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「知っていること」が剥がれていく


「ワークショップ」「ダイアログ」という手法を用いて
人が「知る」「つながる」「話す」場がとてもたくさんあって、
企画をする側としては、その状況を当然と思ってしまいがちなのだけど、いやいやそんなことないんだった、と思う場面に出くわすことはたくさんある。

「知っていること」で、言葉や空間を埋め尽くしてしまう人に時たま出会う。
なんというか(勝手に)心がきゅうっと小さくなってしまうのだ。
これ以上、あなたの見つめているものを見せてもらえないのではないかと寂しくなってしまう。

知っていることが増えたことで、私たちは「それ」を評価できると思うこと
知っていることが増えたことで、「できなかったことができる」と感じてしまうこと。
後ろめたさや悔しさが、「知っていること」にまぎれて出せなくなってしまうこと。
ちょっとだけ怖く感じてしまうのだ。

これは、グリーンズの学校で(おおよそ同じ主旨のことを)各クラスで話してくれている、「あり方」をまとめたもので、私は最近特に、①がとても大事と感じている。②と③は、人に頼れる。相手がいてこそ見えてくるヒントなのだけど、①ばっかりは、本人の意思と共にある。

「知っていること」が剥がれていったその先にあるものは、何ももっていない自分自身であり、何もかもそこにある自分自身なのだ。

ってすごい厄介なことを書いているけれど、私は至って冷静である。

「知っていること」は、その見聞きした「知」を伝達するだけで、議論が成熟したり、問いが深まるということはない。それは学びではない。
学びの第一歩は、今等身大の自分を、「私が今思うこと」示すことだ。

たとえ見聞きしたものが「わからないもの」として自身が受けとめ、悩むんだって全然いい。ときには沈黙したって大丈夫。その結果でてきたあなたの「私が今思うこと」を見つめているから。

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