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薬膳を始めたきっかけ

こんにちは、国際薬膳師/国際中医師の水藤 直子です。

どうして薬膳を始めようと思ったのか、よく聞かれる質問ですし、こちらからよく聞く質問でもあります。私が薬膳を始めるようになったきっかけは、母の病気でした。

今から15年前になりますが、私はカナダで会計士として働いていました。会計士としての方向性も決まり、一度失敗した結婚からも立ち直り、自然あふれる大好きな場所で、好きな人と新たな人生を始めようとしていました。そんな時に妹の妊娠のニュース。長く日本に帰っていなかったこともあり、一時的に日本へ帰国することにしました。

その頃私の家族は、母、腹違いで障害者の姉、妹と犬が2匹。父は早くに他界し、2匹の犬もメスという女系家族でした。母は、家事が大嫌いで人の世話を焼くのが大好き、近くに住む妹に家事を任せっきりにしていました。出産の前後数ヶ月だけでも何か手伝えればと思い、実家に帰ってきましたが、まさかそのまま日本に居るようになるとは、全く想像していませんでした。

久しぶりの地元に、私は浦島太郎状態でした。近所にあったはずの病院はコンビニに代わり、電車の駅は増え、商店街は錆びれ、すっかり様変わりしていました。アメリカ・カナダでの生活スタイルとは全く違うため、戸惑うことが多々ありました。そんな中で迎えた姪っ子の誕生。姪っ子が生まれた瞬間、分娩室の外で聞いた産声は、一生忘れる事がないでしょう。それから初めてその子を腕に抱いた時の感覚も、軽くて壊れそうなほど小さな体の温かさも、忘れることはないでしょう。オムツを変えたり、寝かしつけたり、ぎこちなかったけど、楽しかった。

ある日、母が近くの整形外科からちょっと不安げな顔で帰宅してきました。手には他の病院への紹介状。その整形外科の先生は、日本はもちろん、アメリカでも有名なスポーツ整形の権威。親身に患者のことを考え、見立てが非常に良いと評判の先生でした。その先生から、紹介状を書くから、すぐに呼吸器の専門医のところへ行け、と言われたのでした。その頃のことは、はっきりと思い出せませんが、その専門医に行った帰り、母はたくさんの資料を持って帰って来たのは覚えています。そのうちの一つが「間質性肺炎とは」と書かれたカラーで見開きの資料だったと思います。それから、母の病は治療薬がない、対処療法のみの難病指定されている病気だとわかりました。平均生存率は、早い人は発病して2〜3年、平均で5年くらいといわれています。まだまだ元気で気丈な母で、動揺した様子を見せませんでしたが、死刑宣告のような告知にどんな気持ちだったのか、想像も及びません。

目の前にいる人が、期限付きで死を間違いなく迎える、なかなか受け入れられない事実でした。母と私は決して仲の良い親子ではなかったし、物事の考え方や見方など、ことごとく違っていたので、よく喧嘩になっていました。それでもやはり辛かった。人間いつかは必ず死を迎えますが、動揺しました。きっと母の方が動揺しているに違いなかったのに。

どんなに状況が受け入れらなくても、気持ちの整理がつかなくても、夜と昼は繰り返し、一日24時間は淡々と過ぎていきます。ふとカナダの友人が、食事療法で子宮内膜症を克服し、子供を2人授かったのを思い出しました。彼女が実行していたのは、マクロビでした。マクロビは、日本人がアメリカで始めた食事療法で、玄米菜食を中心とした食事法です。最初はマクロビにしようかとも考えましたが、色々と調べるうちに、日本にも玄米食を軸に食事療法を教えている女性がいることを知りました。その方の方法は、マクロビと似ていましたが、もっと日本に根ざした方法に思えたので、思い切ってそちらを勉強し実行することにしました。

最初は、失敗ばかりでした。私は、元々仕事が主で料理はまともにしたことのない人間でしたので、たくさん不味いものがテーブルに並んでいたと思います。ぬか漬けや沢庵漬け、白菜漬けなども初めての経験で、そこは母が見かねて助けてくれました。ただ玄米は上手に炊けても、自分でしっかり咀嚼して飲み込まないと、胃が悪くなってしまう事があります。そんな事でも母と言い争いになりました。私は、相手のためにと思ってやっていた事を、真っ向から否定されたようで、腹が立ちました。後になって、それは自分の気持ちの方が大切で、母のことは本当に考えていなかったんだと、気がつきました。

またこの方の食事療法は、食事だけではなく、自分を内側から変える事も重要な一つの要素でした。その部分は私ではどうしようもない事で、行き詰まりを感じるようになっていました。そんな時に、薬膳というものがあることを知りました。何だろうと思い調べるうちに、本草薬膳学院という学校があり、本格的に薬膳を教えている場所で、通信教育もやっている事もわかりました。なぜ始めようと思ったのか思い出せませんが、何かに縋り付きたかったのかもしれません。二年の期限付き通信教育、最初は全く理解できませんでした。まず漢字が多く、読めない。通信教育は自分ひとりの勉強になるので、仕事が終わり、家のことを済ませて夜寝る前に、頭を抱える日々でした。何とか、まるまる2年かかって無事に終了し、国際薬薬膳師のテストにも合格しました。それから研究科へ進み、もっと深く中医学の学びを進めていきました。その間、母の病気は確実に悪くなっていました。自分が出来ることは、食事を作り、掃除や洗濯をすることくらいでした。確実に死に向かっている状況が見える中、時々心が崩れそうな気がする事もありました。とにかく目の前のことを淡々とこなす事で、自分の気持ちを冷静に保っていたような気がします。

