東京闇市興亡史 東京焼け跡ヤミ市を記録する会 猪野健治編(1973年)

実は私の父は昭和7(1932)年生まれで、昭和20(1945)年の敗戦の時は13歳だったのですが、戦後の混乱期に父親とヤミ市で働いていた、という話を聞いたことがあります。

父の父親、つまり私の祖父は大学を出て日本光学(ニコン)に勤めており、戦争中は会社からほど近い品川区の戸越の社宅に住んでいました。父がいうには戦艦のレンズを作っていたそうなのですが、祖父が残した文章には、大正時代の終わり頃に満州の奉天にあったニコンの工場、満州光学の工場長をしたこともあったとありました。

しかし敗戦によってニコンの社員は全員解雇となったそうで、家族が路頭に迷うわけにもいかず、ヤミ市を始めることになったようです。神戸の親戚が靴を仕入れ、それを東京に運んで売っていたようです。

そういういこともあって、ヤミ市について知りたいと思い、戦後33年後に出版された『東京闇市攻防史』を読みました。以下はそのメモです。

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ヤミ市とは、日本が敗戦国となった昭和20年8月15日から昭和23年までの混乱期、生産も流通も商店も寸断された中、皆が生きるため、自然発生的に生まれたもの。

○東京の空襲
昭和17年4月18日から昭和20年8月15日13:20まで計122回、アメリカの爆撃機4870機が襲来。1万1千発の爆弾と38万9千発の焼夷弾を投下。死者9万6千人、負傷者7万1千人、76万7千戸が焼失・破壊。286万3千人が家を失う。

○失業者(昭和20年8月15日〜10月)
都民448万人、内地復員者(軍人・軍属)761万人、在外引上げ者150万人、合計1359万人が路頭に迷い、飢えに苦しみながら彷徨った。

・人だけでなく犬も飢えていたため、世田谷区でウェイトレスが野良犬の群れに襲われ食い殺されるという事件まで起きる。

○配給
成人一人、1日2合一尺(芋・芋のツル、芋のクズ、大豆、澱粉、麦粉など)カロリーにして1200cal分が国から配給された。
しかし人間の必要最低カロリーは2400cal。都市部で1715cal、農村部でも2084calしか摂取できなかった。よって小6の体格は昭和15年の小5の体格にまで落ち込む。

○餓死者
昭和20年8月15日〜11月 神戸・京都・大阪・名古屋・横浜で773名の餓死者
昭和20年8月15日〜11月 東京の上野・愛宕・四谷の三署管内だけで150人、
おそらく東京全域で千人を超えた。

○食料問題
インフレと、政府が生鮮食料品の公定価格を撤廃したことによる。加えて外米輸入が途絶、20年度石高は3920石という大凶作(農家からの供出は割当量の23%)

○小売物価指数
昭和8年を1とすると、20年8月は431.3、12月は827.1、21年5月は1624.9

・メチノール(ガソリン・アセトン・ホルマリンを混入した酒)を飲んで憂さを晴らす人が続出。しかし死に至る人も多くいた。

○闇市
関東尾津組 尾津喜之助 8月18日に新聞広告を出す。

軍需工場の下請け中小企業主を集めて、8月20日に尾津(新宿)マーケットを開店。

新宿東口 尾津(新宿)マーケット                   新宿南口 和田マーケット(400店)飯島一家内山二代目和田組 和田薫組長
新宿西口 民衆マーケット(1600店)東京早野会初代分家安田組 安田朝信組長

池袋 関口組
銀座 上田組
新橋 松田組
浅草 芝山組

在京華僑連合会
朝鮮人民連合会

○昭和21年の東京の闇市
主要JR駅周辺に出現 組合員総数約6万人
テキヤ19.5%、素人露天商79.8%(失業者19.9%、元商人8.8%、元工業主3.8%、復員軍人8.3%、軍人戦災遺家族10%、戦災者26.1%)

・激しいインフレによって給料だけでは生活できず、仕事を持ちながら土日だけ露天を営業する者もいた。

・警視庁の調査では、234ヶ所、7万6千人の露天があった。

・なんでも売られたが、中にはアメリカ軍の基地から出た残飯をシチューにしたものまで出回った。

・着ているものを売って売る人までいた。

○第三国人
朝鮮人236万人・中国人と台湾省民5万人のうち約半数は帰国。朝鮮人90万人と中国人4万人が日本に残留。

昭和20(1945)年11月にGHQは第三国人を「開放国民」と声明。つまり治外封建、日本政府の法規制を受けないということ。日本の警察は第三国人を取り締まれないことから、拳銃を持って武装し都有地や公有地を占領、1万6千人が露天を経営した。

○昭和20年10月に東京露天商協同組合、結成(警視庁)

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「衣食足りて礼節を知る」といいますが、空襲によって家や町を焼かれ、住むところもなく、食べる物もない、という状況では、日本人としての誇りやプライドも失ってしまったことでしょう。とにかく想像を絶する混乱期、無法状態であったことが伺えます。敗戦国・日本を統治したGHQのやり方は、日本のためを思ってやったことではなく、あくまでアメリカ第一であり、第三国人との対立も意図的に仕組んでいると思います。その後日本は高度成長により奇跡の復活を遂げましたが、しかし敗戦の後遺症は、戦後70年以上たった今も、教育やマスコミ、中国や韓国との関係で、引きずっていると思います。



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