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惑星の住人たちのハルキ・ムラカミ論-『我々の星のハルキ・ムラカミ文学-惑星的思考と日本的思考』

「図書新聞」No.3580 号2023年2月25日(土)に、『我々の星のハルキ・ムラカミ文学――惑星的思考と日本的思考』(彩流社)の書評が掲載されました。
http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。 


 村上春樹愛好者の交流の場として設立され、京都や東京、オンライン上でもさまざまなイベントを開催し、オンライン雑誌『Murakami Review』を毎年刊行している「村上春樹研究フォーラム」をご存じだろうか。このフォーラムの運営メンバー四名(小島基洋、山﨑眞紀子、髙橋龍夫、横道誠)が編著者となって作成したのが本書、『我々の星のハルキ・ムラカミ文学――惑星的思考と日本的思考』だ。
 まずはタイトルがユニークだ。〈ハルキ・ムラカミ〉が、村上春樹が国際的な作家であることを示していることは想像できる。だが、〈星〉や〈惑星〉はいったい何を意味するのだろう。その答えは、京都大学教授でフォーラムの代表である小島基洋による「はじめに」にあった。村上の世界進出のきっかけとなったのは米国でのデビューだが、村上文学はもはや米国というゲートを通じて世界に広まるのではなく、各国に直接届くものとなっている。その状況を踏まえると、世界の同一化を促すグローバリゼーションの元である〈地球(globe〉よりもさまざまな文化が点在する〈惑星(planet)〉のほうが、世界を表す言葉としてふさわしいというのだ。では、なぜムラカミは言葉と文化の違いを乗り越えて世界中に受け入れられるのか。本書ではその答えを、「翻訳」、「歴史/物語(hi/story)」、「海外作家」「紀行」という四つの論点で探っている。
「翻訳」では、村上がムラカミとなる際に不可欠な翻訳ついて考察が行われる。日本文学を多数ポーランド語に翻訳しているボストン大学講師のアンナ・ジェリンスカ=エリオットと同じくデンマーク語に翻訳しているメッテ・ホルムが、『1Q84』を翻訳する際に問題となった点について、他言語の翻訳者の訳例も交えて語る(翻訳:杉野久和)。京都府立大学准教授の横道誠は『国境の南、太陽の西』を巡るドイツでの論争に実は翻訳の問題が絡んでいた点について、小島基洋は『パン屋再襲撃』の〈相棒〉の性別が言語によっては確定されてしまう問題について論じる。
「歴史/物語(hi/story)」は、日本を描く村上作品の特殊性と普遍性を明らかにし、そこから海外で受け入れられる理由を探ろうというものだ。専修大学教授の高橋龍夫は、『海辺のカフカ』には二十世紀に起きた痛ましい歴史上の出来事が盛り込まれており、その犠牲となった人々への鎮魂と再生を村上は表現しようとしたのだと論じる。京都府立大学共同研究員の内田康は村上の小説に神話的物語構造が繰り返し現れる点に着目し、〈喪失〉と〈父=王殺し〉という二つコードから複数の小説を横断的に分析する。
「海外作家」では、村上がムラカミとなるためには日本文学から抜け出す必要があったとし、村上に多大な影響を与えた米国人作家について考察する。青い星通信社代表の星野智之は村上の初期三部作に見えるジャック・ロンドンの影響について論じ、慶應義塾大学准教授のジョナサン・デイルは主人公とその影の部分を担う分身によって物語を展開するフィッツ・ジェラルドやレイモンド・チャンドラーの手法が、村上の〈僕〉と〈鼠〉に反映されていると指摘する(翻訳:小島基洋)。
「紀行」は、村上本人がムラカミとなって物理的に〈惑星〉を巡っている点に注目する。民族誌研究者の林真は村上の紀行文と小説に強い関連性があることを明らかにし、日本大学教授の山﨑眞紀子は村上が『ノルウェイの森』を執筆した部屋をつきとめ、同作品がなぜローマのその部屋で書き上げられねばならなかったかを探る。専修大学教授の高橋龍夫は、香川県高松の『海辺のカフカ』に登場する場所について、紀行文からの引用も含め、小説の時系列に沿って解説する。
 さらに巻末には、山口大学名誉教授の平野芳信による「村上春樹関係年譜」があり、誕生から二〇二二年までの村上の詳細な経歴が記載されている。
 十編の論考の中には専門的に踏み込んだものもある。すべてを読み、理解しなければならないということはないだろう。興味あるものを自分なりに読み、共感したり反発したりすることで、惑星の住人のひとりである自分の中でムラカミ像がいっそう明確になる。そうした過程を楽しむことが大切なのではないだろうか。
村上春樹研究フォーラムのイベントは一般人も参加可能だ。本書を読み、ウェブサイトで興味を引かれるイベントを見つけたら、参加してみてはどうだろうか。


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