あの頃、母の病気について中医学からの十分な知識を持っていたとは言えません。母の症状や顔色、頬の色などから使う食材を選び、四季の食材を使いつつ、毎日食事作りをしました。時々大成功なお惣菜もできましたが、おいしくない時もあったはずです。たまに文句を言われましたが、ありがたいことに、なんだかんだちゃんと食べてくれました。食べる量は徐々に減っていきました。約10年の闘病生活で、浮腫のため2度入院しました。最後の1年はずっと酸素吸入器のお世話になりました。途中からオムツも利用しました。それでも最後まで、母は自分の足で歩き、自分で食事をし、好きな朝ドラも見ていました。

母が亡くなる2週間前、私の住んでいる地域で未曾有の自然災害が起きました。雨が連日降り続き、市内へ通じるすべての道路が土砂崩れによって寸断され、水道は市内ほとんど全域で止まり、食糧も入ってこなくなりました。ただ幸いなことに、小学校が休校になり、大好きな孫たちとの時間が思わぬ形で叶ったようでした。しばらくして、食糧は海路から入るようになり、学校も再開されたと思います。

そんな土曜日の朝でした。私が仕事に向かう時、母はやや遅めの朝食を食べていました。土曜日は仕事が忙しい日で、携帯に10回はあった着信に全く気が付きませんでした。4時過ぎくらいに妹からの電話に折り返すと、「ばあさん、死んだ」と開口一番に言われ、私は間抜けにも「どこのばあさん?」と聞き返していました。数時間前に、食事をしていた人が突然死ぬなんて思ってもいなかったからです。その日が来るのはわかっていましたが、突然の死のように感じました。それからは、色々な事に追われ、毎日何を思って、どんな風に過ごしていたか全く思い出せません。

母は間質性肺炎と診断され、よく10年も頑張って生き抜いたと思います。母の持って生まれた生命力もあったと思いますが、食事の影響も大きかったと思います。食事は、空気と同じように、生きていくために、必要不可欠のものです。食べ物から私たちの体に必要な、血を作り、筋肉を作り、体液を作り、体の各組織が働けるわけです。四季を通じて、温度と湿度も変化します。季節によって、服装を変えるように、食材も調理方法も変えます。人にはそれぞれ体質があるので、暑がりの人は、冬でも軽装のように、食事も寒がりの人と同じものを選ばないようにします。真夏に真冬の格好をすると、暑くて大変ですよね。食べ物が、体に与える影響も同じです。

今は何でも簡単に手に入り、好きなものを食べれる時代です。不調があれば、自分の食べていたものは忘れてしまったかのように、サプリや薬に頼り、また同じ事を繰り返す。タンパク質が必要と言われれば、食事を抜いてプロテインを摂る。アメリカやカナダは、社会問題から病気まで、あらゆる面で日本の先を行っています。向こうで生活した約9年の間に見てきたことと同じようなことが、今私の周りで起きています。”You’re what you eat”という言い方が英語にあります。健康も病気も、心のバランスも、私たちが食べる物と関係しています。心と体は別々の所から出ているわけではありません。今不調がある方にとっては、薬膳は遠回りに感じるかもしれません。結果がすぐに出て、はっきりわかるものでもないし、非常に地道で地味なことです(中にはすぐに効果を感じられる薬膳もありますよ)。でも薬膳が健康への一番の近道だと思っています。とにかく薬膳を始めてみましょう。最初はよくわからなくても、根気よく続けていると、気がついた時、体も心も変わっているはずです。もちろん薬膳への理解も深まっているでしょう。

~プロフィール~
水藤 直子(すいとう なおこ)
国際薬膳師
国際中医師
本草薬膳学院 広島校講師

広島県呉市出身。学習院大学卒業後、大手総合商社での勤務後、渡米。カナダのブリティッ シュコロンビア州立大学(The University of British Columbia)を卒業後、バンクーバーで会計士として働く。アメリカ・カナダでは勉強、仕事、友人を通じ、様々な文化思想に触れ、食が健康に与える影響についても気づかされる。日本に帰国してからは、難病の母の面倒をみながら薬膳学・中医学を学び始め、国際薬膳師・国際中医師の資格を取得し、今に至る。現在は、本草薬膳学院広島校講師、お寺で薬膳茶会、自宅で薬膳教室など、薬膳普及活動をしている。

~強み~
薬膳、英語、豊富な海外経験(英会話教室や個人的にも英語を教えている)

~やりたいこと~
薬膳を広める

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