先祖たちは、愛や静けさをずっと探し求めていたからだ。

彼らはずっと戦うことや生き残ることに必死だった。

だから、愛と静寂がどういうことなのか知ることができなかったのだ。

M様は「悲しみには甘さ」があるとおっしゃっていた。

僕はその言葉を忘れないだろうと思う。

きっとこれから耐えられない悲しみや苦しみが襲ってくるのだろうと思う。大切なものを喪失するだろうし、手放すことになるのだと思う。

静寂を感じるために、M様と瞑想をした。

静寂を感じる時間が長くなると、ハートの中の愛も自然に感じることができるようになる。

不安や恐怖、後悔などが大きいと、ハートが閉じてしまう。だから、それに気づく必要がある。

悲しみを乗り越える必要はない。でも、付き合って行く方法はある。今この瞬間、静寂のなかにいることだ。今この瞬間には、あるがままだけがある。

「さとりと言うのは、今この瞬間ただくつろぎ、安らいでいることなんですよ」とお伝えした。

「今この瞬間、世界中を見渡して、ただ安らいでいる人はどれくらいいると思いますか?みんな、生き残ること、何かを手に入れることで頭がいっぱいになっています。でも今この瞬間、静かな愛を感じることができるのは何事にも変えがたい喜びなのだと思います」と僕は言った。

全ては愛だ。

話を終えた後、僕は夕暮れの街をひとりで歩いていた。日曜日だったから、多くの親子連れや恋人たちが街を歩いていた。僕は彼らとすれ違いながら、自分がひとりぼっちだと思った。でも自分にはひとりが似合うと思った。

僕はM様がおっしゃっていたような「愛の器」を大きくしなければいけないのだから。

やがて、歩道橋を歩いていると、夕日がもう少しで沈みそうになっていることに気づいた。それにたやすく気づくことができたのだ。なぜなら、僕にはいっしょに歩く恋人もいなければ、子供もいなかったから。

黄砂の舞う幻想的な夕暮れの空を眺めていると、突然、涙が出そうになった。悲しかったんだなと思った。物心ついた時からずっと悲しかったのだ。今でもそうだ。それは一生変わらないだろう。

それから僕は何事もなかったかのように歩き始めた。いつもの静寂が僕のことを包んでいた。

M様のnote


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?